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2008年1月22日火曜日

織田信長の歴史的評価の転換

 たしかカントあたりでしたと思いますが、理性や伝統などよりも歴史がもっとも正しい判断を下すというような事をいったのは。私などは歴史といわず、「時代」といって、要するに時代に迎合するのがもっとも正しい生き方みたいなことを周りに話し、「自分はジェダイの騎士になるんだ」などと、話をとんでもない方向へとよく持っていきます。
 しかし歴史学を専門にやっている人ならわかるでしょうが、歴史的評価というのもしばしば時代によって変わる事があります。ちょっと歴史の投稿が少ないので、補充分とばかりにこの手のシリーズをちょっと書いときます。

 日本において歴史的評価の転換が起こったのはいうまでもなく戦後の転換期です。それまでは皇国史観とも言うべき、天皇を中心とした歴史的分析が主だったのが戦後、それぞれの時代ごとに評価が行われるようになりました。その中で最もとはいえませんが、案外大きく評価が変わったのが織田信長だと私は思っています。
 現代でこそ時代の変革者、天下統一の礎を築いた武将として評価の高い信長ですが、私が聞く限り戦前はどうもそうじゃなかったようです。天下統一を成し遂げたのはやはり秀吉で、信長はその秀吉を雇っていた軍閥の主みたいな評価だったと、時々聞きます。それで信長の評価はと言うと、実は当時に天皇を保護した尊王の武将として評価されていたようです。

 少なくとも尊王の武将と言う事実には間違いはありません。応仁の乱以後、天皇家もえらく貧乏な生活を余儀なくされて、なんでも路上で自分で読んだ和歌を部下に売らせて生計を立てていたくらいらしいです。その後信長が京都に入場した後は天皇家を非常に援助し、それが評価されて皇族にしか拝領が許されなかった香木の「蘭奢待」(漢字あっているかな?)も信長に下賜されています。
 そのような意味合いから先ほどの評価につながったのだと思いますが、現代の目からすると非常に面白い評価だと思います。なお、実際には信長は天皇家を取り潰す……までも行かなくとも、京都から居城の安土へと連れて来て、どうにかするつもりだったらしいです。自分も安土城跡へ行き、天皇を引き込む屋敷跡を見てきました。
 そういう風な意味合いで見ると、この戦前の評価は非常に皮肉な評価だと思います。次回は最も評価が変わった楠正成をやります。

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