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2008年2月20日水曜日

多神教としてのキリスト教の背景

 以前の記事に書いた「多神教と一神教の違い」について友人から、
「でも、キリスト教も多神教的なところもあるよね」
 と指摘されたので、今回はその辺のところをちょこっと扱います。ダビンチコードも読んだばっかだし。

 実を言うと、私自身もキリスト教、ひいてはイスラム教は多神教と見ております。ただ教義としての分け方としては仏教やヒンドゥー教徒は一線を画すので、前回は一神教と書きましたが、厳密に言うならキリスト教は多神教でしょう。
 たとえば、仏教では主神は一応のところ「大日如来」となっていますが、その下に千手観音やら不動明王、そしてそれに使える四天王、ひいては風神雷神様も日本人は神様として慕っていますが、これをキリスト教に当てはめるなら、「GOD」の下には聖ガブリエルから聖ラグエルなど数多の天使がおり、そして邪神とも言うべきサタンやベルゼブブなどもいます。これらを神性を持った天使らの存在を日本人らしく一つの神様と見るならば、やっぱり多神教になるんじゃないでしょうか。

 と、ここまでの内容だったら世間話程度、せっかくの陽月秘話がこの程度で終わったら名が泣きます。そこで、今日はさらにキリスト教の吸収の歴史も紹介します。
 さてさっきに挙げた「サタン」。それこそ悪魔信奉者を「サタニスト」と呼んだり、悪魔の代名詞となっていますが、この名には実は語元があります。それなにかと言うと、実はエジプト神話の中の「セト神」、例の海馬瀬人の元になった、確か洪水を引き起こす神様かな、これが元らしいです。
 もう一度よく名前を見てみましょう、セトとサタン、よく見てみると似ているでしょう。詳しいつづりはわかりませんが、古代の中東で使われていた言葉には現代のアラブ語のように母音記号がなかったので、「マホメット」、「メフメト」、「マハマット」というように、呼び方に数種類あったようで、これもそのバリエーションの一つらしいです。

 さてこのセトとサタン、この二つの神は名前が同じなだけでなく実はまんま同じ神様です。なぜかというと、当時の宗教というのはまさに作られる物語で、固定された話ではなかったのです。基本的には為政者が支配民に対してその支配の正当性を認めさせるために、利用されていたのが実情です。そのため、ある民族が他の民族、この際部族でもいいですがそれを征服した際、征服された民族の神様を邪神として、征服した民族の神が正義の神だったというように神話を作り、そしてそれを流布する事によって正当性を作っていたようです。そのため、言語学のように宗教上の神話は一つ一つに征服や習合の痕跡があり、それを辿る事によってその経過を探る事が出来ます。

 このように、キリスト教の神話の中にも習合の歴史が垣間見えます。このサタンのみではなく、たとえばオリエント地方の神話上で豊穣の神である「バール」、これもちょっと言葉をつけて「ベル(バール)ゼブブ」と、多分後ろのゼブブは悪い意味でしょうね。これはオカルトマニアならすぐわかる、ハエの王で旱魃をもたらす悪魔とされています。もちろんキリスト教に限らず、日本の仏教やらにもこういった特徴は見受けられます。まぁ日本は仏教神話より古事記の中の「土蜘蛛」や「酒点童子」などがこういったものの代表ですが。

 こういった点に着目し、様々な仮説を作るのがそれこそさっきのダビンチコードの作者のようなオカルトマニア達です。恐らく私もその部類に入ると思いますが、まぁ見ていて面白いし、話していても面白いないようだと思います。けどやっぱり本筋の人たちからすると相当頭に来る話もあるらしくて、先ほどのキリスト教だと、一つ一つの天子の名前や悪魔の名前をびっしり書いた「エノク書」という文献がバチカンから偽典と銘打たれています。しょうがないだろね。

 ただこの話でわかってもらいたいのは、神話や物語は基本的には征服する側のお話であって、真実とは限らない事です。前回の日本古代史の話でも少し書きましたが、様々に想像を張り巡らせ、真実にのみ向き合うのが唯一にして正しい姿勢だと思います。そう言いつつ、現代の神話は民主主義なのかと思って今日はお終いです。

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