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2008年5月31日土曜日

経済学とはどんな学問か

 社会学にもメタ理論といい、社会学自体は一体どんな学問なのかということを追及する分野があります。そこで今日はこのメタ理論を経済学に適用して話を進めようと思います。

 まず経済学はいつ、どのように始まったのかという事が重要になってきます。そのいつ始まったか、つまり起源ですが、それは誰も疑うことなく経済学の祖、アダム・スミスが彼の著書「諸国民の富」を出版した時期でしょう。ではそのアダム・スミスとはどんな人物なのでしょうか。
 ここではいちいち細かく取り上げないのでできればウィキペディアを見てもらいたいのですが、恐らく経済学部の学生でもほとんど誰も知らないアダム・スミスの事実として、彼の前歴があります。彼が大学で何をやっていたのかというと、実は道徳学の教授をやっていました。

 実際、アダム・スミスは「諸国民の富」を発表する前に「道徳感情論」という、道徳学の本を先に出版しています。一説によるとアダム・スミスが「諸国民の富」を書いたのは、当該社会、彼にとってはイギリス社会にある富を如何に公平に分け隔てなく分配するかを考えたためと言われています。当時は今の格差社会も真っ青な貴族社会。一部の人間に富が集中し、集めた連中がそれを浪費してしまうことを憂えていたと言われています。

 よく一般で言われている内容を見ていると、どうも経済学というのはお金儲けの学問と捉われがちな気がします。しかし実際のその起源や成り立ちから考えると、私の中では社会システムを研究する学問だと思います。つまり、社会に蔓延する貨幣を中心におき、それを如何に効率よく使い、分配するかというシステムを考える学問という事です。同じように働く人には同じ分の報酬を与えたり、一箇所に富が集中しないように税金をそういった人に多くかけるといった税体系などのシステムを考える、という具合に。事実、これまでの経済学というのは実際そんな学問だった気がします。

 然るに、現在の経済学はというとこれまでの原理原則とは逆に、如何にして自分のところへ富を集中させるかということを考える学問に成り下がってしまいました。去年に死んでくれたフリードマンとその一派なんてその典型でしょう。これは前々から思っていたことですが、どうも最近の経済学は商学と比べて、何も代わりがないように思います。実際アメリカの大学で安売りされまくっているMBAというと、経済学の修士号のように思われていることが多いですが、実際には「経営学修士号」で、範囲で言ったら経済学と商学の中間、というより商学の範囲だと思います。

 誤解されがちですが、経済学というのは本来、平等主義の元に生まれてきた学問です。だからこそ社会主義やら共産主義についても研究がされたのですが、このところは本当にこの手の分野は金にならないこともあり疎かにされています。もし現在学んでいる方がこれを読んでいるのなら、こういった点に注意して今後は学んでください。

2008年5月29日木曜日

首相公選制の是非

 現在アメリカでは大統領選で非常に盛り上がっていますが、日本は韓国やアメリカのように、最高権力者である首相を先の二国と違って国民の直接投票では決めず、議会での最高勢力を誇る政党の中から代表を選ばせて決めています。この制度はいちいち名前を挙げるのも恥ずかしいくらい当たり前ですが「議院内閣制」といい、これは明治期にイギリスの政治制度を模倣したことから日本に定着しています。なお、タイでも同じそうです。

 目下の所この制度に不満を呈す人はいませんが、かつての90年代後半、政治汚職事件が続き政党政治に不満が持たれた頃はものすごい批判を受けまくっていました。その時代というのも小渕敬三元首相が首相に就任した際で、参議院では現在のように野党が多数派となって衆議院では小渕氏を指名したにもかかわらず、参議院では現在もなおがんばっている菅直人氏が指名され、ちょうど自民党も人気がなかった頃で、その晩のニュースステーションでの電話アンケートでは確か十倍ぐらい差が開いて菅直人氏がいいという結果になってました。
 そんなもんだから、当時各メディアもアメリカのように、「最高権力者くらいは直接投票で決めるべきだ」という論陣を張り、この首相公選制の必要性が叫ばれました。

 結論から言うと、私はこの首相公選制には反対です。というのも日本の首相、というより官邸はかねてより権力が弱いとされ(小泉時代にえらく強くなったが)、現在のように議会でねじれ現象が起こるととたんに足を取られて何も決定できなくなる可能性が高いからです。実際、アメリカや韓国はほとんどの時期を大統領の与党と対立する野党が議会で多数派を敷いているねじれ状態にもかかわらず何とかやっていっています。
 何だかんだいって、この議院内閣制というのは安定性という面には非常に力強さがあります。その分、急激な改革や決定ができなくなるマイナス面もあるのですが、現状はこのままのほうがいいと私は思います。それこそ首相公選制をやるというのならまず、首相の権力をまず拡充する必要があります。

 しかしだからといって国民の望まない最高権力者を抱えねばならないというのは非常に不幸なことです。かつての森政権時代なども先ほどの小渕政権の初期同様、首相公選制の必要性が叫ばれましたが、確かにあんなのがでてくると考えさせられます。
 そこで、これは人の受け売りですが中間を取るいい方法があります。あえて言うなら、「首相予告選挙制」とでも言うべきでしょうか。この方法とは実に簡単で、国民の意思を問う衆議院選挙の際に、議会で多数派を勝ち取った場合に誰を首相に指名するか、各党にあらかじめ予告させるのです。

 たとえば、現時点で衆議院選挙が起こった場合、自民党は選挙日前までに多数派を勝ち取った場合、現総裁の福田氏を指名すると宣言します。これに対して民主党は小沢氏を指名すると宣言し、他の泡沫野党は独自に候補を立ててもよいですし、民主党に協力するとして小沢氏に同意するのもありです。
 この方法で何がいいのかというと、その予告する首相候補がそのまま選挙の顔となるとともに、ねじれ現象を回避しながらも国民が間接的に首相を選べるという二点です。さらに政党に対してあまりに国民の不興を買うような候補を立てさせないとともに、国民もその当該政党は嫌いだがその首相候補は応援したいという場合に気兼ねなく投票ができるようになります。その逆も然りで、自民党は嫌いだが、小沢が首相になるのはもっと嫌だという場合にも存分にその意思を発揮することができます。

 実際には単独与党を作れない場合などもあり、必ず実行できるとは限らないのですが、マニフェストなんかよりこうした方がずっと顔の見える選挙、もとい政策方向の見える選挙となりそうなので、個人的に推進したいと思っています。

2008年5月28日水曜日

ゲーム会社栄枯盛衰、主にテクモ

 以前友人らと休みの間にどんなゲームをやるかという話で盛り上がった際に、ある友人が、
「俺、自由度の高いゲームをしたいんだよね」
「自由度高いってんなら、昔の「くにおくん」でもやれば。それにしても、あのゲームは自由度高かったよな」
 と、いう話になり、そのまま昔のゲーム談義になりました。

 ちょうど私達の年代は家庭用ゲーム機が発達した時代でもあり、また凋落し始めた時代でもありました。90年代は各産業において不況が続いた時代でありながらゲーム業界だけは成長をし続けて羽振りがよかったのですが、98年にとうとうピークを迎え、それ以降は少子化が影響したのか現在までずっと下降線を辿っております。ちなみに、98年は「ファイナルファンタジー8」が発売した年で、奇しくもこのシリーズでも8がピークとなり、以降は売り上げが落ちていっています。

 それこそ、ファミコンからスーパーファミコン、そしてプレイステーションくらいまでは初期投資も少なく、また簡単に作れるということで参入会社がたくさんありましたが、その後段々と採算が取れなくなるとかつては人気シリーズを排出していたゲーム会社ですらどんどん潰れていきました。前述の「くにおくんシリーズ」も販売元のテクノスが潰れ、あんだけ私が小学生時代に運動会やら時代劇で遊び倒したゲームながら、今では記憶する者も少なくなっています。

 この「くにおくん」のように完全にシリーズが途絶えたものもありますが、中には会社は潰れたものの版権を別会社が引き継ぎ、続編が出されるということもありました。最近の例だと今度最新作が出る「ヘラクレスの栄光」を作っていたデータイーストの例があります。何気に、この会社のゲームは昔からよくやっており、「ヘラクレスの栄光」はもとより格闘ゲームの「水滸演武」なんて何時間遊んだんだろう。この会社は結構面白いゲームを作っていたのですが、末期になるとにっちもさっちも行かなくて、なんでもしいたけを栽培して売っていたというくらい切羽詰っていたらしいです。ゲーム会社がしいたけ作ってもなぁ。

 同じように版権が引き継がれる例だと、90年代中盤においてゲームの王様であった格闘ゲーム業界で、カプコンと雌雄を争ったSNKもあります。ここは「キングオブファイターシリーズ」、いわゆるKOFで一時代を築いたものの、格闘ゲームブームが去るとともに一気に経営が傾き、会社を買収したアルゼに版権も移りましたが、よくはわからないのですがなんかまたクーデターを起こして、版権を奪い返したとかなんたらとか。まぁ奪い返したところで、昔の威光に頼ってても先は暗いんじゃないかな。

 このSNKとは逆に、格闘ゲームブームが去っても命脈を保ったのは今も言ったカプコンです。ここは格闘ゲームのブームが終わる頃には結構経営状態が悪かったらしいのですが、乾坤一擲の思いで2Dゲームから3Dゲームへの転換をはかり、そうして生み出された「バイオハザードシリーズ」にて復活しました。ちなみに、カプコンと聞いて私達の年代は恐らく「ストリートファイターⅡ」か、「ロックマン」が出てくると思います。

 このカプコンに限らず、ファミコン時代から生き残ったゲーム会社というのは時代々々でうまくゲーム分野の転換を図っています。特に、私が肩入れしているのはテクモです。
 このテクモという会社には本当に小さい頃からお世話になっていると自負できます。それこそ、最初のゲーム「キャプテン翼」なんてシャレにならないくらい遊び倒しています。「キャプテン翼Ⅴ」に至っては、あえて敵のドリブルを石崎君の「顔面ブロック」で止めたりしてました。
 この会社もカプコン同様、プレイステーションなど当時に次世代機といわれたハードが出始めた頃に3Dへとうまく転換が図れ、現在では世界中で評価される3D格闘ゲーム「デッドオアアライブシリーズ」(ちなみに私はあやね使い)を筆頭に、和風ホラーの代表作である「零シリーズ」、あとトラップで敵を倒すという一風変わったシステムがよかった「影牢シリーズ」を出しました。私はこれらの大体は遊んでますね。

 ついでに書くと、最初のあの「キャプテン翼」は原作もそうですけどゲーム内容も相当ぶっ飛んでおり、私なんてⅣで試合開始と共にセンターサークルからストラットにメガロゾーンシュートを打たせたら、GKを含めてブロックに来た選手四人をふっとばし、挙句にゴールネットも突き破りました。もはや少林サッカーだろこれ。
 V以降はやってないのですが、どうもこのゲームのDNAはテクモに残っていたのか、以前にみたゲームのレビューによると、「レッドカード」という、あからさまに何かやってくれそうなタイトルでまたサッカーゲームを出していたそうです。パッケージ裏のキャッチコピーからして、「神の手を超えろ」と、ここまでくるとまともなサッカーゲームはもう期待できません。事実、サッカーゲームの癖に各選手には必殺技ゲージがあり、たまると相手選手にソバットを食らわせたりできるそうです。よく、こんな会社が生き残ったなぁ。

2008年5月27日火曜日

武田邦彦氏のシンポジウム 追記

 武田氏のホームページでも前回私が行って来たシンポジウムの内容がアップされたので(http://takedanet.com/2008/05/post_917a.html)、その内容に合わせて私の感想も述べようと思います。実際、前回だけじゃ書き足りなかったし。

 まず武田氏が挙げている他のパネリストからの主要な反論(1)の、
「 環境白書には「極地」としている中に北極の海氷や南極の氷は入らない」
 これは環境省の役人の方が言っていた内容ですが、この人に言わせると武田氏が環境省を批判する際によく使う環境調査機関の報告書によると、その報告書内の極地を武田氏は南極と北極だけを定義していると述べていましたが、環境省の人は報告書の別のページに、緯度と経度で極地の定義がなされており、その範囲は北極や南極だけでなく、グリーンランドやシベリアの陸地における氷についてあれこれ書かれてあると主張していました。この件に関しては武田氏も今後続報を出すと言っております。

 次に(4)の「環境負荷はお金の額とは比例しない」の件ですが、その言わんとする内容は、武田氏は環境を考えて生活の消費を控えても、その分余ったお金は別のものに使われては結局環境への負荷は一緒だということを言っており、結局どれだけお金を使うかが環境の負荷の大きさも決める比例関係にあると自著で述べています。しかし、たとえば100万円ガソリン代に使うのと、100万円食料に使うのでは最終的に排出される二酸化炭素量は違う、というのがこの意見の中身です。これについては武田氏も強く反論はしていませんでした。

 そして今度は一般参加者からの質問ですが、まず(1)の、
「国民はリサイクルを始め政府の主導する環境対策を進めているのに、なぜ二酸化炭素は減るどころか、増えているのか?」
 ですが、これは1990年と現在を比べて環境対策技術は進歩して、国民の環境への意識が高まったと言われているが、実際の統計などを見ると増えているがこれは一体どうして、というような内容でした。
 言われて見ると確かにという話で、この質問についてはパネラーの方が答え、事業単位では減っているものの運輸部門と民生部門、つまり国民の生活レベルでの排出が増えたことによる結果らしいです。

 次に(2)の、
「二酸化炭素が蓄積している「層」が上空にあると政府は説明しているが、二酸化炭素が「層」をなすのか?」
 という質問ですが、これについては武田氏とパネラーそろって、「えっ?」ってな感じであまり話が進みませんでした。質問をした方は溶接を仕事としている方で、普段から炭酸ガスを扱い専門家を自称していることから、二酸化炭素が上空の対流圏まで登ると二酸化炭素同士で固まり、層を作って温暖化を助長するらしいのですが、武田氏はそんなことはないと言い、二酸化炭素は対流圏で他のガスと混合、霧散するので層にならないといいましが、質問者はそんなことあるはずがないが、今日はこれまでにしておくと言って席に着きました。

 実を言うと、私もいわゆるガスの専門家とまでは言えませんが、ガス関係に普段携わっているので、早速近くのその筋に詳しい人に今日聞いてみましたが、そんな話は聞いたことはないと、武田氏と同じ解答が聞きました。私自身、炭酸ガスが層化するなんて話や特性は今まで聞いたことがありません。因みにどうでもいいですが、溶接作業時には炭酸ガス、もしくはアルゴンガスなどの不活性ガスが必ず必要です。

 でもって最後の質問(3)、
「温暖化が環境破壊であることは間違いないのに、なぜそんなことを議論しているのか?」
 この質問の内容は特に解説するまでもないのでいちいちせずに私の感想を言いますが、非常にナンセンスな質問だと思います。というのも、武田氏がなぜ環境省やリサイクル業者を批判しているかというと、連中の行っていることは実際の環境の保護になっておらずむしろ助長しているばかりか、リサイクルや環境保護の名の下に利権団体のような所へ国民の税金がばら撒かれている現状があるからです。武田氏自身も実際は環境を憂えているように私には見えますが、それだからこそこのいい加減な現状を黙って見てられないのだと思いますし、私自身この武田氏の見方を指示します。少なくとも、現状のリサイクル業者の状況は詐欺に近いものがあるでしょう。

 今後も武田氏のホームページで細かい書く内容がアップされるというので、それに合わせて私も感想を書いていくつもりです。
 それにしても、これ書いている途中でYou Tubeがうまく動かないで、そっちの方にえらく時間取られたな。

日本の国語教育について

 この前かな、安倍前総理の怨念とも言うべき教育再生会議が最終答申を出したのは。ちょっと記憶が定かじゃないんですが、それくらい報道も少なかった気がします。まぁ実際、結局のところ何がしたかったのという具合で終わりましたし、答申も今後の教育会議につながる内容だったのかどうか、ヤンボコの義家氏はこれからどうなるのかさっぱりわかりません。

 そこで今日の本題の日本の国語教育についてですが、現在日本の読解力は有意に下がっていると断言できます。その根拠は毎年行われる国際学力テスト、通称PISAにおいて年々この読解力が下がっており、同時に国内の調査でもひと月あたりの読書数が下がってきています。
 私が思うに、日本の子供の学力が全体で低下しているのはこの国語教育が崩壊していることが原因だと思います。というのも、国語で伸びるのは理解力で、すべての学問の根幹ともなる部分です。この理解力が発達しなければ数学でも外国語でも、結局理解することができなくて一緒に成績が落ちていくのではないかと私は考えます。文系だからこんな事言うのかも知れないけど。

 では国語教育のどこが問題なのかというと、自分が見ていてまず一番おかしいと思うのはテスト問題です。たとえば、
「このとき、作者の心境はどんなものか。以下の中から選択して答えなさい」
 そんな作品ごとに作者は感想行っているわけでもないのに、この手の問題はごまんと巷に溢れています。しかも、こういった問題の大半が作者というより問題作成者の心境で、作品の中身より問題作成者の意図を読まねばならないというのが国語能力の発達を阻害している気がしてなりません。
 実際に、「蛍の墓」原作者である野坂昭如は、娘が学校の授業中に父の作品でこの手の問題が出されたから聞いてみたところ、「締め切りに追われて必死だった」と答えています。もちろん、そう答えたら間違っていると娘は先生に言われたそうです。

 多分この野坂昭如に限らず大抵の作家はこんなもんでしょう。こんなんで国語の力なんて伸びるわけありません。こんな感じで国語の成績というものは決まっていくもんだから、自然と生徒達もテクニックのような、模範的な解答しか出さなくなります。私なんて独特な解答にこだわったもんだから……。
 逆に、何が一番国語の能力を伸ばすのかといったら、なによりもまず作文を書かせることに限ります。日記でも小説でもいいから、原稿用紙百枚くらい文章を書かせたら人間一皮剥けます。私なんて中学生くらいの頃から何百枚も書いてましたし。また作文に限らず、長い文章を短く要約させるのも非常に効果があると思います。芥川龍之介の「河童」を原稿用紙一枚に要約、それができたら今度は二行に要約、というように。短いから簡単そうに見えますが、逆にこうされると、文字数がほしい、と大抵の人は思うようになります。そうして表現の方法を本人にあれこれ考えさせるのが一番いいと私は思います。

 このほか国語教育についてはまだまだ言いたいことはありますが、まずは書かせること、これに限ります。しかるに現在の日本では未だに読ませる教育しかしておらず、子供の能力が落ちていくのも自明でしょう。

2008年5月26日月曜日

ヨーロッパ哲学の究極目的とは

 なんか設定を改めて見てみると、コメントがすぐに反映されないようには設定されていました。せっかく書いてもらっているのに悪いので、ちょっといじりなおして今度はすぐに反映するようにしました。

 そんなことはさておき今日のネタですが、昔、倫理の授業にてある先生から、
「ヨーロッパ哲学の究極目的は、すべての事象を言語化することだ」
 という話を聞いたので早速、自分の友人らにも受け売りで話してみました。現在のところ、この先生の言葉だけを話して、「なるほど」と、一瞬で理解できたのは二人だけですね。

 もっとも、これだけで理解する方がむしろ異常です。実際にその二人のうち片っ方は私の友人の中でもエース級で、もう一人はこういった倫理や哲学に造詣の深い友人ですので、そういった素養があるからだと思います。

 さてさて、ではこの言葉の意味することはなんでしょうか。私自身、完全に理解しているとは言い難いのですが、鍵となる言葉を言うと、物事というのは言語化されて始めて理解されるのです。
 たとえば、今まで見たことも聞いたこともないものに、ある日誰かが触れたとします。しかも、偶然が重なり、なんと同じ日に二回もそんなことがありました。早速友人にその誰かは、
「今日、見たことも聞いたこともないものに触ったんだ。しかも二回も」
「その二回とも、同じものだったのか?」
「いいや違うよ。けどどちらも見たことも聞いたこともないものだった」
「そんなこといっても、聞いてる俺達には区別できないよ」
 とな感じで、見たことも聞いたこともないものはたとえ別々のものでも、何かしら言語化、それこそ片方は丸いがもう片方は四角いなどとしなければ区別、果てには理解できないということです。

 もともと、対象に名前を与えるということはその対象をその名前で定義するということになります。初めてメロンをメロンといった人によって、それまでただの果物だったものはメロンと定義されていくのです。
 この論を発展して先ほどの先生は、ヨーロッパ哲学というのは物体から現象に至るまですべてに名前を振ることによって理解するのが目的だ、と私は言いたかったんだと思います。実際にヨーロッパ、というよりは欧米の科学的概念というのは物事をひたすら細かく分類することに注力しています。元々学問自体が事実の分類を進めることですが、日本とか中国などの東洋哲学はこの点が割とあいまいで、わからないことはわからないなりに話を進めようとして、儒教とか仏教では、
「なぜ空は青いのか」
「それは見る人の心がきれいだからだよ」
 というような禅問答が成立したりします。それに対して欧米では、
「なぜ空は青いのか」
「普通、光があるとものが見えるだろ。つまり、光が関係しているのでは。そしてそれを敢えて名づけるなら、光の反射現象とでも……」
 ちょっと極端な例ですが、割とうまいこと比較できたと思います。

 こんな感じで、ヨーロッパでは各種の病気などにも名前をつけるだけでなく、心理現象などにも名前をつけ、細かく分類するようになっていきました。一番最初の例のように、体が発熱した状態でもウィルス性のものか栄養バランスの崩壊によるものかなどと言語化することによって分けて、そして理解します。こんなのがヨーロッパ哲学の概念だと、私は考えています。

 そういう意味で、現在の日本の学問体系もヨーロッパ式に倣っています。まぁ確かに悪いわけじゃないんですが、逆に言うとこの形式では言語化しづらい領域は自然、無関心になりやすくなり、それこそ死後の世界と生き方とかはあまり真面目に議論されません。東洋哲学は逆にこの点が強いので、やはり両方学ぶのがベストだと私は思います。

2008年5月24日土曜日

赤いちゃんちゃんこの怪談話

 子供の頃に聞いた怪談話で、トイレに入ったら「赤いちゃんちゃんこ、着てみませんか~」という声がするので「着てみる」と答えたら、血だらけになって死んでしまう、という怪談話がありました。まぁその血の跡がちゃんちゃんこみたいになるっていうオチですどね。

 しかしいまどき、「ちゃんちゃんこ」と言う人はいるのでしょうか。昔の鬼太郎はよくちゃんちゃんこを投げて敵にぶつけてたけど、今の鬼太郎はどうなっているのだろう。「ちゃんちゃんこ」と言わずに、「ベスト」と言うのかな。それなら、
「赤いベスト、着てみませんか~」
 こんな感じに怪談も変わるのでしょうか。ってか、これじゃただのユニクロの店員でしかないけど。

 それより、この前ふと思いついたのですが、もしこれがちゃんちゃんこじゃない、別の服だったらどうなのだろうかと。
 まずは「赤いコート」、間違いなく血だるまだ。次に「赤いブラジャー」、なんか卑猥だ。じゃあ「赤い全身タイツ」、ホラー映画化だ。それなら「赤いYシャツ」、ヤクザかよ。

 ここまでならそんなネタにするほどではないのですが、その後しばらくしてとんでもないものを考えてしまいました。
「赤いふんどし、はいてみんかいっ!!」
 そう、赤フンならどうなるのか。やっぱ自然と声もこんな感じになるのかな。でもって、「はいたろうじゃねぇかっ!!」とか言っちゃうと、「ぎゃぁぁああ……」ってなことになり、下半身だけ真っ赤……なんだろうか、このくそみそテクニックなホモ展開……。

武田邦彦氏の公開討論会に行って

 本日、午後一時半から吉祥寺で行われた、「温暖化対策とリサイクルは地球を救う ウソ?ホント?」というシンポジウムを見学しに行ってきました。主役はこのブログでも何度も取り上げている、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」という本で、環境省やリサイクル団体を批判している武田邦彦氏です。

 このシンポジウムは他にも数人のパネリストを揃え、それぞれが温暖化とリサイクルについて持論を展開して討論する形式でしたが、なかなか有意義で面白い内容でした。パネリスト、司会者もそれぞれの意見に対して、「それが正しいかどうかはともかく、さまざまな異論が聞けたことがよかった」と口々に述べておいり、聞いている私個人も同感でした。
 パネリストの中には現役の環境省の役人もいれば、国立研究所の研究員もおり、やはりそれぞれの立場から武田氏とは全く意見が異なる、というより、「でたらめを言うな」という言い合いもありましたが、なにも罵り合うというほどでもなかったので、よい討論の仕方をしていたと思います。

 それで、この討論をすべて一から書いていたまたえらく長くなりそうなので、いくつか気になった点だけを紹介します。
 まず全体的な内容ですが、すべてのパネリストの方の一致した意見として、「内容はともかく、武田氏の環境問題への問題提起はすばらしい」ということでした。いくつかはスタンスの違い、根拠となるデータが怪しいなどの反論はあるものの、実際に環境対策として使われているお金、そしてリサイクルの仕組みには不明瞭なものも多く、環境の名の下で無茶が通っているものもすくなくないのですが、そういった部分に光を当てた意味では武田氏の功績を皆評価していました。

 それで各パネリストの意見はというと、主役の武田氏の主張については彼の書いた本を読んでいたのでほとんどがすでに知っている内容でした。もし興味をもった方があるなら、是非本を買って手に取ってください。それにしても、テレビでも何度かこの人を見たことがあるのですが、実際に見てみると本当に喋り方がうまい。話の展開が早く、論点が結構知らないうちに変わってたりするので、学者より政治家のが向いている気がします。
 この武田氏以外だと、朝日新聞の社員である杉本裕明氏の話が一番面白くて、彼の話によると、なんでも政府の環境を守る名目としてとして集めた税金は、現段階でも余っているそうなのです。特に使い道がなく余っている横で、現在の道路特定財源を環境税に変えるといって、また余計な方向へ政府がそのお金が使うのではないかという危惧を持っていましたが、これは初耳でした。けど、なんかそうありそうです。
 さらに、現在国が立ち上げている環境対策の計画を実行することとなると、一世帯辺り四十万円もの負担を新たに強いることとなるのですが、そういったことは一切説明せずに、「環境にいいから」という意味で認めてはならないということも言っていました。これは他の話題についての武田氏の言及でしたが、政府はそれが本当に環境にいいのかどうか詳しい内実を話さずに、計画を実行する癖があるとも言っています。

 このほか一般の方の質問で、
「燃費のいい車に乗り換えることが環境にいいというが、それまで使われてきたまだ乗れる車を放り捨て、新たに車を製造会社に作らせることの方がかえって環境に悪いのでは?」
 という鋭い質問も出てきました。これについては武田氏も言及しており、白熱電球から蛍光灯に取り替えれば電気使用量は減るが、製造コストを考えるとかえってマイナスだともいっています。

 とまぁ片っ端から書いたらこんな感じなのですが、やはりテーマが環境という事なので、一部の参加者からは感情論とも取れる、やたら長いだけで面白みのない質問も数多く出てました。何もこの環境問題だけに限るわけではありませんが、どうも議論を感情論と事実論がごっちゃになって、途中で双方訳がわからなくなることが多いような気がします。もうすこし、はっきりとした事実のみに目を当てて議論はすべきだと思うのですが。
 ただ、この環境問題というのは地球科学からリサイクル関連の経済学など、幅広い知識を持って語らねばならないところ、現在各専門家がそれぞれの分野の立場だけに立ってあれこれ言うのが混乱を作る主要因だと何人かのパネリストが言っていました。実際に範囲がだだっ広いことは間違いなく、いろんなところから意見を聞き、最終的に自分で考えねばならないといって、この討論会は終わりました。

障害者教育について

 先ほど確認してみたらコメント、しかも知らない人から初めて残されていたので、タイムリーでもあるので今日は障害者の教育について書こうと思います。実はこの障害者教育については以前にかなり真剣に調べた事もあり、一家言ある身です。前述の障害者自立支援法と並び、日本はこの手の対策が欧米先進国と比べると非常に遅れているとも言われております。

 まず知的障害者の場合ですが、やはり未だに偏見が強いということもあって幼児期に、「もしかしたらこの子は……」と思っても、それを誰にも相談しないまま育てていってしまう人が多いそうです。専門家によると、たとえ生後時から知的障害を負っていたとしても、生まれた直後からそういった障害者への専門的教育を施すことによってその後の発育はしない場合と比べて大きくよくなるそうなのですが、どうも未だに隠したがる人がまだ多く、五歳や六歳になってようやく相談に行っては処置が手遅れになってしまうケースが多いそうです。。
 この問題の解決方法は言うまでもなく偏見をなくすことなのですが、どうもアメリカと比べると日本では知的障害者、身体障害者双方ともに社会進出が阻まれており、こうした偏見がなかなか払拭できずにいます。

 そして近年、こうした知的障害者の生活環境はすでに紹介した自立支援法とともに、ネット上で加速している、「知的障害だからといって罪が軽減されるのはおかしい」という言論によって追い詰められております。また、各企業に雇用者数ごとにこういった障害者の方を受け入れる規定があるにもかかわらず、規定を守らなかった場合に支払う補償金を払う方が得だといって、なかなか雇用されないとも聞きます。

 さてこっから社会学的な話になりますが、身体障害者だと思考能力には問題なく、それこそデスクワークや簡単な軽作業程度なら働くことに問題はないにも関わらず、健常者と比べて就職率が非常に低くなっております。その理由はいくらでも挙げられるのですが、私が問題視しているのは学歴についてです。
 というのも、実は私の友人も障害とまで言わずとも、生まれつき体の弱い人間でして、大学に入学したものの、毎日通学するだけの体力がなく、結果的には退学せざるを得ませんでした。身体障害者、特に腕や足の障害を持つ方などは助けなしでは通学することは難しく、まして実家から離れて遠くの大学に通おうとしても、住んで生活できる借り部屋などほとんどありません。

 つまり、身体障害が原因となって高等教育の道が閉ざされ、結果的に学歴が付かず就職もままならないという構図になるのではないかと思います。本当はこういった教育面でもっと障害者に日を当てるべきだと思うのですが、現実はさにあらず、日本の大学のホームページにて障害者の入学条件、方法について説明があるサイトは本当にごくわずかです。アメリカなんかはほとんどあるのに……。

 今後もこの障害者関連のネタは書き続けていこうと思いますが、前述の友人がかつて言った、「健康な人は、病気や怪我した時の苦しみを普段は全く考えないよね」という言葉を忘れずに取り上げていこうと思います。

2008年5月23日金曜日

権力獲得のプロセスについて

 かつて北海道農学校、現在の北海道大学の前身となった場所で、かの有名なクラーク博士が、「少年よ、大志を抱け」と言いましたが、これは誤訳らしいです。
 それはともかくとして、偉くなって周りをブイブイ言わせたいという人はどの時代にもたくさんいます。しかしどうすれば偉くなるのかという、直接的な議論というものはあまり見ませんし、比較されておりません。それは恐らく、プロセスがそれとなく暗黙な了解となっているからだと思われます。

 日本の場合、やはり商業主義的な思想が強いので、基本的にどれだけお金を持っているかがその偉さの尺度となることが多いように思えます。それを反映してか、立身出世の王道とも言えるストーリーはまずいい大学に受かり、そして一流企業に入る。そして最後にそこで社長となるか、途中で飛び出して新たに創業し、その会社を大きな会社とする、といった所でしょうか。これがいわゆる通説の範囲内の権力獲得プロセスでしょう。

 ただこれはあくまで「お金の及ぶ権力」内の話で、現実的にはやはり官僚として成功する方がサクセスストーリーとしては価値があると思われています。この場合のプロセスもまず最初はいい大学、というよりこの場合は東大限定で、しかも法学部に入る。そして上級国家公務員試験に受かり、官庁へと入る。そこで出世コースにうまいこと乗り、最後は次官というプロセスとなります。
 これでもさらに飽き足らないという野心満々の方への特別コースはというと、まず官庁に入るとこまでは先ほどのコースと一緒ですが、ある時点でそこを飛び出し、選挙へと打って出て政治家となる。そして自民党内の権力レースに勝ち、最後は総理大臣となって満願成就といったところでしょうか。

 以上までが日本の主な権力獲得のプロセスですが、やはりネックとなる条件になってくるのは若い世代の内に東大に入学するということです。霞ヶ関の官庁内の東大贔屓は言うに及ばずで、たとえ他の大学出身者が官庁に入ったとしても、その中では出世が望めないとまで言われます。
 しかし、世界の日本を見る目はというと、何はともあれ東大にさえ入れば立身出世は約束され、しかもその入学試験はまだフェアであるから、出世機会の平等はよく守られている国だと言われているようです。
 言うまでもなく、他国では未だに出身環境が物を言うことが多く、といっても日本でも数十年前と比べてその傾向は強くなってきましたが、何はともあれ日本は東大さえクリアすればいいのだからまだ平等らしいです。

 さてここで話は変わりますが、現在中国のトップ2といえば言うまでもなく、国家主席の胡錦濤氏(フーチンタオ)と首相の温家宝氏(ウェンジャーパオ)の二人ですが、実は二人とも大卒は大卒でも、理系出身です。
 この話をすると結構周りの日本人には驚かれるのですが、胡氏はもともとダムの設計士をやっており、温氏は「中国地質大学」(どうでもいいが、二年前にこの大学はえらく綺麗な寮を作っていたなぁ)の出身で、そのまま地質関係の技師だったようです。恐らく日本人からすると、なぜ大学で文系出身じゃないのに政治家をやっているのかと疑問に思うかもしれませんが、向こうは向こうで日本の経営家と政治家のほとんど、というより九割がた文系出身者だと教えると、「なぜそれで国がやっていけるんだ?」と、私自身が中国人に言われました。

 ここで結論を言うと、権力獲得のプロセスというものは決して万国共通ではなく、国ごとに意外と違うということです。さらに例を挙げると、レーニン以降のソ連では最高権力者である書記長となった者の中で大卒者はというと、なんとレーニンとゴルバチョフの二人だけしかいません。しかも新制ロシアも入れると、この前亡くなったエリツィン氏も大学を卒業していません。プーチンとメドベージェフは出てるけど。
 ソ連の場合、私も詳しくはわかりませんが、大卒という肩書き以上に共産党内のプロセスが重要視されており、そのためこのような系譜を辿ることとなったようです。

 現在日本の権力獲得プロセスはアメリカの制度に倣っているため、日本とアメリカで共通する権力獲得プロセスを、さもグローバルスタンダードかのように思い込んでいる部分があると感じます。井の中の蛙と言われないように、あくまで日本限定でこうなのだと覚えておくことが、国際世界で笑われない知識となると思います。

2008年5月22日木曜日

放置された医療改革

 先ほど、徳光和夫が司会をやっている「逢わせ屋」という番組を見ていました。この番組自体はくだらないシステムとやらせっぽい内容で嫌いなのですが、今日の番組で出てきた、若いときに右腕を工場で切断し、その後のリハビリの間にずっと元気付けてくれた医師と再会したいという女性の話は非常に感動的でした。

 さて、今ここで出てきたリハビリですが、皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか。大体二年前、リハビリを開始してから180日後に、これまで患者に支払われてきたこのリハビリの医療費補助を打ち切るという政府の新たな政策が始まりました。
 当時の政府の言い分はというと、リハビリという名の下に不当な医療を行う輩もおれば、本来は必要ないのに受け続け、補助だけをもらっている患者がいる。そんな不届きな輩を撲滅するために、どうせリハビリを始めてから半年経っても効果がない人には治る見込みがないはずなのだから、いっそ打ち切ってしまえというものでした。

 もちろん、この政府の言い分は頭から間違っていることは明白でしょう。リハビリというのは何も身体障害を完治させないまでも、身体の機能維持という目的で行われていることも多いからです。また半年経って効果がないから治る見込みがないというのも間違いらしく、この日限の根拠はなにもないといいます。
 この打ち切り制度が始まる直前の二年前は、それこそ毎日のようにメディアが報道し、制度の見送りが各関係者から訴えられましたが、現実はというと大山鳴動して鼠一匹動かずというか、ちょっとネットで検索を掛けてみたところ、施行状況まではわかりませんが、現在もこの制度は何も改正されずに残っているようです。

 なにもこのリハビリ制度に限るわけではないですが、私が前々から訴えている「障害者自立支援法」も、その名とは逆に障害者を追い詰め続けて施行から早や三年もの月日がたっております。このように、当初は大きく騒がれはしたものの、医療業界を取り巻く悪環境はここ数年で何も変わらないどころか、先月から始まった「後期高齢者医療制度」と、さらに悪化させるような法律までもが施行され始めてしまいました。この問題も今でこそなんやかんやと騒がれておりますが、後一ヶ月もすればみんなこの制度のことなど忘れてしまうかと思います。もちろん、そんなことはあってはならないのですが。

 しばしば、この手の問題というのはこういった事態が起こりやすいもので、一概に報道メディアが報道しないせいだとは、マスコミに厳しい私でも言い切れません。なぜなら、熱の冷めた事件などを報道しても、連中が食っていけるわけではないからです。だからこそ、なんの利益も権益もない、こうした草の根的なブログなどでこういった問題が解決されるまで訴えていかねばならないと考えております。

2008年5月21日水曜日

よい税金とは

 なんでも将来の社会保障を維持するために、財務省が出した試算によると消費税を10%以上にしなければいけないと、昨今ニュースで報道されています。しかしなんというか、官僚の出す予測で当たった試しというのはほとんどないですし、そもそも連中が出した社会保障費のピークがくるのは2050年とのことらしいですが、以前にこのブログでも取り上げた私の予測だと、少なくとも年金に限って言えば世代人口が最も膨れている1946~1948年生まれの団塊の世代が、日本人の平均寿命に当たる80歳になって死に始める2030年くらいがピークではないかという素朴な疑問がわきます。

 なのでこんなくだらない根拠で消費税を上げるなんてもってのほかですが、これに関連して、今日はちょっとよい税金とはどんな税金かをちょっと解説します。なにぶん昔に習ったことなので少し記憶があいまいですが、税金には三要素と呼ばれる要素があり、それらを列記すると、「公平性」、「均等性」、「効率性」の三つだったと思います。

 まず公平性というのは読んで字の如く、対象の集団の中で差別なく公平に取られるかどうかです。たとえば同じ収入なのにある人には低い税率が課されるが、別の人には高い税率が課されるというのは傍目にも不平等で、よい税制とは言われません。
 次の均等性というのは、単純に行って累進課税や資産税のことです。これは税の配分にも関わってきますが、集団内の人間の収入を均等化させる効果のことで、要するに勝ち逃げさせない要素のことを指しています。

 ここまでなら言われりゃ誰だってわかると思いますが、今日の味噌である最後の効率性というのは実は結構ネックな部分でありながら、あまり議論されることがない内容です。
 この効率性というのは、いわゆる徴税のコストがどれだけ低いかどうかという事です。たとえば新聞の集金を想像してみてください。自動振込みにしておけば新聞屋が払うのは銀行への手数料だけで新聞代を受け取れますが、もし自動振込みでなければ集金を行う人を新聞屋は雇わなければならず、その分人件費が掛かってしまい同じ新聞代でも手元に受け取る金額は減ってしまいます。
 このように、同じ税率でも徴税コストがあるとないとで収入の大小が変わってくるのです。そして実は日本というのは、この徴税コストが高い国だといわれております。

 というのも、戦後から日本は一貫して直接税を主な収入源としています。これだと一人一人に税金額を計算、徴収を行わねばならず、また不正にごまかす人間もいちいち摘発せねばなりません。これはつまり、その分だけ国税庁の役人を雇わねばならず、また税理士なども各企業や自治体で雇わねばなりません。
 ここで言ってしまいますが、実は私は消費税を上げる事には賛成なのです。というのも、消費税や酒税のような間接税だと徴収する対象は小売店やら事業主だけなので、その分徴税コストは少なくて済むのです。事実、日本以外の国ではほとんどが間接税が主体となっており、戦前の日本もそうでした。

 最近は確かにIT化が進み以前ほどではないにしても、直接税だとやはりコストが高すぎます。なのでこの際、直接税の税率を大幅に下げる代わりに、消費税などの間接税の税率を大幅に上げるような改革をすべきだと思います。もちろん、欧米同様に食料や医療などにはその税率を課さずにです。

 以上の三つの要素を満たせば満たすほどよい税制だということになります。あえて言うならもうひとつ、「わかりやすさ」もよい税制の条件だと思います。これもまた日本ですが、非常に複雑で税理士以外には誰もわからないとまでいわれ、そのせいで知らず知らずのうちに脱税をやっていたり逆に払いすぎたりという事が毎回起こっています。こんなんでは先に言った公平性が乱れるので、やさしく単純に、それでいて公平な税制へと大改革をするのが今の日本の課題だと考えています。

2008年5月20日火曜日

松下の社名変更について

 ちょっと古いニュースですが、以前に松下電器産業がそれまでの社名を改め、自社ブランドのパナソニックに社名を変更することを発表しました。結論から言うと、この社名変更はむしろ当然すべきことだし、これで名実ともに松下は変わったような気がします。

 というのもちょっと前の90年代に松下は、当時日の出の勢いだったソニーに家電部門でコテンパンにやられてしまい、それこそ松下はもうだめなんじゃないか、やっぱり古いだけの会社だとまで揶揄されていました。そんな中、社長に就任した前社長の中村邦夫氏によって松下はドラスティックに社内組織が改革され、再び家電部門の王者に輝き、不振が続く関西経済圏の中でも強勢を保っています。

 この中村邦夫氏がやったのを具体的に言うと、古くから松下とつながりのある販売店などを一気に切ったことと、松下のOB社員に支払ってきた企業年金の額を減額したことでした。特に後者はOBから裁判まで起こされましたが、結局裁判所は経営に影響を及ぼすという松下側の意見を採用し、この減額を追認しています。
 こうした改革を行っていったせいか、2000年代前半には「幸之助精神の破壊者」とまで中村氏は言われましたが、しかしそのおかげで松下は見事復活しました。

 ここまで言えばわかると思いますが、現実的に今の松下は創業者の松下幸之助が作った会社だとは言いがたく、実質中村邦夫が作った会社だと私は考えています。そういった中で社名が変わるというのは、これからさらに過去とのつながりがたたれ新たな松下として定着するという意味合いが過分に含まれていると思います。

 それにしても、この中村氏のインパクトが強かった成果、おっさん二人と話をしているときに、
「ところで、今の社長の名前ってなんだっけ?」
 といって、そのままその日は思い出しませんでした。ゴメンね大坪さん。

2008年5月19日月曜日

黒船がこなけりゃ、徳川幕府は続いたか?

 このブログを始めた最初の頃に、もし戊辰戦争で幕府軍が勝ったらどうなっていたのかという予想を書きましたが、今回もその系列でずばり黒船が来なくて鎖国が維持されていたら、徳川幕府の幕藩体制は続いたのかということを今日解説します。

 まず、言うまでもなく徳川幕府崩壊の最大のきっかけとなったのはペリーの黒船来航でしょう。中国の清でもそうですが、最終的に国が滅ぶきっかけとなった事件は確かに大きな事件として当時も扱われはしましたが、まさかその事件がきっかけで急速に国が滅ぶとは誰も思わなかったようです。清の場合はアヘン戦争と太平天国の乱ですが、確かにそれまで何百年も続いた王朝がある事件をきっかけに数十年後に滅ぶことになろうとは、誰も想像できなかったでしょう。

 では徳川幕府が滅ぶきっかけとなった黒船来航ですが、実はそれまでの日本はシャレにならないくらい平和でした。徳川幕府成立後、正確には江戸時代初期の島原の乱以降、日本は二百年くらい一度も戦争がないという、世界史上でも稀に見る平和を維持しました。その原動力となったのは話すと長くなりますが、徳川幕府の幕藩体制にあります。参勤交代といい身分制といい、非常に安定感のある政策でこの恒久ともいえる平和を維持しました。

 しかし黒船来航を機に欧米からの外圧を受け、日本国内で意見が分かれる中で最終的に徳川幕府は薩長に滅ぼされることになりました。ですがもし、それこそ欧米が余計なちょっかいを出さずに日本国内で完結し続けてさえいれば、それまでの政策が続くことになりこの平和は維持されたのではないかと以前に考えたことがあります。言うなれば、外圧にどう対抗するかで意見が二分したのですし、それまではずっと平和だったのだから、そっとしておいてくれればずっと良かったんじゃないかということです。
 そこで結論から言いますが、私はもし黒船が日本に来なくとも、遅かれ早かれあの時代で徳川幕府は終わったと考えます、ここまで引っ張っておいてなんですがね。

 確かに黒船の来航が徳川幕府の寿命を縮めたことに間違いはないと思います。しかし当時の時点ですでに幕藩体制には限界が見えており、徳川本家をはじめとして諸大名はほとんどすべて借金漬けの財政となってていました。また尊王攘夷論の根拠となった天皇中心論を主張する国学も力をつけ、藩政改革を断行した薩長を筆頭とする、徳川家を凌駕しかねないほどの雄藩が力をつけていたという背景があります。
 こういった背景を考慮に入れると、遅かれ早かれ徳川幕府はあの時代のうちに内乱によってなくなったと思います。実際に、財政を立て直すために密貿易までやっていた薩摩藩に対し、力でそれを取り押さえる力は当時の幕府にすでにないと老中阿部忠之は考えていたといわれ、それならば恩を売っておけとばかりに島津斉彬を藩主に据えてやったといいます。

 そういう風に考えるのならば、黒船来航は一つの時代の転換点として日本にとって非常によい契機となったのではないかと思います。結果論から言うと、その後に明治維新が行われて日本は急速に国力を伸ばすようになりましたが、逆を言うならあの時点で革命が起こらなかったら、それこそ日本はどうなっていたかわからないものです。
 それにしても、盛者必衰とは言いますが永遠の安定と平和っていうものはやっぱりないものですね。

2008年5月18日日曜日

この休日の過ごし方

 なんかここしばらくえらく硬いことばかり書いていた気がするので、ちょっとまたゆるいの書こうと思います。

 まず昨日は浅草の三社祭りに行って来ました。いやね、本当は行くつもりなんて全くなかったんだけど、母の日のプレゼントを買うって言うから上海人と一緒にヨドバシ行った帰りに、まだ浅草行ったことないって言うから連れて行ったら、たまたま祭りの日だったという運びです。
 何があったかって、とにもかくにも人、人、人の渦。歩道も狭いもんだから全然前に進めない上に神輿が順々にやってきて、その度に横断禁止になって前に進めなくなる。中にはそれを逆手に取った一人の外国人がおもちゃの小さな神輿を片手に、笛を本物の神輿担ぎの人と同じようにピッ、ピッ、ピッと鳴らして通るもんだから自然と人がよけていくし。うまいことを考える。

 その後上海人と夕食してその日は寝て、日曜日の今日は先週に買った自転車で午前中は軽く20キロくらい流してきました。恐らく専門にやっている人から見たらヒヨッ子も同然ですが、自分はいわゆる自転車乗りでキャラを売っています。完全に走ることだけ専門のロードバイクも持っていますが、それだと街中をぶらぶらするのに向かないので、先週にまたシティサイクル(自転車を立てるスタンドが一脚の自転車。二脚だと通称ママチャリになる)を買い、それを今朝走らせたわけです。

 買ったのは、会社は嫌いですけど製品に罪はないと考えブリジストン純正の三万五千円の六段変速自転車です。色がグリーンな上にチェーンを覆っているカバーが金属じゃなくてプラスチックでできていて、傍目にもかなり派手な自転車です。性能的には安定していますが、やはり三段変速と比べてギアが噛み損なう率が高いように思えます、まぁ買ったばかりなのでしょうがないですが。
 乗り心地は問題なく、スピードも最高で時速40キロ弱、維持速度で20キロ強出るので満足です。唯一惜しむらくは、前かごの部分がアルミワイヤー製なところです。自転車屋はどこもアルミのが丈夫だといいますが、物を乗っけたり段差超えるとすぐにカタカタ抜かすので、私は一般ママチャリ標準のプラスチック製の前かごのが好きです。あれならちょっと変形してもアルミみたいに戻せないわけじゃなくて目立ちませんし、狭いところを通る時は邪魔になりません。なんでどこもアルミワイヤーを標準にするかなぁ。

 そうして午後は昼寝して、夕方に相撲を見てブログを書く現在に至ります。相撲も大好きなので、来週の千秋楽を国技館に見に行くかまだ迷ってます。一生に一度でいいから升席でお土産もらって相撲を見てみたいです。それにしても今場所は三年前の琴欧州を見ているような場所だ。

金剛番長の二巻と、最近の銀魂について

 前回にも書いた、鈴木央氏の「金剛番長」の二巻が発売されたので早速買ってきました。内容は前巻同様期待を裏切らないもので、読んでて最近こういったスケールのでかい(ホラがでかいとも言う)マンガが減ったことを痛感します。昔の例だと、「魁男塾」みたいな系列です。これも、最近になって作中にでてくる民明書房の記述を読むのにはまってます。「EYEこそすべて」ってなんだよ……。

 まぁ書くことといえばこんだけなのですが、ついでにもう一つマンガ批評をやると、今ジャンプで連載中の「銀魂」がここ最近、復調の兆しが見えます。復調と書いたのも、実は去年一年間、このマンガを読まなくなっていたからです。
 多分、今現在のギャグマンガで一番売れているのはこのマンガでしょうが、なんというか去年一年間はひどくつまらないものに成り下がっているように見受けました。これまでのように一話完結のギャグストーリー形式が少なくなり、変わりに延々と長編の話、それもこれまでと比べたらえらくつまらない内容のが続くので読んでて何度も嫌になってきました。なんかコメントを見ると、作者も少し自覚していたような記述も見受けられましたが、初連載なんだからまだいい内に完結するほうがこの際いいのではないかとまで私は考えていました。
 それが最新刊を読んでみると、また以前のようなテンポの良いギャグが戻っているじゃないですか。すっかり安心して、去年一年間読まなくなっていた分も一気に読み返しました。
 ではそれまでの不調はいったいなんだったのかというと、知り合いと協議したところ恐らく当時に担当が替わったのが何か影響したのではないかという結論に落ち着きました。

 さらに付け加えて分析すると、この作者の空地英明氏の他の漫画家にない特徴というのは、一つのコマでボケ、ツッコミ、ボケと、三拍子を一度にやってのける点にあると見ています。一例を出すと、単行本の八巻、第六十四訓にて、
「姉上、なんですかその格好?」、「ああ、今私の店チャイナ服強化月間でみんなチャイナ服着て仕事しているのよ」、「チャイナ服強化月間ってなんですか。何が強化されるんですか?」「男の妄想よ」
 と、いう具合で、確かに一コマにしてはセリフが多すぎるという指摘もありますが、逆を言えばこれだけの過程を一コマで表現するというのは並大抵の技ではないでしょう。
 大抵のギャグマンガ、特に最近流行っているひたすらハイテンションで押し通そうという系列のものは、
「つまり、○○○だな」、「何でそうなるのー!?」
 っとな感じで、一コマでボケとツッコミが一個ずつ、しかも大抵が大コマ使うという手法しかありません。これだと確かにインパクトは強くなりますが、テンポは犠牲にならざるを得ません。

 銀魂が面白くなかった時、この三拍子がほとんど機能していませんでした。ま、復活したから安心したけど。

2008年5月15日木曜日

四川省大地震の報道について

 すでにあちこちで報道されていますが、四川省で大地震が起こり、甚大な被害が報告されています。自分が見た報道の中でも何度か紹介されていましたが、意外に中国は大地震がよく起こっており、三十年位前には北京から割と近いところで起こった唐山(タンシャン)大地震が起こり二十四万人もの人が亡くなったといわれ、これは地震の被害としては現在に至るまでもっとも大きな被害として記録されています。ちなみに、以前に見た「胡同のひまわり」という中国映画でも、この唐山地震の描写がありました。

 それでこの地震の報道についてですが、本当は昨日辺りに書きたかったのですが、いくつか気になる点があります。まず今朝のみのもんたの「朝ズバッ」でですが、中国政府が日本政府の人的支援派遣を断ったというニュースを紹介した後、「ミャンマーといい中国といい、どうしてこう断るのでしょうかねぇ」とみのもんたが言っていましたが、私個人的に言わせてもらうと、ミャンマーと一緒にするべき問題ではないと思います。というのも、今回中国政府もこの日本からの人的支援を断る際、現在被災地では交通を初めライフラインが非常に混乱していることを理由に挙げていました。

 日本からだと想像しづらいかもしれませんが、被災地である四川省というのは本当に奥地も奥地で、周りも山、山、山、ヘリコプターですらなかなか着陸できないような険しい地域です。昨日の「報道ステーション」でも中国通といわれている加藤千尋氏が、あそこは三国志の蜀の国で、当時から険しい場所であったとコメントしています。恐らく、中国側のこの発表は変な誇張が含まれてなく、実際に支援部隊が到着しても彼らを運搬する手段がないと判断したのが断った理由でしょう。

 また、以前に私自身が災害の専門家から聞いた話ですが、現場はボランティアなどの人員に対して、せっかく来てもらっているのだからまず連中の食事を用意しなければならない。その上、彼らを運搬、組織して使うのは彼らの労働力を考慮に入れても非常に大きなコストになるらしいです。実際に、最近だとこういった事実が伝わってきたのか、ネット上でも災害が起こるたびに役にも立たないエセボランティアが被災地に集まっていると非難する声も出てきました。そのせいか先ほどの専門家は災害が起きた際に一般人にやってもらいたい事は、ただお金を送金するだけだと言っていました。ヘタに身一つで被災地に来るより、ただお金を送金してもらう方がずっと現場は助かるそうです。

 もっとも、今回日本政府が派遣しようとしたのは専門の救助隊ですから、いても邪魔になることはないでしょう。ただ現場の混乱と情報収集のために中国は今回一時的に断り、軍事政権の独裁から断ったミャンマーとは大違いだと私は考えています。なにもこの「朝ズバッ」に限らず、一部のメディアがさも中国政府が何かしら意図を持って支援を拒否したかのように見せており、内心むかむかした気持ちを覚えました。
 そして今日夕方、そういった向こうの事情がある程度解消されたのか、日本の救助隊の受け入れを表明し、早速東京都の消防隊員らが成田から出発していきました。私が思うに、もうすこしメディアの方々は向こうの様子を見てから、今回の人的支援受け入れ拒否のニュースを報道すべきだったと思います。そこまで中国政府を悪人にしなくたってねぇ……悪人の集まりではあるけどさ。

2008年5月14日水曜日

時代遅れな日本の不動産業界

 基本、どの国も産業というのは一次から三次に分類されます。農業や林業といった自然から採集、生産をする第一次産業。自動車や洗剤などの工業製品を作る第二次産業。そして教育やコンサルタントなどの知識やサービスをお金に換える第三次産業です。
 日本の場合は第一次産業はともかく、二次と三次に限れば相当な先進国です。特にサービス業などはコンビに業界を筆頭に、一部ではアメリカに負けますがそれでも高いレベルにあると自負してもよいでしょう。そんな中、今日紹介する不動産業界に限っては日本ははっきり言って最低とも言うくらいレベルが低い国です。正直なところ、第三次産業にうまく転換仕切れていない中国よりダメダメです。

 では一体どんなところがダメなのでしょうか。まず皆さんも思い浮かべるでしょうが敷金、礼金という制度です。これなど関東ならまだいいものの、関西では経験者はわかると思いますが、シャレにならない値段を今でも吹っかけてきます。たとえば、関西で月の家賃が五万円から六万円程度の部屋を借りようものなら、敷金と礼金を合わせて二十万円くらい入居の際に要求されます。しかも敷金、礼金と分けているくせに、退去する際は清掃費やら復元費などと理由をつけて結局ほとんどかえってこないのが現実です。ちなみに、これらの部屋の復元にかかる費用は、賃貸者の故意の破壊等を除いて法律上でも家主の負担と明記されており、賃貸者がこういった費用を払うこと自体間違いです。実際に日本で訴訟額が三十万円以内なら簡単に起こせる制度の裁判で、これらの費用総額二十万円を家主側から賃貸者が奪い返した例も存在します。そのときの大家の言い分は、その二十万円は清掃費用に必要だとのことでした、どんだけ掃除する気だよ……。

 これらの費用もさることながら、私個人的に我慢ならないのが「家具」です。結構驚かれる日本人が多いのですが、外国では家具は部屋ごとに備え付けられてるのが基本です。もしついてないものならば、誰もそんな部屋なんて借りません。
 備え付けられる家具は生活に必要なものばかりで、冷蔵庫や電子レンジにテレビ、それからソファーとかベッド、あとタンスとかテーブルももちろん付いてきます。これはなんとあの中国でも同じで、都市部限定だとは思いますが学生やサラリーマンが部屋を借りる際はそういった家具付きの部屋を借りて住みます。しかも大体が2LDKとかで、二つの部屋に二人で住んで家賃も折半というルームシェアリングを行います。このような形式は、私がはっきりこの目で確認したのならイギリスでもそうでした。

 こんななので、自分も中国から帰ってきて日本で部屋を借りようとした時にルームシェアをしたかったのですが、周りはみんな「一人がいい」といってのってくれず、泣く泣くまた人部屋(家賃は三万九千円)を借りました。
 それはともかくとして、私はやはりこの家具というのは家主側が用意してなんぼだと思います。なにせ、冷蔵庫や洗濯機といった大型電気家具は引越しの際に大きな荷物になりますし、新しく部屋を借りる度に苦労して運んだり、また新しい物を買わなければいけないというのは社会全体で非効率な気がします。
 幸いというか、最近になったマンスリーレオパレスなどが家具付きでの部屋の賃貸を始めました。今後もこういった動きが加速するとともに、敷金礼金はもちろんのこと、一般に高過ぎるといわれる日本の家賃代も下がり、せめて諸外国並みのレベルに不動産業界が成長するのを期待しています。

2008年5月12日月曜日

トービン税とはなんぞや

 昨日にアンチグローバリゼーションについて語った際にトービン税というものを紹介しましたが、タイムリーに今朝の朝日新聞朝刊にて、ソニー・カプールさんという、見ていてとっても面白い名前の元デイトレーダーのおじさんが、「国際連帯税を世界は導入すべきだ」と主張している記事が載っていました。敢えて言いましょうか、なぜ朝日新聞は「トービン税」という名称を用いなかったのでしょうかね。勉強不足でしょうかわざとでしょうか。

 この朝日新聞の記事に載った「国際連帯税」というのはまごうことなきトービン税です。確かに、名前だけを見るなら「国際連帯税」というほうが日本語らしくてわかりやすいですが、ちょっとこの名称だと本来の意味から外れているような気もするし、昨日に話したように世界ではこのトービン税という名称が普及していることを考えればこっちを用いたほうがいいと私は思います。

 さて、こんないきなりいちゃもんつけるような内容から始まりましたが、今日はざっくりこのトービン税について説明します。まぁ知らなくてもしょうがないけど、せめて経済学部の学生くらいは知っておいてほしいないようですね。
 このトービン税は1972年にノーベル経済学賞も受賞したジェームズ・トービンが提唱した税制で、国際通貨取引、つまり資本が国境を越える際にかける税金のことです。例証すると、日本国内で日本の銀行に預金してあるお金を使い、海外の証券、中国株などを購入する際に一部を税金として支払わねばらないというような制度です。無論、現在のところこんな税制を持っているところはどこにもありません。
 というのも、国際社会全体で実施しなければ意味がないからです。一つの国だけでやっても、その国だけ海外からの投資が滞るだけで、実質的に効果がありません。

 ではこの税制はなぜ提唱されたのでしょうか。その理由というのも、いわゆるヘッジファンドらが突然大規模な投資を行い、また突然にその資金を引き上げるという行為は、市場に与える弊害が大きいからです。
 具体的な例を挙げると、90年代後半に起こったアジア通貨危機がまさにその典型です。これは相場制度の整備が遅れ、実際の価値以上に相場が高かったタイ通貨バーツに目をつけたヘッジファンドらが、その所有する大量の資金を使って猛烈に投資し、その効果によって株価が急激の上昇した後に一気に売りぬいた事件です。その結果、タイはもとより周辺アジア諸国で一挙に通貨の信用不安が起こり、経済がめちゃくちゃになるなど大打撃を受けました。特に韓国などは現在に至るまでその弊害が続いているほどで、進行アジア諸国に与えた影響は大きい事件です。詳しくはウィキペディアのこの項目を見るともっとわかりやすいでしょう。

 こうした、マネーゲーム的な投機は正常な経済成長を妨げるといわれており、実際に南米諸国ではこのアジア通貨危機のように混乱が引き起こされて実証されています。そういった投機を防ぐために、一定の税金をかけて制限をかけるというのがこの税制の目的です。現在このトービン税の実施を一番主張しているのはフランスで、昨日に紹介したNGO団体の「ATTACK」が中心となって活動をしております。

 私自身はこのトービン税の導入を支持しています。なお、こうして集められた税金は発展途上国支援に使うとATTACKは主張しており、それについても私は大賛成です。

2008年5月11日日曜日

日本語にならない「アンチ・グローバリゼーション」

 今朝のYAHOOニュースにて、「未知の脅威に恐れる洞爺湖サミット」という題のニュースがありました。その内容はというと、最近のサミットにはあれこれ妙な団体が押しかけて妨害してくる、たとえば環境保護団体とか反グローバリゼーション団体とか、ってな感じで。

 ここで出てきた反グローバリゼーション、なんか後半には「反グロ」って妙な略にされていましたが、私はこの言葉がなぜ日本語では一般化しないのかずっと疑問を持っています。
 私がこの言葉、というより今日のお題の「アンチ・グローバリゼーション」という言葉に初めて触れたのは2004年でした。その内容は、2001年にイタリアジェノヴァで行われたサミットの最中、このアンチグローバリゼーションを標榜する団体が抗議活動を起こし、今調べてみるとなんと20万人ものデモが行われたらしくて、私はこの情報に触れたとき、
「日本ではグローバリゼーションは肯定的に言われるが、世界には否定的に唱える集団もあるのか」
 と、素直に驚きました。

 このアンチグローバリゼーション団体の主張はというと、
「経済のグローバル化は発展途上国の発展を妨げ、先進国の利益を増やすだけだ。このような非人道的な行為を許してはならず、国際間の証券、通貨取引などは規制を強めるべきだ」
 という内容です。
 中心となっている団体はフランスの「ATTAC」という団体で、この団体はちょっと前の経済学者トービンが主張した、資本が国境を越える際にそれに税金をかける「トービン税」の実施を主張しています。

 さすがにこれらの細かい内容までは今日は細かく書きませんが、はっきり言ってこのアンチグローバリゼーションを知らないければ文系なら他国の学生に笑われても仕方ないでしょう。実際に私は留学中に他国の学生にあれこれ聞きまわりましたが、みんな知っています。それだけ世界の中で大きな潮流となっているこのアンチグローバリゼーションですが、なぜだか日本では日本語とはなっていませんし、この潮流が報道されることはありません。その理由は単純明快で、現在経済のグローバル化で一番得をして推し進めているアメリカが日本の背後にいるからでしょう。

 現在の私の立場ははっきり言ってアンチグローバリストです。友人のツッチー(二回目だよこの勝手なあだ名が出るのも)とともに紹介したATTACの日本支部に出かけようとしたくらいです。
 この辺の内容もまた先送りですが今度辺りに詳しくやるとして、心ある学生らは是非この辺りを自ら学んでほしいです。これらに関する書籍も数多く出ていますし、学ぼうと思えば無理な話ではありません。何か直接質問があれば、このブログのコメントに書いてくれればいつでも私が答えます。それだけ、この辺の知識は必要とされているのです。

2008年5月10日土曜日

ショップ99に見る、日本社会の構造的問題

 すでにNHKなどでは報道されていたようですが、昨日民放にて本日のお題のショップ99の不法労働問題が報道され、現在各所で話題になっています。

 問題の中身はショップ99で働いていた元店長が、その長時間労働を争点に法廷に訴え出たという経緯です。全体像的には前回にマクドナルドを相手取った元店長の裁判と同じなのですが、今回は現時点で実労働時間が出勤表にきちんと記録され、それが公表されている点が問題のインパクトを強めています。その出勤表によると、この元店長の労働時間は毎日早朝から深夜までの長時間労働で、ひどい時などは休み時間がほとんどなく、四日間フルに徹夜で働くという尋常ではない実態が明らかにされています。しかしマクドナルドの例と同様に、今回もこの元店長は企業側には店長は管理職として扱われ、この長時間に見合う残業代は一切支払われてこなかったというようです。

 この事件に対するネット、及び私の周りの人間の反応はと言うと、どうしてこれほどまでして働いていたのか、どうしてすぐに仕事をやめなかったのかという声が多いのですが、その質問の回答ははすでに記者会見で出ており、訴えた元店長本人によると、この人は就職氷河期世代にあたり、数年間の不安定なフリーター生活を経てようやくつかんだ正社員であったということからなかなかやめる決心がつかなかったというようです。自分の知り合いの親父さんなんかはフリーターの「ふ」の文字を聞いただけで「怠け者めっ!」、と海原雄山ばりに怒り出しますが、実態的には今回の元店長のように、正社員になりたくてもなれないという不幸な若者が多いように思えます。この辺はまた今度書こう。

 さて問題は、前回のマクドナルドといい、どうすればこのような問題が解決できるかだと私は考えております。近年になってようやく、このいわゆる「実体のない管理職+超時間労働」が明らかにされてきましたが、こうした問題が起こっているということは私が知る限り、2002年ごろにはすでに各企業、特に店舗増設が行われてきたコンビニ業界で起こっているとは聞いていました。それがこのところ、もっとも実際にはかなり前からでしょうが外食産業、大手スーパーなどの小売業などの企業にも広がっています。

 それこそ、このような非人道的な労働を強いる企業を単体でどうにかするというだけなら、こうした内部告発から社会的批判にさらし、企業を追い込めばいいだけです。批判をかわすために労働改善を行うか、はたまた結末に企業が潰れても一応は解決されます。
 しかしすでに述べたように各業界でこのような「実体のない管理職」という現実が広がっている中、ただ企業を一つ一つ潰していったところで、結局のところ社会全体で見てほとんど改善は起きません。敢えて分類すると、企業を単体でどうにかするというのは「個別的問題」で、社会全体をどうにかするというのは「構造的問題」という風に分けられます。

 この問題の場合、日本人は辛い労働でも割合我慢してしまうというのが原因だとよく言われます。私が尊敬する水木しげる氏も、「日本人はがんばりすぎてしまうから、国があんな風になっまでも戦争を続けてしまったんだ。怠け者のイタリア人をもっと見習うべきだ」と述べています。実体験者だけに、重みのある言葉です。
 現実に日本は先日のメーデーでもあまり労働争議、ストライキは起こらず、苛酷な労働環境がこれまで以上に報告されているにもかかわらず、めっきり労働者は主張できなくなりました。今回のような問題を解決するために、もっと日本の労働者は嫌なことは嫌だと、過酷な労働をもっとみんなで拒否することも必要でしょう。実際には今回の元店長のように他に正社員の職が見つからないことや、生活を不安定にさせてしまう可能性から非常に難しいですが。

 もう一つ、私から提言する解決方法は、労働監督庁、ひいては法務省の権限と実行力を拡大することです。言ってしまえば、今回のような事件の労働実態は明らかに労働法の規制範囲を逸脱しています。このような逸脱、脱法行為を発見、処罰をもっと厳正に行うことがもっとも単純で必要な解決方法だと思います。しかしこれを本来行う労働監督庁は細かくは知らないのですが、これだけ異常な労働実態があちこちで言われいる割には踏み込んで摘発したという実例をあまり聞きません。ここはひとつ、もっとハッスルしてもらうとか、欧米各国に比べて省庁権限が非常に弱くて閉鎖的といわれる法務省(最近、ここの大臣はマスコット化している)を改革することがもっともよい構造的な解決法だと考えています。

2008年5月8日木曜日

日本語の自人称について

 自人称というのは説明するまでもなく、自分を表す代名詞のことをいいます。日本語だったら「私」や「僕」などで、英語では「I」のことです。

 さてこの自人称ですが、はっきり言って日本語はめちゃくちゃ多いです。中国語なら「我」ひとつだけだし、英語も所有格などは別ですが基本的にはさっき言ったように「I」だけです。ついでにロシア語では英語同様活用が分かれますが「Я(ヤー)」のひとつだけです……ってか、「やー」って入力したらキリル文字が出た事のがびっくりだ。
 しかしこれが日本語となると先ほどの二つのほかに「おいどん」とか「おいら」とか「俺」、「拙者」、「わい」、「わし」などなど、一番レアなので言うと、中国では皇帝のみが使い、日本では天皇のみに使用が許されている「朕」というのまであります。
 多分探せばまだまだいっぱいあると思いますが、こういった量だけでなく使用方法も使い分けられており、公的な場では「僕」か「私」に限定されています。

 さてこのやたら煩雑な日本語の自人称ですが、私はどうも日本の社会を見ていておかしい気がします。そりゃさすがに「俺様」とか言っている人なら私も変な奴だとは思いますが、それこそ方言などで「おいどん」とか「わし」と使うことが一般的な人に対して、「公では私と言いなさい」と言うのは、ちょっと妙な気がします。この「わし」という言葉の中に特別な意味なぞ入っている訳ではないのですし、「わし」を使っている人にとってすればそっちの方が自然なはずなのですし、自分に対して使うだけなら別に誰かに対して失礼でもなんでもないでしょう。

 というのも、つい最近にとうとう私も「俺」を使うなと言われたばかりだからです。別に言った相手は他意はなく、周りのことを考えて私に助言してくれたと思うのですが、別にこういった自人称くらいはみんなで好き勝手な言葉を使ってもいいんじゃないかと正直思います。ちょっと自分でもこだわりすぎなのかとも思いますが、これくらいの要素については日本人ももっと寛容であるべきだと思い、特定の自人称を強制させることに私は反対です。いっちゃなんですが、強制させることのほうが相手に失礼だと思うし。

2008年5月6日火曜日

移民政策について

 なんかネットのニュースを見る限り、自民党が移民受け入れについて議論を始めると発表したようです。それに対して2ちゃんねるをはじめとしたネットの世論は若者の切捨てを始めたなどと、どちらかと言うとこの動きに反対する言論が強いように見えます。

 実は私、四年前辺りからあっちこっちで移民論を周りに吹っかけて回ってました。そのきっかけとなったのはドイツ事情を勉強した際に、そのとき教えてもらっていた先生に、
「ドイツは移民でもめているけど、日本もそろそろ本気で考えなくてはいけない時期に来ている。実施する、しないはともかくとして、議論が全く行われていないというのは非常にまずい」
 と、話を聞いてからです。それからあちこちで聞きまわったりしていると、現状で日本は毎年約200万人は移民を受け入れないと経済を維持できないという数字までているようです。

 そこで私の意見ですが、はっきり言って早く移民を受け入れるべきでしょう。よく移民を受け入れると犯罪が増えるとか何とか言われますが、これはどこかで聞いた意見ですが、外国からの移民をいくら制限しても儲ける所に犯罪者は無理してでもやってくる。それならばまともで優秀な人間をきちんと受け入れるべきだという識者がいましたが、この意見に非常に同感です。
 というのも、私自身それを痛感したことがあります。それは留学中のことで、授業で一緒だった姉後肌のフィリピン人華僑の姉さんが私に、
「私はフィリピンで日本の広告代理店がやってる現地法人に勤めていたんだけど、将来は日本で働きたいけど無理かなぁ?」
「あなたは英語が上手だし、中国語もこのクラスで一番うまい。それにすごい面倒見が良くて賢い人ですけど、日本の企業は日本語が出来なければどんなに優秀でも正社員として雇ってくれません。それがたとえ、日本語しか話せない日本人社員より優秀であっても」
 というように答えたことがあります。聞くところによると、どうも日本は外国人を雇うのに閉鎖的過ぎる気がします。

 こういった背景に加え、ようやく先月に朝日新聞も一面で取り上げてくれましたが、すでに現在の日本の農業を支えているのは中国人の出稼ぎ労働者達です。農繁期に必要な労働力がすでに日本の農村にはなく、すでに各地で中国人の出稼ぎ農民が日本の農家に住み込んで働き、日本の食糧も作っているのです。この現状を見て、移民をすべきでないと言うのははっきり言って狂気の沙汰としか言いようがありません。すでに日本は食糧の輸入だけでなく生産すらも外国人頼みなのです。ちなみに、これら農村の現状についてはNHKはかなり早くから報道しています。

 しかしこの出稼ぎ農民も非常に多くの問題を抱えています。まず各地で設定されている最低賃金が払われていない、というより最低賃金が払えないために払う義務の要らない外国人が雇われています。それでも相手がまだ納得する金額ならともかく、あくどい所では最初に取り決めた賃金すら払わない斡旋業者などが横行し、帰国するにも帰国できない外国人がいるとすら言われます。

 こんなことを続けていればそれこそ日本に対していい感情を持つわけありません。こうした草の根的な思想は確かに小さいですが、積もり積もって将来的に大きな火種となることすらあります。こうした問題を回避するため、必要な労働力を相手もこっちも納得できる手段で集め、そして日本での生活で問題が起きないようにするため、移民についての議論を始めるにはむしろ遅きに失しています。だからこそ、今こうした議論が早急になされる必要があると言うのに、一部でなされている議論は視野が狭いものだと、ちょっと今日は強気に非難しておきます。

2008年5月5日月曜日

靖国神社に中国人を連れて行ったぞ!

 明日にはチンタオさんが来日してくるので、急遽特別企画でこんなのを立ててみました。

 実は以前から、「中国人を靖国神社に連れて行ったら、どんな反応を示すんだろう?」と思っており、昨日たまたま知り合いの中国人ともう一人知り合いの日本人と東京で落ち合ったので、一つ試しに靖国へと連れて行くことにしました。
 最初にその中国人のプロフィールを紹介すると、彼は生まれは香港ですが育ちはずっと上海で、本人も上海人としてアイデンティティを持っています。故あって日本にやってきて日本の大学を卒業して現在に至るのですが、能力的には日本語、中国語、英語をほぼ完璧に使いこなせるくらいに優秀ですが、上海人らしく金のことばかりしか考えません。モデルを用意するなら、「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくるねずみ男そっくりで、「なにかいい儲け話ある?」が口癖です。

 それだけ経済的な話題には執着する一方で、政治意識はあまり高くはありません。北京の政府についても特別な感情を持っておらず、最近の私へのメールには「Free Tibet」を毎回語尾に入れてくるくらいです。実際にチベットについても、騒動ばかり起こるのなら独立させてしまえ、とも言っております。
 これはなにも彼だけに限らず、彼に近い上海人一般の考え方だと私は見ています。現在の中国の若者は一人っ子政策がすでに浸透しているので、生まれた頃からある程度裕福なのもあり政治的信条より身の回りの安定を望む、いわゆるノンポリが増えているとも聞きます。

 そんなおもしろ中国人の彼を連れて靖国へ行きました。ちなみにスタート地点は上野からで、そっから歩いていきました。
 まず最初に神社の鳥居を見て、物々しいと言いました。靖国神社の鳥居は朱色に塗られているわけでもなく、無骨なデザインで私も同感です。そして神社の境内へ向かうと、途中の売店で旧日本陸軍の制服を着たおっさんが軍歌をテープで流しながら道端で他の人と話しているのを見て、「面白いねぇこのコスプレ。秋葉原だけじゃないんだ」と言って気に入ってました。実際、面白かったです。

 そして寺社のところまで来ると、これが靖国なのかと再度私に聞いてきました。彼が言うに、もっともA級戦犯を前面にだして崇拝しているようなイメージを持っていたようですが、「こんなのただの神社じゃん」とまで言っていました。さすがに、賽銭投げてお参りまではしませんでしたが。
 そうしてその後は靖国神社に併設されている博物館である「遊就館」を見学しに行きました。この遊秀館の説明を軽くすると、ここは靖国神社が立てた博物館で、中にはゼロ戦やら旧日本陸軍の戦車、野砲などの模型があり、展示コーナーでは幕末から終戦までの歴史をパネルで説明している施設です。このところは中国大使館の職員が他の外交官をしょっちゅうつれてきて、「日本はこのように二次大戦を正当化している」と喧伝し、実際にそれを見たアメリカ大使館に日本はこの前怒られました。

 で、この博物館を見た彼の感想はと言うと、
「正直、日本の歴史がわからないからあまり面白くなかったよ。ただ二次大戦のコーナーで第二次上海事変だけが紹介され、第一次が紹介されてなかったのが不満だった。なにかやましいことでもあるんじゃないかな。それと、なんで神社がこんなの施設を持っているのかがわからない。いっそここは国の施設にして、軍事博物館として売り出すほうがいいんじゃないかな」
 という感想で、実のところ私も同じような感想を持っており、なぜこんな大そうな施設を一神社が所有しているのかは疑問に思っています。一説によると、あまりにも金をかけすぎて靖国神社側も財政が悪化したとすら聞いています。
 あと靖国に封ぜられた一般兵士の遺影を見て、こういうところなんだと感心して、その上で神社にさせずにやっぱり国立追悼者施設を別に作るべきなんじゃないかなぁとも言っています。

 大体がこんな感じです。私の意見はというと、そもそも靖国神社を神道としてみるべきかどうかに私は疑問を感じます。確か戦後のGHQ改革で靖国を国の施設から除外する際に、とりあえず宗教法人として神道にしておくかで決まったと聞いていますから、最初の時点であれこれ問題の火種を作っています。最近はこの靖国の議論があまりされていませんから、ひとまず一中国人の体験談として読者の考える種になれればと思い、ここに報告しておきます。

2008年5月2日金曜日

中国の“反日”じゃなくて“反西洋”について

 いきなり謝罪です。前回、中国のカルフールに対する不買運動について、
「荒っぽい武漢ばかりがニュースで映されているが、北京や上海じゃそんなに大きな問題になっていないんじゃない?」
 と書きましたが、大きくなってました。すいません。
 昨日のNHKニュースでようやく映し出され、それによると北京でも武漢に負けないくらい激しい不買運動が行われ、入り口前では向こうの大学生が「国を愛するなら何も買うな」と大声で周りに不買を呼びかけてました。それに対して上海は「理性を持って愛国を示す」と言って、大学生達は愛国を掲げたシールをカルフール前で配っていました。上海のがやっぱり洗練されてるね。

 そんなこんなの不買問題ですが、この問題について五月三日発売の週刊現代にて秀逸な記事が載っていましたので紹介します。
 この週の週刊現代(どうでもいいですが、時たま「週刊ヒュンダイ」と読んでしまいます)は中国特集をしており、各界のチャイナウォッチャー達がそれぞれ意見を寄せています。記事を寄せた中には評論家の宮崎正弘氏もいますが、この人の書いた「出身地でわかる中国人」という文春新書の本は非常によく出来ており、現在でも参考することが多く重宝しています。中国社会を研究する方には必携です。

 そして肝心の秀逸な記事ですが、それを書いたのは作家の星野博美氏で、この人によると、
「反日など彼ら(中国人)にとってガス抜きに過ぎませんが、本当に怖いのは反西洋になった時で、何が起こるか分かりません」(文中から引用、括弧の中身は私の脚注)

 この記述を見て、正直私ははっとしました。実際にその通りだからです。
 よく日本の番組などでは、「中国の歴史教育は反日を徹底的に子供達に刷り込む」と紹介されることが多いですが、正確には「反外国を徹底的に刷り込む」と言い換えるべきでしょう。
 実際に反日教育はなされていますが、実はそれ以上に反西洋教育が徹底されています。アヘン戦争からイギリス軍による円明園破壊、果てには欧米による租借地割譲などを延々と教え込むらしいです。その教育効果はすさまじく、中国に駐在するイギリス人が以前に、「中国人は未だに円明園のことを持ち出す」と嘆く話を聞いたことがあります。

 よく日本では反日感情ばかりがクローズアップされますが、私自身、中国人は西洋諸国、特にイギリス、フランス、ドイツに対する反感の方が全然強い気がします。それこそ国民の間に一度火がつくものなら、反日暴動以上に北京政府は手がつけられなくなるのではないかとすら思います。

 事実として現在のカルフール不買問題は拡大の一途を辿っています。カルフール側が自体の鎮静化を図るために半額セールを行ったら、「金で中国人の心を買えると思っているのか」と言われ、逆に火に油を注ぐ結果となってしまいました。反日ばかりが目に付くのは仕方がありませんが、こういった方面にも中国を理解するためには気を配る必要があるでしょう。

アナウンサーたちの現況

 私はそんなにテレビっ子と言うわけじゃないのですが、元々あれこれ分析するのが好きなためかテレビ界のネタについても一家言あります。なので今日はその中の、アナウンサー界について話をしようと思います。

 まず言って、現在のテレビアナウンサー界は世代交代が間近でしょう。というのも大物アナウンサーと呼ばれる人達がどれも、いつ引退してもおかしくない年齢にいるからです。
 現在大物アナウンサーと呼ばれる人を片っ端からげていくと、松平定知、草野厚、福留功男、みのもんた、関口弘、徳光和夫と、現在やっている「オジサンズ11」にでてくる常連ばかりです。もっともこの六人は依然と現役で働いていますが、彼らがアナウンサー界で大御所となっていった年齢を考えるとそろそろ世代交代の時期だと思われます。余談ですがみのもんたについては以前に島田伸介が、「あのおっさん、立ったままころっといくで」と言ってましたが、確かにありえそうです。

 それで世代交代なのですが、本来ならばもう少し早く交代が行われてもおかしくはないと思います。挙げた六人はそれこそもう10年近く第一線で働いているので、新陳代謝が本来は起こる時期はとっくに過ぎています。ここが味噌なのですが、なかなか世代交代が起こらないのは恐らく、彼らに続く後継者がいないことが原因と見ています。

 それこそ40代、50代位のアナウンサーで、先ほどの五人と肩を並べる知名度と実力を持っているのはとなるとどのアナウンサーも見劣りしてしまいます。唯一、現時点で彼らと肩を並べられそうなのは、今後アナウンサー界の大御所後継者の最筆頭の「報道ステーション」の古館一郎くらいでしょう。彼以外の名司会者、名アナウンサーで若いのとなるとほとんどいませんし、視聴率も取れないのか看板番組もありません。

 それでも敢えて今後、アナウンサー界を引っ張っていく人材を挙げるなら、まず最筆頭は先に挙げた古館一郎です。すでに引退した久米宏のお株を守ってますし、ひとまず実力も申し分ありません。ただあえて苦言を言うと、報道ステーションを受ける前のスポーツ実況の頃が彼の最盛期だった気がします。
 その次にくるのはTBSの安住紳一郎アナでしょう。実力については問題なく、バラエティですが看板番組をアナウンサーとしては珍しく持っています。今後はニュース番組などにも進出できるかが鍵でしょう。
 そして古館が久米の跡を継いだなら、福留の跡を継いだ日テレの羽鳥慎一アナ。ニュース番組をすでに持っており、最近になってバラエティでもよく見かけるようになりましたが、そっちの方だとやっぱり安住のがうまいからなぁ。
 そして、同じく読売系列だと解説員の辛坊治郎。この人は本当は解説員でアナウンサーではないのですが、司会番組を豊富に持っており、実力メンでは古館一郎にも劣らないと見ています。ポスト古館ならこの人が最有力でしょう。

 これらの意見はあくまで私の私見です。もしかしたらもっと実力あるアナがいるかもしれませんが、私が見る限りはこの四人が今後中心になっていくと思います。もっとも古館はともかく、真ん中の二人はまだ局アナなのでそこら辺がなんとも難しいです。逆に、どちらかがフリーになったら結構楽しみです。あとあと、今日は人名が多く出たから敬称は全部省略しました。