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2008年7月13日日曜日

チリのピノチェト時代の暗黒歴史

 最近歴史の話を書いていないので、また補充分とばかりにどぎついネタを放り込んでおきます。

 今回の話も私の記事より、ウィキペディアの「アウグスト・ピノチェト」の記事を読んでもらうのが早くて、しかも詳しいです。
 このピノチェト元チリ大統領のことは、恐らく年齢の高い方は皆ご存知でしょうが、私のように二十代くらいの若い層はほとんど、というよりも見たことも聞いたこともないでしょう。その理由はほかでもなく、アメリカの暗黒史につながるからです。

 このピノチェト元大統領はあのアニータで有名なチリの大統領でしたが、その就任に至る過程も当時軍部の最大権力者であった彼によるクーデターによるもので、しかもアメリカの支援によって行われたものでした。話の発端はこうです、当時チリでは左派勢力が拡大し、自由選挙によってアジェンデ元大統領による社会主義政権が誕生していました。この動きに対し、資本主義勢力のアメリカは自国の庭だと思っている南米にて社会主義政権が誕生したのを快く思わず、反共主義者であるという理由のみでピノチェトを支援し、政権を倒壊させたのが成り立ちです。

 その後、チリには一昨年死んだミルトン・フリードマン率いる新自由主義を掲げる経済学者たちが乗り込み、経済改革に取り組んでいきました。その結果はというと、前回に書いた韓国のIMF時代のようになんでもかんでも国家事業を民営化され著しい経済の混乱を引き起こしました。そして問題を引き起こす原因を作ったフリードマンはというと、「ありゃ確かに俺の理論が間違ってたな」などと、後になって言ってのけたらしいです。ピノチェトも、最期にはその新自由主義陣営の学者たちを追い出し、復古政策に舵を切ったといいます。

 ただ、この経済的混乱を引き起こしただけなら彼はここまで有名にはならなかったでしょう。ピノチェトを名指しめるようになったのは、ほかでもなく虐殺です。一説によると十万人以上とも言われるほどの人間、主に左派の人間の虐殺を行い、当時のチリで一般人は外出することすら許されなかったようです。以前に知り合いになったチリ人の留学生の話によると、なんでも祖母が若い頃がその虐殺の時代に当たり、当時は毎日路上に人の死体が常に転がっていたらしいです。そんな次代を乗り越えたからか、おばあちゃんは今でも元気らしいです。

 しかし、この虐殺に対し世界に人権を標榜するアメリカは見て見ぬ振りをしていました。なぜかといと、ピノチェトが倒れれば、またチリが社会主義化する怖れがあったからです。それだけの理由のために、自らが原因でもあるのに、アメリカはこれらの南米の悲劇を見て見ぬ振りをしていました。そしてアメリカの悪口が書けない日本なので、恐らく大学受験時に必死で世界史を勉強した方もこの事実はご存じないかと思います。

 多かれ少なかれ、当時の南米はどこも似たような歴史を歩んでいます。その背後には必ずといっていいほどアメリカがおり、決してアメリカ贔屓でない私ですら、こんな冷酷なことを平気でしていたのかと思って青ざめたことがありました。もし興味をもたれた方は、この辺の南米の歴史を勉強することをお薦めします。

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