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2009年2月27日金曜日

権利と義務の関係性

 週末なので、ちょっときわどい内容にチャレンジしてみようと思います。
 先に断っておきますが、私は法学に関してはずぶの素人のしがない社会学士でしかありません。そんな分際でこんな内容をやろうというのも自分でもどんなものかと思いますが、この前電車に乗りながらいろいろと考えるところがあったので読者の方の意見も聞いてみたいので、一つ所見を述べさせてもらいます。
 まず結論から言うと、全部が全部そうだと言うわけではありませんが、私は権利と義務は対立するものではなくむしろ同一直線状にあるものではないかと考えております。

 これは私の持論ですが、「よく権利を主張する人はよく義務を遂行しない人」が多いと考えています。これの代表的な例はいわゆるモンスターペアレントというやつで、給食費を払うという義務を遂行しないでおきながら学校内の子供の扱いにおいて教師らへ様々な権利を主張するという例が数多く報告されており、またモンスターペアレントに限らずニュースに出てくるような数多くの変な団体とかも、言うだけ言っといてやることはやらないのかと見たり聞いたりする度に思わせられます。
 別にこのようなこと、世の中には傲慢な人間たちが溢れているんだということで特段に珍しいことではないのですが、この前ふとしたことからこの逆の構図はありうるのかと、つまり権利をあまり主張しない人は義務もきちんと遂行するのだろうかと考えてみたら、なんとなくその傾向はあるんじゃないかと思いました。

 私の周りを見渡すとやはり社会に対してきちんとルールや義務を行っている一般常識のある人ほど謙虚なことが多く、さらにはことさらに自分の行っている行為を喧伝したりせず、自分はこれだけ義務を果たしているのだからこういうことくらい主張してもいいんだなんてことも全く言いません。となると、先ほどのモンスターペアレントの例と繋ぎ合わすと権利と義務というのは基本的にセットになり、よく権利を主張する人は義務を果たさず、よく義務を果たす人は権利を主張しないという風になるのではないかと考えるに至りました。

 しかしよくよく考えてみると、個人単位でこの両者を見比べるとまるでシーソーのように権利と義務が対立し合って見えるのですが、社会上では始めから権利と義務が一緒になっているものも少なくありません。その代表的なものは主に憲法で規定されている教育や労働で、日本国憲法上で日本人は自らが教育を受ける権利と労働者として守られる権利を持ち合わせていますが、国民の義務として自らの子弟に対し教育を行う義務と労働を行う義務も一緒に課せられています。
 これはちょっと言い方が難しいのですが、権利と義務がセットになっていることでその社会にいる人は、ある場面ではその行為を行う権利者となるものの、別の場面ではその行為を行おうとする人を手助けしなければならない義務者になることもままあるということになります。それは極言をすれば、社会で認められている権利が大きければ大きいほど、その社会が保障しなければならなくなる義務も大きくなっていくということではないかということが、以前に私の頭の中でよぎったわけです。

 これなんか私がよく問題視している例なのですが、ファミレスなどでちょっとでも店員が粗相をしてしまうと感じの悪い客なんかは、「客商売なんだから、もっとしっかりしろよな」とすぐ口に出し文句を言ってしまいます。しかしもしその感じの悪い客がバイトなどで同じような店員をする場合には、自分と同じような感じの悪い客にきちんと接客を行わなければすぐにまた文句を言われてしまいます。
 ですがもし始めから店員に対してきちんとした接客態度という要求がなされないとすると、店員の側もそんなにいちいち細かい挨拶とか言葉遣いに気を使う必要がなくなります。言ってしまえば、客の要求が高ければ高いほど店員の負担は重くなる一方、要求が少なければ少ないほど店員の負担は軽くなるということです。

 このファミレスの例で「要求」を「権利」、「負担」を「義務」と言い換えると、私の言いたいことが読者の方にも見えてくるかもしれません。それこそもしずっと客の側でいられるのであれば要求を言い続けて良い目を見続けることも出来るかもしれませんが、さすがに働かずにずっと生きてけるというのは今の時代には難しいので、同じファミレスでなくとも別の業界にて自分が店員こと社員の立場になって客から同じようにあれこれ要求されることになってしまうかも知れないということです。つまり自らが要求することで権利を社会全体で高めてしまうと、回りまわって自らを拘束する義務になってしまうのではないかというのが私の意見です。

 なにも接客に限らずに社会保障の観点から言っても、いざという時に年金や生活保護を受ける権利があるとしても、その社会で年金や生活保護に使われるお金を出す人がいなければ社会保障というものは成り立たず、言うなればその社会で社会保障が手厚ければ手厚いほど税金は多く必要になってきます。また単純に社会全体で基本的人権が認められるということは、他者に対しても基本的人権を認めなければならなくもなります。
 このようにその社会で認められる権利が多ければ多いほど、その社会の構成員に課せられる義務というものは比例するように増えていくのではないかということです。一見すると権利が広がることで人間は自由や自分の可能性を広げられるとよく言われていますが、その一方で人間を拘束する義務も増大するので、場合によっては自由の範囲が狭まることすらもあるのではないかと思います。

 もちろん最初に言ったように全部が全部こうだとは言うつもりはなく、フランス革命以前は貴族は好き放題出来る一方で大多数の平民に自由がなかったのに対し、革命後に人権思想が広がったことにより元貴族は行動が制限されることとなりましたが大多数の平民には一定の自由が得られ、フランス社会全体で自由の総和というものは増えたのだと私は考えています。
 しかしこの例のように権利が広がることで必ずしもその社会の自由の総和が増大するとは限らず、またモンスターペアレントの例のように、社会の拘束こと義務が減る事でも自由の総和が増大するとも限らないのではないかと、最近企業などへのコンプライアンスの意識が増大することで窮屈さを感じることが増えた日本で考えついたわけであります。

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