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2009年4月1日水曜日

インド旅行記 その四

 また今日もインドの旅行中の話です。さて前回に引き続きベナレス滞在中の話ですが、三日目のその日に私たちは前二日間にも使ったタクシーの運転手の兄ちゃんに朝早くにホテル前まで来てもらい、朝焼けのガンジス川を見に行きました。まだ日も明けきらぬうちにガンジス川の近くについた私たちはリクシャーを置いてガンジス川を浮かべる船に乗って朝焼けを待ちましたが、余計な言葉を飾らずに言って、ガンジスの朝焼けは本当にきれいでした。一緒にいた二人組みの女の子のうちの一人は周りに乗せられるままガンジス川に肩まで沐浴しましたが、私は服とかが濡れるのが嫌だったのもあり顔を洗っただけに止めました。

 ここでちょっとガンジス川沿いの光景について説明しておくと、ガンジス川の川端には約16世紀ごろ、日本風に言うならインドの大名たちがたてたガートと呼ばれる古い建物がたくさん並んでいます。というのも当時よりベナレスはガンジス川の最大の沐浴地として見られており、大名たちはいつでも長く滞在できるようにこうした建物を次々と建築して現在に残っているわけです。現在それらのガートは大名たちから政府が没収したことで一般にも開放され、昔のように一室でホテルをやっているものもいればレストランをやっている方などもたくさんいます。なお現地で私はインド旅行を決意させた「うめぼしの謎」にもでてくる「BABAレストラン」を発見しています。結構有名なところでしたが、なんというかあの場所であの名前だと関西人にとっては……。

 そうしてガンジス川での朝焼けを拝んだ後、それらガートの間の路地からリクシャーを置いたところまで戻る路上で蛇使いによるスネークショーが行われていました。それこそゲリラライブのようなものでいろんな人が集まっているのを見て、私と一緒にいた人たちは自分たちも見に行こうとその輪に加わっていったのですが実はこの時私はあまり見たくはありませんでした。そんな私の気持ちはよそにみんなで最後までそのスネークショーを見てそれぞれ適当に小銭を置いていったのですが、私はその時たまたま小銭を持っていなかったのでそのまま立ち去ろうとしたら蛇使いの人に肩をつかまれて、恐らく「何でお前はタダ見で帰るんだよ!」とでも言われたのだと思います。
 恐らくこういう風になるだろうなという気がしてたのであまりショーを見たくなかったのですが、こうなってしまうともうしょうがないので仕方なく、確か100ルピーを結局置いていったのですが、私がお札を置くなり破格の額ゆえか、さっきはケンカ腰に私の肩をつかんだ蛇使いの人が今度は逆に私を抱きしめて深く感謝してくれました。ホリエモンじゃないけど、お金で買える心もあるんだなぁと実感した瞬間でした。

 その後、その日の夕方に次の目的地のアグラに向かう列車に乗るまで時間が余っているのでどうしたものかと相談していたら、また例のリクシャーの兄ちゃんがいろいろ連れてってやるよと言って、まず彼の通っている大学へと連れて行かれました。今の今まで私たちも知らなかったのですが、その兄ちゃんは見かけによらず大学生でこうしてリクシャーでお金を稼ぎながら学校に通っていたそうです。そうして彼の大学を見た後、今度は彼の自宅へと連れて行ってもらえました。彼の自宅では彼の家族、それこそたくさん下に兄弟らがいて、一人の弟などは生来の病気なのか下半身が動かない男の子でした。自分でもこの辺が非常に貴重な体験が出来たと思っていますが、こうした苦しい生活をしながらも立派に働いて家族を養っているインド人らに対して深い尊敬の念を覚えました。

 彼の自宅を出てガイドらと合流するためにホテルへと戻る途中、その兄ちゃん市場に寄って、「列車の中で食べろよ」と、ぶどうなどの果物を私たちに自分のお金で買ってきてくれました。恐らく前日の我々の報酬に対してもらいすぎたと思っていたのかもしれませんが、結局私たちはその日も別れ際に彼へ多めの報酬を渡しました。

 そうして夕方にホテルに戻ってガイドらと合流し、早めの夕食をとった後でまた私たちは長距離列車に乗り込み、そのまままた車中泊をして次の日の早朝にアグラに到着しました。このアグラには何があるかといったら言わずもがなの白亜の宮殿ことタージマハールで、我々も真っ先にそこへ揃って出かけました。
 ちょこっと解説するとこのタージマハールは当時のインド皇帝が溺愛していた王妃の死に際して作ったお墓で、転じて日本におけるインドカレー店の名前によく使われるほどのインドを代表する観光地となったわけです。

 インドを代表するだけあって、タージマハールは非常に大きな建物でした。ここに限るわけじゃないですがインドでは寺院や観光地は土足では上がれず裸足で入場しなければいけないのですが、あまりに広いもんだからここで足の裏が痛くなったのを覚えています。そうしてアグラ観光をして、その後の記憶は少し曖昧ですが次の日にはまたデリーへ戻る列車に乗り、帰国する日を迎えました。
 帰国するための飛行機は夜発の便なので、昼過ぎにデリーに戻った私とK君(女の子二人組とはここで分かれた)はガイドのスレーシュさんとともに、デリーでまだ行きそびれていた観光地スポットこと、ガンディー廟へと訪れ、私も尊敬するマハトマ・ガンディーへ祈りをささげた後、空港へと戻って帰路についたわけです。

 ただこの帰路にいろいろあって、一番最初の記事にて友人のK君が飛行機の上降による気圧の変動で歯の痛みを訴えたことを書きましたが、帰りの便でも飛び立つ前にえらくブルってたもののK君自ら持参してきた正露丸を歯に詰めていたのが功を奏して特に帰りでは歯については何も問題が起こらず本人もホッとしていました。

 しかしこれで終わらないのがハプニング続きの私の旅行と言うべきか、日本へと向かっている最中に機内食が配られた時にそれは起こりました。乗っている航空会社がエア・インディアなので配られるのはもちろんカレーなのですが、食べる前に「なんか違うな」とは違和感を感じつつもあまり気にせず食べたのが運の尽きで、食べて30分もすると猛烈な腹痛が巻き起こりました。急いでトイレに行って少し流しても全然痛みは引かず、気休めにもう一回トイレに行こうと廊下を見てみるとそこにはもう長蛇の列が出来ていてとても行けそうにありませんでした。横のK君はどんなものかと見てみるとやっぱり同じようにお腹を壊していて、しかも自分も辛かったけど向こうはもっと辛そうだったので、「頑張って」と声を掛けるとまた「頑張れへん」とマジな顔で言い返されてしまいました。今更ですけど、この時のって間違いなく集団食中毒だったんだろうなぁ。エア・インディアではよくあることらしいけど。

 そのように飛行機が関空に着くまで文字通りサバイバルだったのですが、なんとか無事に関空に日本時間の6時くらいに到着して我々もホッとしたのもつかの間、
「すいません、麻薬探査犬が反応をしているので、荷物を改めさせてもらってもよろしいでしょうか?」
 と、荷物受取のところで今度は空港職員の方に声まで掛けられてしまいました。

 もちろん自分たちには何もやましい事などなかったので快く応じましたが、普通に荷物の中には洗濯せずにいる下着などがぎっしり入っているビニール袋もあり、そんな汚いのを手袋をつけてはいるもののいちいち改める職員の方にかえって申し訳なく思うほどでした。なおこの時に職員の方と雑談をしたのですが、やはりインドだといろいろあるということで通常より検査が厳しくなるとのことで、我々にもあまり気にしないでいいと言っておりました。結局私たちの荷物からは何も見つからなかったのですが、麻薬探査犬が何故我々に反応したのかというと、どこか麻薬が使われている施設などに入り、衣服や荷物にその臭いがついて麻薬探査犬が反応したのではないかと職員の方は説明し、そのまま無事開放となりました。最後の最後までオチがついた旅でした。

 ただこの時の空港での荷物改めですが、職員の方との雑談の最中にこんな会話をしたのを何故か印象的に覚えています。

職員「よくアジア地域に海外旅行など行かれるのですか?」
花園「アジアはそれほど行ってないのですが、こんど中国に長く行く予定です」
職員「えっ、それはなんでですか?」
花園「半年後から、中国に一年間留学することになっているんです」
職員「そりゃあいいじゃないですか。是非行ってしっかり勉強してくるべきですよ」

 今思うと、空港の職員の方だったからこそ中国留学についてこんな風に言ってくれたのではないかと思います。そしてその後現実に、私は中国に一年間行って来たわけですが。

 こんなこともあってインド旅行は私にとって非常に面白い旅行でした。ただこんな風に思うのも、向こうでなんの犯罪にも巻き込まれなかったからだと思います。やはりインドは詐欺や強盗といった犯罪リスクが高い国だといわれており、中には二度と行きたくないと思うようになる方も少なくないそうです。自分に限っては悪い思いは何もなく、むしろいい人たちに出会えたので機会があればもう一度行ってみたいと思う国ですが。

 ただ関空からの帰り、インドでは暑かったもんだから半そでのままで三月の京都に戻る際は周りからじろじろ見られたのは微妙に苦痛でした。それ以上に苦痛だったのはあの時の機内食が後引き、しばらく外出する際は常にトイレの位置を確認しながらという生活に追いやられたことです。そんなこんながあっても、私、インドが大好きです。

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