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2009年7月27日月曜日

私が大事にしている信条

 先日に久々に遠方の友人と話してこのブログについて聞いたところ、最近の記事では「Zガンダム風、幸村と家康の対峙」がよかったと褒めてもらえました。まぁあれはマニア向けの記事ですからガンダムネタのわかるその友人には受けるだろうと踏んでいたのですが、この記事とともに先月に書いた「プライドの売り方、買い方」の記事も合わせて褒めてもらったのは正直なところうれしかったです。こっちの記事はそれこそ数年前から私が漠然と思っていたことを記事にまとめた内容でそれだけに力も入っており、他の記事を差し置いてこの記事を挙げてくるあたりさすがだとその友人に感じました。

 そうした過去の記事のことは置いといて、今日は私が日ごろから大事にしている信条のいくつかを紹介しようと思います。
 人間、長い間生きていればそれこそ昔と価値観が変わったり、その場によって判断を変えたりしながら日々やりくりをしながら生きております。しかしそんな中でこそあまり変動することの無い価値観こと信条というものは個人を識別する上で非常に大事であり、また生き方を決める上でも大きな比重を占めることになります。もちろん私にもそういう信条がいくつかあり、「これだけは何が何でも変えてはならない価値観だ」と大事にしながら生きております。そうした信条をどうして持つに至ったのかを含めて、ちょっとストーリ仕立てにして今日はお送りしようと思います。

1、「周りに流されるな」
 いくつかある信条の中で最も早く私の中で固まったのは、この「周りに流されるな」という信条でした。これは私が幼稚園生だった頃、さすがに何をやったのかもう自分でも覚えていませんが何か粗相をやらかして保母さんに怒られた際に私は、「○○君もやっていたよ」と、なんでそんな粗相をしたのかという言い訳を吐いたところ保母さんは、「ほかの人がやっていることなら悪いことでも何をしてもいいの」と言い返してきました。
 この時私は幼稚園生ながら確かに言われてみるとその通りだと思い、それ以降は貫徹しているとはさすがに言い切りませんが周りの人間が何をしようと、何と言おうと、自分が間違っていると思う行動に対しては絶対に組みしたりせず、また間違っていると思うものに対しては一人でも批判するように努めてきました。言葉的には「抵抗する態度」と言ったほうが適当かもしれませんが、その後に反抗してなんぼの(決してそんなわけないけど)キリスト教の精神に触れたり、戦前の日本の軍国主義時代の挙国一致体制の欺瞞などを知ったりしてますますこういった態度が強くなっていったように思えます。
 良く言えば意思を貫き通すようになり、悪く言えば頑固になってしまった信条ですが、自分には非常に合っている信条だと思って未だに堅持しております。

2、「形より実、建前より本音」
 これは小学生の頃に固まった信条ですが、きっかけは塾で読んだある評論からでした。その評論の内容というのは、以下の通りです。

 ある冬山で遭難した男が山の中で姉妹が住む家にたどり着いたところ、出迎えた姉妹のうち妹は男に声をかけて元気付け続けたのに対し、姉のほうは男に言葉もかけずに黙々とスープだけを作って男に差し出した。この姉妹の行動を比べると一見どっちもどっちに見えるが、真に価値があるのは姉の行動である。確かに遭難して心細い男を元気付けるのは悪いことではないが、この時の男に真に必要なのは体を温め栄養を取るという行為である。たとえ元気付けようとしなくとも、男にとって必要とされるスープを差し出した姉の行動こそがこの状況では正しいのである。

 私がこの評論を読んだ当初は額面通りに受け取らず、そうは言っても元気付けるのも大事なことなんじゃないかなぁと思ってむしろ筆者に対して逆の感情を覚えました。しかしそれから月日が経つにつれ、何故だかこの評論が引っかかってだんだんと筆者のいう通りなんじゃないかと思い直すようになっていったわけです。何でそのように考え方が反転していったのかというと、日々生活しているとみんなあちこちで「あれが必要だ」、「ああすべきだ」などと毎日のように口には出すもののそれを実際に行動に移す、もしくは移そうとする人間となるとほとんどいません。それこそ環境問題を例にとると環境保護が大事だと主張する人間はたくさんいますが、その保護のために実際にボランティアとして働いたりする人となるとほとんどいなくなってしまいます。中にはエコカーに乗り換えたと言う人もいますが、それだったら自転車に乗り変えた方がずっとエコだと言い返してやりたいです。

 こうしたことから私は、下手に周りに合わせて心配したり喜んだりする態度を敢えてとらないようになりました。そんな態度をとる必要があるのならその状況下で少しでもプラスになるような行動をとるべきと、見かけにこだわらず実をとことんまで追求し、理解に中途半端な時間をかけるなら建前を用いずとっとと本音と結論をぽんと出すべきだという風になっていったわけです。そういうのが影響しているのか、文化も質実剛健が売りな鎌倉文化が好きなわけです。

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