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2010年2月11日木曜日

石田三成は本当に戦下手だったのか?

 石田三成というと豊臣政権下で太閤検地を主導するなど、どうも官僚的なイメージが付きまとう戦国武将で関ヶ原の合戦での敗戦もあって軍事的才能は低かったという評価が一般的です。特にゲームの信長の野望シリーズではその傾向が顕著で、政治能力がトップクラスに高い一方で武力はほぼ最低ランクの典型的な内政型武将で、実際に私も戦下手だったから関ヶ原では島左近勝猛に全部任せていたんだろうなどと勝手に考えていました。
 しかし本当に石田三成は軍事面の知識がなかったのか、そんな概念を考え直させられるあるエピソードが関ヶ原の直後にありました。

 関ヶ原の合戦の後、捕縛された石田三成は処刑場となる京都に護送されたのですが、天下を握ったも同然の家康を気にして旧知の人間ですら三成に声をかけない中で、黒田長政と藤堂高虎の二人が三成に声をかけたそうです。
 長政は自分の陣羽織を捕縛されている三成にかけると、「ご苦労でござった」と、武士としてねぎらいの言葉をかけ、藤堂高虎は三成に、「関ヶ原での我が軍の鉄砲隊は如何でござった?」と尋ねたそうです。この高虎の問いに対し三成は、「少し乱れがござった」と答え、その原因は何かと高虎が重ねて聞くと、「指揮官に自信がないせいかと思われる。お替えになるがよかろう」と答えました。それを聞くと高虎は、「実は拙者もそう思っておりました。ご指導、ありがとうございます」と、三成の返答に満足して見送ったそうです。

 このエピソードを聞くと、三成は戦場において敵軍の様子を仔細に把握していたという様に取れます。しかも戦国時代を見事生き抜き伊勢において藤堂藩を開いた藤堂高虎と一致した意見を持ったということは、それ自体相当な観察眼と言うか見識を持っていたのではないかという気がします。
 同じく関ヶ原では三成同様に豊臣政権下では官僚的な役割であった大谷吉継も大奮戦しておりますし、関ヶ原の敗戦一つで三成に軍事的才能が全くなかったと判断するべきではないかもしれません。しかも三成は徳川政権下では一貫して否定的に見られていた(徳川光圀のみ肯定的に評価した)人物で、これからはもうすこし公平な評価が特に必要な人物なのかもしれません。

  参考文献
・歴史を「本当に」動かした戦国武将 松平定知 2009年 小学館新書

2 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

私も石田光成は名将だと思います。ある程度の器がないと西軍のあれだけの軍勢を味方に引き入れ、動かすことは不可能だと思います。

花園祐 さんのコメント...

 なんだかんだいってあれだけ大動員をかけたのは大したもんですよね。ただこれは現代でもいえますけど、いくら大勢だからと言って大してやる気のない人間を味方に引き入れると小早川や島津みたいに足を引っ張られるので、無理して引き入れず、長期戦に持っていったほうが良かったのではないかと思います。