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2010年5月24日月曜日

大学生犯罪の一般化

 ちょっと前にどの番組かまでは忘れましたが、あるゲストが昭和期に起こった「吉展ちゃん誘拐殺人事件」を引用し、仮に今このような誘拐殺人事件が起きたとしても当時のように大きく騒がれないほど、現代はこのような猟奇事件が一般化して来ていると言っていました。このゲストの発言を聞いて私も素直にその通りだと感じ、凶悪犯罪件数が増えているかどうかについてはまだ検討の余地がありますが、かつてなら連日連夜取り上げられていたような猟奇事件のワイドショーにおける賞味期限は確実に早くなっては来ていると思います。

 ただこうした猟奇事件以上に私が一般化し過ぎて問題ではないかと感じるのが、今日の本題となっている大学生による犯罪です。
 一応、日本の最高学府とされている大学に通う人間は普通の感覚で言えばある程度選抜された学識者と見られるべきなのですが、すでに大学全入時代を向かえている事もあって大学生と言っても日本ではあまり泊がつかなくなっております。それでもかつての大学生はエリートとして扱われており、戦後直後に起きた「光クラブ事件」「日大ギャング事件」といったいわゆるアプレゲール事件の当時の報道は、「どうして学識もあり、将来を約束されているような学生がこのような犯罪に手を染めたのか」、といった論調で以って報じられたと聞いております。

 翻ってみて現在、たとえ大学生が詐欺や殺人事件を起こしたとしても余程の有名大学でなければニュースにすらなりません。まだオウム事件の頃は、「これだけのエリートが何故?」という議論が当時ありましたが、現在に至っては数年前に早稲田大学の学生を中心とした振り込め詐欺グループが逮捕された際に、
「早稲田の学生らだけあって、(詐欺)電話での対応マニュアルまで作られていた」
 という報道がされていました。なんていうか、反応に困るんだけど。

 他の人がどう思うかは分かりませんが、意識しない所で当たり前でなかったこのような概念が当たり前になっているという事に、私は大きく問題がある気がします。大学生は犯罪など起こすわけがない、という概念を持っている社会と、大学生でも変わらず犯罪を起こす、という概念の社会を比べるなら、やはりどうみたって前者の社会の方がまともそうに思えますし、目指すべき社会の形だと思います。実態はどうであれ。

 去年の年末に私は、ほぼ毎日のように東京のどっかしらの鉄道路線が人身事故で止まっていたことについてどこも報じないばかりか、誰もおかしいとは言わなかったことに、今の日本社会はどこか異常なのではないかと書きましたが、この所の犯罪に対する感覚もあってはならないほど麻痺し過ぎてやしないかという気がします。恐らくこのまま行けば、数年後には児童虐待に対しても今ほど報じられる事もなくなるかと思います。

 作家の渡辺淳一氏(勝手にナベジュンって略しているけど)はその著書の「鈍感力」において、気にしなくていいものを気にしないというのは一つの才能であり能力だと書きましたが、その一方で本当に気にしなければならないものに気がつかない、気にしないというのは鈍感力ではなくただの鈍感であって、あってはならない事だと述べていました。私はよく人から何事も気にしすぎだと言われていますが、今日ここで書いた今の日本社会の風潮に対する懸念も杞憂なのかどうか、悩みどころです。

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