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2010年7月26日月曜日

私の好きな白鵬について

 昨日、終始波乱に満ちた名古屋場所が何とか無事に終わりました。開催前にはあーだこーだ言われていながらも終わってみれば観客数は前年度の一割減に止まり、当初予想されていたほどの落ち込みもなくNHKの中継がなかったとはいえまずまずの結果でした。
 そんな名古屋場所で最初から最後まで大きな貢献を果たしたのは、誰の目から見ても優勝した横綱白鵬にあることは間違いないでしょう。先場所、先々場所に続く全勝優勝を果たしただけでなく、力士としての連勝記録も単独で三位、平成に入って以降ではついに過去最高の記録にまで至りました。恐らくこの白鵬の存在と活躍がなければ、今頃相撲協会は公益法人格を取り下げるべきだという声が公然と出ていたかと思います。

 そんな白鵬ですが、力士としての取組ぶりはさることながら以前から私はその個人としての人格も高く評価しておりました。そこで今日は優勝記念とばかりに、白鵬のサクセスストーリーとに彼について私の知っている事をここで紹介しようと思います。

 今でこそ力士として大成している白鵬ですが、彼が日本の相撲界に入ったのはわずか15歳の頃でした。すでにモンゴル人力士として日本で活躍していた旭鷲山を頼って来日したものの、一緒にやってきたメンバーは次々と相撲部屋からのスカウトを受けて次々と引き受け先が決まっていったにもかかわらず白鵬には全く声がかかりませんでした。このままではモンゴルに帰るしかない、そんな白鵬の苦境を知るや旭鷲山が斡旋に動きました。

 実はこの旭鷲山と白鵬には因縁があり、モンゴル相撲の祭典に16歳の旭鷲山が出場したものの貧しい家庭出身ゆえに満足な食事が取れておらずお腹をすかしていると、当時4歳だった白鵬が食事を恵んでくれたそうです。二人ともこの時のことをよく覚えていたものの、この来日した白鵬の斡旋に動いていた際は互いにその時の相手だと分からず後になってあの時の相手がお互いだったと気づいたそうです。

 そんな白鵬と旭鷲山ですが、当時背は175センチと高い身長ながらも痩せ型の体型の白鵬を引き取る相撲部屋はなかなか見つかりませんでした。そうして悩んだ末に旭鷲山は、
「そうだ、あの駄目な宮城野部屋ならなんとかなるだろう」
 と、当時弱小だった宮城野部屋に「身長が高く、将来有望な少年がいる」とほとんど騙すような形で連れて行ったそうです。そうやって白鵬は宮城野部屋につれてこられたのですが、その白鵬を見るや当時の宮城野親方(現熊ヶ谷親方)は全然話が違うと追い返そうと考えたそうですが、不安そうな表情を浮かべている白鵬を見るに見かねて内弟子としてとることにしたそうです。

 とはいえ当時の白鵬は日本語も全く分からず、しかも先ほども言った通りに非常に痩せていたため、宮城野親方は最初は稽古を一切させずにただご飯を食べて寝ろとだけしか指示しなかったそうです。当の白鵬もこれには困惑して、女将さんが言うには当時の白鵬の口癖は「何で?」だったそうです。
 またある日、白鵬が一人で写真を見ていたので女将さんが声をかけると、白鵬は家族の写真だとその写真を見せてくれたそうです。そんな白鵬をみて女将さんはモンゴルに帰りたいのと聞くと白鵬は、「いや、横綱になるまでは帰れない」と毅然と言い返したそうです。

 言葉も分からない外国で、しかも日本人ですら逃げ出すほど厳しい相撲部屋に入ったわずか15歳の少年が、ここまで覚悟を持てるものかと初めてこの話を聞いた時は非常に驚きました。多分私ならすぐに逃げ帰ってるだろうし。
 そんな白鵬も体格が出来上がってくるや、元からの高い身体能力とあいまって異例のスピードで昇進を重ねていきます。私が白鵬の取組を見始めたのは2005年頃からですが、当時からも足腰の強靭さは並外れており、なおかつ一度廻しを掴んだら絶対に離れないと言われる握力とあいまって大きく印象に残ったのを今でも覚えています。

 そうやって出世街道を走った白鵬が初めて取組で懸賞金を得ると、それを真っ先に宮城野親方と女将さん夫婦の元へ持っていって全額を渡したそうです。こうしたエピソードの数々を思い起こすにつけ、力士以前に白鵬という個人の人格に対しても尊敬の気持ちが湧いてくるわけです。

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