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2010年12月8日水曜日

お上と法律

 昨日はきちんとブログを書こうと思っていたのですが、思っていた以上に風邪がひどくて(38度中盤までいった)パソコンに向かう事すら出来ませんでした。今はようやく平熱に戻ったけど、もう海外に行くから国民健康保険も11月に切っているので、リアルに病院にいけない事態だったことに途中で気がついてちょっと焦りました。

 私は以前に「呉起と商鞅」という記事を書いていますが、この記事に出てくる商鞅は中国における法家の始祖とも言われており(荀子を始祖とする説もある)、日本の史記関連の書籍では必ず出てくるほどポピュラーな人物であります。現在でこそ国の統治体系として法治国家は当たり前ですが商鞅以前は時の権力者が割合に好き勝手でき、揉め事の裁判に関しても恣意的な判断がまかり通っているのが当たり前でした。

 そんな世の中を画一された判断基準こと法律で統制する事で国はもっと強くなると考えた商鞅ですが、そもそも法律という概念の薄い当時の人間にどうやれば法概念を浸透させられるかを当初は考えたようです。そこである日商鞅は役人に命じ、門の前に丸太を一本立てて横の看板に、「この丸太を指定された場所に移せば懸賞金を与える」と書かせました。そんなただでお金をくれるようなことをするわけないと街の人間は最初は相手にしなかったのですが、しばらくすると懸賞金の額が上げられ、では試しにとある男が丸太を指定地へ運ぶと商鞅は約束通りの金額を男に与えたそうです。
 これには与えられた男も半信半疑で本当に受け取っていいかどうか迷ったそうですが商鞅は、お上の言う事に嘘偽りはないと言ってきちんと渡しました。

 一体商鞅は何をしたかったのかというと、お上が出す布令に対してはお上も必ず守るということを示した上で、布告された法律を一般市民もきちんと守るようにということを伝えたかったのかと私は考えています。事実その後、商鞅のいた秦は法律が隅々まで行き届いて地面に落ちている物を誰も拾わなくなるほどだったそうです。

 さてこの法律ですが、考えてみれば一体どうして我々は守っているのでしょうか。社会学とかでも何が行動を規範しているのかを取り扱う事もありますが、冷静に考えれば法律というのは刑罰という強制力こそあれども我々は刑罰にかけられない事案に関しても実に幅広く守っております。結論を言えばそれは基礎教育で育まれる遵法意識があってこそで、この辺の意識が国家から国民に至るまで薄い中国人なんかは日本人からすれば横暴に見えてしまうのでしょう。
 その中国人の遵法意識を取り上げても面白いのですが今日取り上げたいのはそれではなく、どうすれば遵法意識は高まるかです。これも結論を言えばいくつか影響させる要素があれども特に重要と思えるのは「お上への信頼」だと私は考えています。

 法律というのは身分や年齢に関係なく誰にでも平等に適用されるからこそ法律なのであって、必然的に地位が上の人間にもきちんと適用されるかどうかが一般市民からしたらその平等性のバロメーターになります。逆を言えばそういった人間らが法律を守っていないのを見ると私達からしたら、「なんだこのやろう!!(#゚Д゚)」と思うわけです。

 この遵法意識に対するお上の振る舞いについては、同列で並べるべきじゃないかもしれませんが孔子の論語でも言及されています。孔子の論語は言ってしまえばエリートに対する教本で施政者の心構えなどを説いていますが、全体を通して、「一般市民は親が子を見るように、お上の振る舞いを見て自らの振る舞いを決める。その為施政者が自らの行動を慎めば市民も慎み、道を外せば非道が横行する」と説いてます。

 翻ってみて今の日本の状況はどんなものか。平成以降ではほぼ間違いなく最大額の脱税をした鳩山由紀夫元首相は一部時効となったため本来の納税分を納めないばかりか処罰を受けず、小沢氏に至っては真っ黒なのにまだ起訴されないばかりか政治倫理審査会も拒否し、そうした不正を取り締まる検察は不正な捜査を行っている始末です。
 これまでに何度か、政治家には図抜けた胆力や決断力といった能力が求められるのであって金に対して清廉潔白な徳までいちいち求めるべきでないという評論家の意見を見たことがありますが、私は法治国家である以上は政治家には徳というものが求められるべきだと考えていますし、今の時代だからこそそういった人材が要求されていると思います。

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