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2011年9月7日水曜日

天下統一後にしなきゃいけないこと

 古代史ネタはほぼもう書き終えたので、またいつも通りというか変な歴史ネタです。
 さて天下統一と言えば立派な大事業ですが、主導権を握ったもののその後は権威を保てず勢力を失うというケースは古今東西地域を問わずに数多くあります。ちなみに私の曾祖母の実家は鹿児島県菱刈というところですが、なんでもここは平家の落人の里ということで自分は平家出身だったようです。

 その平家を筆頭に基本的に、建武政権、豊臣政権は一時天下を握ったもののすぐに没落し、所変わって中国に至ると三国志の魏を筆頭として本当に出来た途端にすぐ潰れる政権がたくさんあります。これら政権の特徴、というより逆に長く維持した政権との違いはどこにあるのかと問われるならば、私が答えるとしたら自軍における武装勢力の駆逐ではないかと考えております。

 自軍における武装勢力の駆逐ですが、これを日本史上最もえげつなく実行したのはほかでもない明治政府です。知ってる人には有名な話ですが明治維新後に真っ先に反乱を起こしたのは旧幕府勢力ではなく実は長州藩の奇兵隊出身者らで、明治政府は維新に成功するやその武力闘争における原動力となった武士勢力を敵味方問わず猛烈に切り崩しを図っております。廃刀令に始まり版籍奉還、終いには廃藩置県とその手のひら返しは徹底していましたが、その甲斐あってか明治十一年の西南戦争を最後に革命後の武装反乱は完全に終結させることに成功しています。
 また明治維新以外にも徳川幕府における統治でも、関ヶ原の合戦以降は本田忠勝を筆頭として譜代における武闘派の面々を閑職に追いやり、大坂の陣以降は外様大名を徹底して締め付けて武士の兵士からサラリーマン化を推し進めていきました。もっとも江戸時代初期はやりすぎちゃって、浪人が大量にあぶれて治安が悪化した面もありましたが。

 上記のように政権を握った後に自らの武装勢力を削った政権というのは比較的長生きする傾向があるのですが、その逆のパターンとして日本においては室町幕府が好例です。室町幕府は三代目の足利義満の時代にようやく天下統一を成し遂げ、彼の時代においては直属の近衛兵が組織されたり山名氏をはじめとした各地の元味方だった大名を次々と討伐したのですが、義満の死後はまた大名同士の合議制に戻っていきます。その結果起きたのは将軍家を凌ぐほど大名家の力が増し、最終的には応仁の乱という形で暴発したことで完全に権威をなくすこととなりました。室町幕府は見かけ上はそこそこ長く続いてはいますが、幕府として機能したのは実質、三代目義満から六代目義教の時代まででしょう。

 では中国の場合はどうかですが、ある意味最も武装勢力の切り崩しに成功したのは前漢の創始者である劉邦で、彼は天下を取るや項羽率いる楚との戦争で最も活躍したトップ3こと、韓信、英布、彭越の三人を討伐、もしくは暗殺しています。その代り皇室縁者こと呂皇后の一族がやけに権力握っちゃって劉邦の死後は一時ドタバタしたものの、幸いにも陳平らが生き残っていたことでこの難局を乗り切り400年にも及ぶ政権となりました。
 この前漢同様に十世紀に成立した宋では、建国者である趙匡胤は元々軍人だったにもかかわらず、自分が皇帝になって以降はこちらも敵味方問わず軍閥の勢力をどんどんと削ぎながら文人官僚をどんどん登用していきました。まぁこちらもオチを言っちゃうと、そこそこ政権としては長く続いたもののあまりにも軍人が弱くなって異民族勢力にやられることとなるわけですが。

 このように天下を取るためには必要だった武力というのは統一後にはかえって不安定化させる要因となりやすく、成功した政権というのはどこかしらでこれら勢力の漸減を図っています。話は現代に戻しても戦時ならまだしも平和時には軍隊は金がかかるだけで、冷戦後はどこの国でも多大な軍事費を削るために軍隊規模を縮小していますし、毎年二桁%で軍事費が伸びている中国においても恐らく共産党幹部らは本音では縮小したいように見えます。そういう意味ではマッカーサーが残した、「老兵は死なず、ただ去るのみ」というのは、本来の意味とは違いますがなかなか的を得ているなという気がします。

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