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2011年10月31日月曜日

世界人口70億人突破を受けて

 本日国連は世界人口が70億人を突破したという発表を行いました。自分が記憶している中で少なかった頃は55億人だったと思いますが、短い間にまた随分増えたものだなという気がします。それにしてもさすがに55億人の頃はまだ遠かったですが、ここまで来ると100億人の大台もなんだか現実味を帯びてきました。

 ここでちょっとふざけた予想をしますが、将来的には今のCO2排出権取引みたいに世界で人口抑制策が実施されるかもしれません。それこそ国ごとに何万人まで生んでいいという枠が作られ、それを超えた分には超えていない国からお金で出産権利を買ったりとか。
 ただ真面目な話、人口が100億人を超えると本格的に地球の資源は持たなくなると思います。詳細について詳しくないですが現在の食糧生産を支えている化学肥料において、その原料となるリンの枯渇が近々起こるという話も聞きます。化学肥料なしで現在の食糧生産は考えられず、仮にリンが枯渇した場合は世界で急激に食糧がなくなり、残った食料が恐ろしく高騰するのではないかと言われています。そういう意味で飽食の時代というのはもう過ぎ去りつつあり、ある意味歴史上で自然であった飢餓の時代がまた来るかもしれません。

 では飢餓の時代を迎えたらどうなるのか、自給率の低い日本は終わってしまうのかと心配される方もいるかもしれませんが、恐らくそのような時代でも食糧取引はお金で取引されるので経済力さえ維持していれば日本が飢餓に陥ることはなく、むしろ有利になってくる可能性があるかもしれないと私は見ています。
 ここで一気に話を飛ばしますが、これからの30年くらいを考えた場合、人口が少なければ少ないほど国際世界で有利になる可能性が高いと私は見ています。日本の例をはじめとしてテクノロジーの発達によって必要な労働力は非常に少なくなってきており、先進国は多かれ少なかれ「どれだけ生産力を挙げるか」ではなく「どれだけ仕事を割り振るか」が大きな課題となっているように、社会保障の負担というかバランス取りが政府の一番大きな仕事となってきています。

 ただ現在はまだ食糧とエネルギー価格が安いためにアメリカのフードスタンプみたいに維持できることができますが、世界人口が増え資源が本格的に不足し、食料とエネルギー価格が上昇したらその分だけ社会保障費も肥大化するわけです。その時に食わせる人口が少なければ少ないほど余計な出費が減るわけで、ある意味超長期的な視野に立つならば少子化は推進するべきじゃないかと最近考えるようになってきました。
 少子化は確かに直近20年で言えば日本にとってマイナスです。しかし30年以降の世界を考えるなら、無理して対策しない方が却って日本のためになるんじゃないかとよく思います。

 日本の人口は現在1億2千万人ですが、まずは7千万人くらいを目指すべきじゃないかと、秋の夜長に思うわけです。

2011年10月30日日曜日

ハリウッド人気子役のその後

 映画を見る方かと問われるならば「見ない方」と答える私ですが、ハリウッド映画における人気子役のその後の人生について何故かデータがそこそこ集まっているので日本でもおなじみだった子役俳優を何人か紹介しようと思います。

リバー・フェニックス(代表作:スタンド・バイ・ミー
 夏休みの少年による冒険物語と言ったらこの作品しかないとまで言われる「スタンド・バイ・ミー」で、主人公の親友役としてリバー・フェニックスは出演しています。作品の中でリバーが演じた役は準主役ともいうべきキャラというのもありますが、作中で明らかに主役を食うほどの演技力を見せており見た人にとっては忘れられない印象を持ったかと思います。
 この作品以降もリバーは活躍を続け若くしてハリウッドの大物として知れ渡りますが、皮肉にも彼が「スタンド・バイ・ミー」で演じたキャラクター(弁護士となるも喧嘩の仲裁中に刺殺される)のように麻薬の過剰摂取によって23歳の若さで早世しています。もし彼が生きていたら、ハリウッドの勢力図は今とは大きく異なっているのではないかと最近にも報じられるほど、その死は各界から惜しまれています。
 なお彼の弟であるホアキン・フェニックスも俳優をしており、「グラディエーター」では兄に劣らずローマ皇帝コモドゥス役で名演(怪演?)を見せており、こちらも主役のラッセル・クロウを食うかのような存在感を発揮しております。

エドワード・ファーロング(代表作:ターミネーター2
 映画初出演ながらターミネーター2で主役のジョン・コナー役を演じ大成功を納めるものの、ここで紹介するほかの俳優らと同様に成長とともに麻薬とアルコールに溺れ、リンクを貼っているウィキペディアのページを見てもらえばわかりますがあの若かりし頃に見せた美少年の姿はもうそこにはなく、一応俳優は続けているそうですがそのあまりの堕落ぶりに「ターミネーター3」への出演は見送られたそうです。

ブラッド・レンフロ(代表作:依頼人
 個人的にかなり記憶に残っている俳優です。私が代表作に挙げた「依頼人」のオーディションで上のエドワード・ファーロングを見出した人物に選ばれ、この作品以降も見事な演技と相まって若手俳優として一躍名を上げます。ちょうど全盛期の頃に日本のゲームの「バイオハザード2」のテレビCMで主人公の男性警察官役でも出演していましたが、私生活はまた例によって早くから麻薬とアルコール漬けで、25歳で過剰摂取によって急死しています。

マコーレ・カルキン(代表作:ホームアローン
 天才子役と言ったら自分らの世代にとってまず第一に、このマコーレ・カルキンが挙がってくるんじゃないかと思います。コメディ映画の「ホームアローン」は日米で大ヒットしてその名を世界中に知れ渡らせたマコーレ・カルキンですが、彼の成功後に両親が不仲からドル箱と言っていい彼の親権を巡って対立し、それが影響したのかこちらもまた早くからアルコール浸りとなっていったそうです。一応今でも俳優業はしているそうですが、20代前半期に活躍できなかったというのは非常に残念なものです。
 ちなみにアメリカでは仲が良かった故マイケル・ジャクソンの裁判に証人として出廷し、マイケルの児童虐待裁判で彼の無実判決を決定づける証言を行ったことから、「マイケルを救った人」としての印象が強いそうです。

イライジャ・ウッド(代表作:危険な遊び
 マコーレ・カルキンが子役として当時圧倒的な知名度を持っていた頃、彼と二分する人気を持っていたのがイライジャ・ウッドです。代表作はちょうどそのマコーレと共演し話題となった「危険な遊び」を挙げていますが、彼の真の代表作は有名故にお気づきの方も多いでしょうが主役のフロド役を務めた「ロード・オブ・ザ・リング」に他ならないでしょう。
 イライジャはこれまで上げてきたほかの子役に比べると成人後も俳優として成功しており、今も現役で活動を続けています。一見するとちょっと頼りなさげな見かけをしていて、「ロード・オブ・ザ・リング」の前に主役で出た「パラサイト」もそのまんまな高校生役を演じていますが、やっぱりフロド役は彼でなければ今じゃ想像できないことを考えると相当な演技力だと私は考えています。
 ただ「ロード・オブ・ザ・リング」の3作目ではフロドの従者であるサムがストーリー上であまりにもかっこよかったことから、キャラが食われているのではという指摘が私の周りでよくされていました。そんなサムを演じたショーン・アスティンも、知られざる有名子役だったということに最近気が付きましたが。

ショーン・アスティン(代表作:グーニーズ
 上述の通りに「ロード・オブ・ザ・リング」のサム役で好演を見せたショーン・アスティンですが、なんと彼は往年の冒険映画「グーニーズ」のあの喘息持ちの主人公役も演じていました。実際にグーニーズ以降はヒット作に恵まれていなかったそうですが、あの少年がサムだったなんてと知った際には大いに驚いたものです。どうでもいいことですが、昔ファミコンゲームでよくグーニーズしていました、クリアできなかったけど。

ジョナサン・キー(代表作:インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説
 そんなショーンとグーニーズで共演していた子供の中には、「インディ・ジョーンズ、魔宮の伝説」で主役のインディを助ける少年を演じたジョナサン・キーも出演しています。こちらは現在俳優をしておらず武術指導など映画スタッフとしての道を歩んでいるそうです。

 という感じでざらっと紹介しましたが、日本でもそうですがやはり子役として有名になったからと言って俳優として大成するのは難しいようです。それにしたってアルコールと麻薬依存が多過ぎる気がしますがそれはアメリカ故ということで、今後は「ハリー・ポッターシリーズ」に出演している俳優らがどのように活躍していくのかが注目ですが、私の予想としてはやはり大多数は埋もれていき、ショーン・アスティンのように30代に入った頃にぽっとまた芽が出る人が現れるんじゃないかと見ています。

2011年10月29日土曜日

忘れられない二つの寓話 後編

 前回記事に続き、私が小学生時代に読んで影響を受けた評論文の話をします。前置きはいいので、さっさとあらすじを紹介します。

 私が読んだその評論文ではまず最初、雪山で遭難した男の話から始まりました。
 雪山で遭難して凍死しかけていたその男は、九死に一生の所である民家を見つけて尋ねたところ、その民家の中にいた姉妹は快く男を部屋の中へ招き入れました。男を招き入れると快活そうな妹は男にいろんな言葉をかけて明るく励まし続けた一方、無愛想な姉は何も言わず、黙々と男へ与えるスープの準備を続けました。
 作り話ですがこの姉妹の行動についてその評論の筆者は、確かに妹の行為は無駄ではないものの、男にとって本当に必要なものは姉が用意する体を温めるスープであって励ましの言葉ではないと断じ、たとえ相手を思っての行動でも本質が伴っていなければ意味がないという結論にまとめていました。

 さらっと書きましたが、この評論文自体はそれほど特別な内容を説いているわけではないものの何故かずっと心の中に残っています。この評論だけが原因ではありませんが現実の私の行動もこの筆者の考え方に沿うようになっており、外見や飾りとかよりも中身というか本質を重視する性格になっています。
 一番代表的なのは普段使う言葉で、今でもよく注意というか激怒までされましたが、社内で仕事している最中に私は「お客様」という言葉は使わずに普通に「客」といつも発声します。私に激怒した人なんかは客に対して尊敬の気持ちがないなど失礼だとか言っていましたが、私は買主と売主は本来対等の関係なのに買主側の権威をむやみやたらに引き上げたことがクレーマーの跋扈に繋がったという考え方もありますが、そもそも「客」という言葉自体に一定の敬意が込められていると思っており、「お客様」というのはやや過剰な尊敬表現でむしろ中身がないように思うことから使いません。さすがに客の目の前であれば周囲に合わせて用いますが。

 第一、言葉がぶっきらぼうとはいえその意図したいことが真に相手のことを考えているなど本質を用いているのであれば、言葉尻を捉えてああだこうだ言うのは随分と不毛な気がします。こういうちょっとねじくれた考え方をしているせいか、遠回しな言い方は好まないために相手に対して直接的にキツイ言葉を言うこともあって「そこまで言わなくとも」と言われることもありますが、遠回しだろうが直接的だろうが言っている内容は一緒にもかかわらず何をかという気がします。

 また言葉だけでなく行動面でも、評論中のエピソードの姉のようにやることさえ本質を得ていれば余計な愛想も必要ないと考えています。そのため愛想があろうとなかろうと、やることがやれない人間に対しては同じ評価を付け、「彼は仕事はダメだけど明るいのが救いだな」という評価は一切しません。「明るいだけのただのポンチ」と言うことはありますが。

 現在の日本はあちこちでコミュニケーション力とかいうものの必要性が叫ばれていますが、このコミュニケーション力の意図するものが表現力であれば私も頷きますが、愛想というのであれば順番が違うんじゃないかと問いたいです。私がここまで強く愛想というものを否定するのも、「失われた十年」の間は社会全体でまさに外見ばかりが重視され、中身が全く伴っていない不毛な議論に終始し続けたという印象が強いからです。景気が良くなってきたら借金を減らそうと言って1000兆円まで積み上げたり、破たんすることが見えていながらほったらかしていた年金など、重要な問題は先送りしてどうでもいい議論ばかりだったなぁという反省があります。

2011年10月27日木曜日

忘れられない二つの寓話 前編

 私は中学受験をした関係から小学校四年生から塾通いを始めましたが、この過程で得た大きな経験として当時に大量の評論文を読んだことが挙げられます。基本的に塾での国語の時間は現代文を読んで問題解答に取り組むのがオーソドックスですが、題材に使われる評論はそれこそ授業ごとに変われば毎週行われるテスト時にはまた別の評論が出てくるなど、真面目な話であれだけ多種多様な評論をまとめて読むというのは成人や大学生でもほとんどいないんじゃないかと思います。
 そんなたくさん読んだ評論(小説もあるが)の中で、未だに折に触れては思い返し、自分に強い影響を与えた話が二つあります。最近スランプを克服してきているのもあり、ちょっと前後編に分けてその二つの評論こと寓話を紹介しようと思います。

 本日紹介するのは評論というか昔話ですが、以下にざらっとあらすじを書きます。

 時代は江戸時代頃で、ある日武士が鍛練として外で弓を打ち込んでいると、商人らしき男が近くに座りその様子を眺め始めました。武士はその商人の前で的のど真ん中に何本も矢を的中させ「どうだ俺の腕前は( ゚∀゚)」と商人に尋ねましたが、武士の問いに対し商人は「手馴れてますね」と、大して感動する素振りも見せず答えました。
 商人の答えにむっとした武士は、「これだけ正確に的中させているのに手馴れているはないだろ。達人級の技だぞ俺の弓は(゚Д゚#)」と言い返しました。すると商人は財布から穴の開いた貨幣を取り出すや瓢箪に詰めた油を上から注ぎ、こともなげに油をひっかけることなくその貨幣の穴に通してみせました。
 妙技を見せた商人は「毎日その作業に携わっていれば自然と腕は熟達します。達人などと自分の腕を誇るまでもないでしょう」と語り、武士もその言葉を受け商人に非礼を詫びたとのことです。

 何故だか知りませんが、この寓話だけは今の今までずっと忘れずによく思い返しております。
 この話の中の商人の言う通り、私は大抵の行動というか作業での上手い下手というのはその作業にどれだけ慣れているかの違いでしかなく、才能とかそういったものが作用する要素というのはごくごく微量だと考えています。そのためたとえどれだけ自分がほかの人より優れた技術、それこそタッチタイピングの早さとか文章量の多さなどで勝っているとしても、それらはただ自分がそうしたものに触れる時間が長かっただけでほかの人も時間をかければ同じ水準に達することができるので威張れるようなことじゃないと肝に銘じてます。もっともこれとは逆ベクトルの考え方もあって、自分よりゲームが上手い人とか見ると、「俺だって同じくらい練習すればすぐに並べるんだよ」などと妙な負けん気を持ったりしますが。

 ここで少し話が飛びますがよく他人を指導していて思うこととして、人間には鍛えられる部分とそうでない部分ではっきり分かれる気がします。これまたたとえを出すと文章を書く技術なんかはまさに前者で、指導する際はどれだけ文字量を多く文章を書かせるかにかかってきて、相手が書く気を起こすようなテーマを出すことが重要になってきます。逆に後者こと鍛えられない部分、センスとでも言うべきものは全く以って成長させることができないわけじゃないものの、ただ時間をかければ伸びるわけでは決してありません。もっともこういうのは非常に少ないですが。
 オチらしいオチに乏しいですが今回が私が言いたかったことというのは、大抵の技術というのは時間さえかければ上達速度に差こそあれども誰でも習得できる可能性が高いということで、「出来る、出来ない」ではなく「やるか、やらないか」ではないかということです。

2011年10月25日火曜日

香港の諸情報

 時期も時期なので香港についての情報を簡単に紹介します。どうでもいいですがこの「(`ハ´)」の顔文字は香港人にも当てはまるのかちょっと疑問です。

 まず香港に来てちょっと面食らったのは街中を走っているタクシーで基本はちょっと古い日本のトヨタ・クラウンで占められております。一体どういう経緯でクラウンが採用されたのかまではわかりませんがタクシーに限らず日本車は数多く走っており、10年以上前に発売されて不人気に終わった三菱・FTOを見た時なんかは軽い感動すら覚えました。
 なおタクシー事情とくれば中国本土もなかなか面白く、各都市ごとにどんな車種が使われているのかはっきりとした地域差があります。基本使われるのはその都市を本拠とする自動車メーカーの車で、北京は北京汽車の提携相手のヒュンダイ・ソナタ、上海は上海汽車の提携相手であるフォルクスワーゲン・サンタナ、武漢は東風汽車の提携相手のプジョーの車が使われてます。

 話は戻って香港ですが、街の特徴として際立っているのは観光ホテルなんかはたくさんあるのにビジネスホテルが規模に比べるとほとんどないというのがあります。観光用ホテルも毎年やってくる旅行客の数からすると少ない方ですが、普通に繁華街とかビジネス街を歩いていても安くて簡単に泊まれそうなビジネスホテルは全くと言っていいほど見つからず、香港出張に来る人をいろいろ困らせているという話も聞きます。
 何故香港にビジネスホテルがないかと言えば恐らく地価が高すぎるのと真面目に立てられそうな土地がないことが原因だと思います。自分もこっち来てから知りましたが香港島はそこそこ面積はあるものの土地のほとんどは急斜面のある山で、人が住めそうな平地は全くと言っていいほどありません。しかもその平地の大半は埋め立て地で、現在ですら海岸行くと埋め立て工事しているのが確認できるほどです。

 次に香港の料理についてですが、中華料理のほかにもインドネシアやタイ料理もいろいろ豊富で、なんか変わったカレーとかあちこちで見受けられます。同じ中華料理でも味付けは北京や上海とは違っており、話を聞くと自分は言ったことはないですが広州など南方の味付けに準じているようです。
 こうした現地料理に加えて見逃せないのは日本食店の圧倒的な多さです。上海も多いと言えば多いですが香港はそれとは比べ物にならないくらいに多く、香港人らもごく普通に通っては食べたりしていて値段もほかの料理と比べて大差はありません。さらにこれもこっち来てから知りましたが、何気に香港は日本食品の輸出地として最大の地域で、それもあってかジェトロなんかはしょっちゅう日本食の試食会をあちこちで開催してたりします。

 ちょうど今、TPPに加盟するかどうかで日本は揉めてますが、私としてはある程度議論は出来たしもう加盟する方向でいいのかと思っています。よく加盟すると日本の農業はダメになると言いますがこれを一番主張しているのは日本の農業を一番駄目にした張本人ともいえる農水省で、逆に加盟賛成派の意見、たとえばアメリカとのオレンジ輸入自由化で果実産業は散々ダメになると言われたが実際はその後に果実輸出量は増えっていったなど、聞いてて納得させられる話が多いです。
 おまけに食品というのは工業品と違って値段が安いかどうかで買うかどうかがすぐ決まるものじゃなく、あのと言ったらなんですが中国人ですら相次ぐ混入事件を受けて粉ミルクは海外メーカー製しか買わないように、いくら海外のものが入ってきたとしてもアメリカのBSE騒動の際に怒り狂った日本人はそうそう品質の低い食べ物を受け付けないでしょう。むしろ品質面で圧倒的な強み(リンゴなんか中国のはあまりおいしくない)を持つ日本の農作物を海外に輸出促進をTPP加盟で図るべきではないかと、香港の現状を見ていてつくづく思います。

 ……香港の話するといったくせに政治の話に擦りかえるあたりが自分らしい。

2011年10月24日月曜日

1999年を振り返る

 今年は何故だか世界各地で災害のニュースばかり目にします。日本の東日本大震災を皮切りにタイの洪水、そして昨日のトルコの地震と、仮にこれらが起きていたのが12年前の1999年だったらうっかりノストラダムスを信じていたかのような一年です。

 こんな風にちょっと1999年を今日なんだか思い出していましたが、大半の方にとってこの年はあのノストラダムスの終末予言の年で良くも悪くも前後の年より印象が強いかと思います。ただ当時の状況について話しとくと、このノストラダムスの予言が一番盛り上がったのはどちらかと言えば80年代で、90年代に入ってからはどんどんと尻すぼみになっていったような気がします。私が記憶する限りだと確か朝日新聞が同じようなことを当時に取り上げており、当時出ていたドリームキャストで「JUNE」というゲームは出たけど、サブカル業界全体を見回しても終末と絡めたものは全然出てこなかったと言われていました。まぁMMRだけは最後の追い込みとばかりに頑張ってたけど。

 個人的にはちょうどこの年に身の回りで厄介な問題が頻出しており、間違いなく生きてた中で1999年が一番辛かった一年でした。ただそうした問題はもとより、やはり世紀末的な雰囲気というか今とは違う何か浮ついたような空気が当時には流れていたかと思います。
 一つには当時になってようやくインターネットなどIT技術の基本的なものが普及し始め、ハードに対するソフトの比重が強まっていたことがあった気がします。ゲーム産業も花盛りで、まだプレステ2が出るまでしたが各社がCGなりジャンルなりでいろんな工夫をしてわけのわからないゲームや、「ザ・コンビニ」などといったいろんなシミュレーションゲームあっていろいろ楽しめた時代でした。多分この年に一番やっていたのはバイオハザード3でしょうが。

 今回こうした話題を持ってきたのは一つ理由があり、どうして昔流行った終末論が今には流行らないのかという疑問があったからです。というのも先日に同僚から、「中国のブログを見ていると、なんだか終末論みたいな、世界が終っちゃえばいいのにみたいなこと言う人をよく見るようになってきた」という話を聞き、逆に地震など相当な衝撃下の中にある日本で終末論が一切出てこない、見ないのを不思議に感じたのもあります。
 こういうのもなんですが、こうした終末論というのは本当に苦しい時期にはかえって出てこず、バブル期みたいに景気がいい時代にこそ現れる気がします。ノストラダムス然り。今の中国然りというやつですが、1999年に終末論があまり盛り上がらなかったのはもう日本が下降期に入っていたからだと思います。ちなみに一番盛り上がった時代を敢えて私が生きていた中でいえば、エヴァンゲリオンなどがブームになった1995年あたりじゃないでしょうか。

 またさらに付け足すと、90年代当時によく言われたこととして最近の子供はテレビゲームばかりで現実味というかリアルさのない世界で生きているとテレビに出る人間らが言っていましたが、当時小学生で言われる対象だった私からするとなんだか納得のいかない言われ方するなと反感を持って聞いていました。今でもこの反感は根強く残っており、山とか川とかおたくらの言うリアルさを潰してビルなり道路なり立てたのはどいつだよと言いたいですし、今そのツケを自分たち世代が必死で返そうと頑張ってるんだ、空疎なこと言ってるんじゃないと言い返したいです。

2011年10月22日土曜日

教員免許の国家資格化について

 今日はほとんどのチームでプロ野球の日程が終了し、楽天のマー君こと田中選手(日ハムの斎藤選手と違って君付けするのもあれだが)が投手三冠を決めたり、9回裏のビハインドで代打逆転満塁サヨナラホームランを決めた巨人の長野選手、またそれによって最多勝獲得を決めた内海選手など興味深いニュースでいっぱいでした。ただそういったニュースよりも優勝後のビールかけで誰にも相手されず、独りぼっちだった中日球団社長のニュースがほかの何よりもスカッとしました。落合監督解任の経緯も日ハムの梨田監督と違って不透明この上ない上に、中日新聞が世界で一番嫌いなメディアでもあるので高笑いしてみてました。ただ中日が嫌いとはいえあの浅尾選手だけはとんでもない投手だと認めざるを得ません。

 話題は本題に移りますが、ちょっと古いニュースですが先週に教員資格を国家資格化しようかという案が出ていることが報じられました。結論から言うと私はこれには反対で、それよりももっと先にすることがあるだろうと文部科学省の無策ぶりに怒りを覚えます。

 まず国家資格化の狙いですが近年に頻発している教師の不祥事事件を受けて教員の質の向上が目的で、現在のように大学で必要単位を取得した上で教育実習を受けた人間に免許を与える方法では指導力などが測れないというのが理由だそうです。具体的な方法としては司法試験のように国家試験をしっかり設けるなどということが挙げられていましたが、そんな国家試験を作ったからと言って教員の質が上がるのかと言えば私には疑問です。
 その上で苦言を呈すと、以前にも一回取り上げましたが今の教育現場は地方自治体が財政赤字であることから新たな教員採用を異常なまでに絞っている現状があり、教師の平均年齢が40歳を超えている上に教員志望の若者たちは収入も少なく雇用が不安定な講師職に甘んじています。雇用が不安定なことについては不幸自慢をしてもしょうがないですが月給10万円で1年契約のため場合によっては来年三月で解雇となる可能性もある自分からするとだからどうしたという気もありますが、教師という子供らと長い時間付き合う職業性を考えると非正規雇用ではやはり子供への教育上も良くないんじゃないかという気がします。しょっちゅう担任が変わってもなんですし。

 こうしたポイントに加え、自分が主張したいのは教育大学の質です。古い事件を掘り返すのもなんですが過去に起きた京都教育大学生の集団強姦事件はその事件内容はもとより京都教育大側の対応も真面目に神経を疑う発言ばかりで、こんな連中が教員を養成しているかと思うと当時非常に不安に感じたほどでした。

 あと指導レベルについても、予備校と比較するといろいろ思うところがあります。私がやったころはクラスに4人だけだった中学受験もなんか最近はかなり一般化して日曜の朝に予備校前をうろつくと送迎の車が次々に泊まるのを見ていろいろ驚いたことがありましたが、突き詰めたところを言うと学校の授業は全くと言っていいほど当時の受験に役に立ちませんでした。また私が受けた予備校教師はみんな指導力があって教える内容もわかりやすく、休み時間などもいろいろ子供の相手してくれて親しみやすい人が多かったです。
 これは真面目な話で、学校と予備校関係者はどうも商売敵と認識していて非常に仲が悪いと聞き、実際に吐き気を催そう様な嫌がらせを学校側が予備校側に行っていた話も聞いたことがあります。しかし現状で私は明らかに予備校関係者の方が教育に熱心な人が多いように思え、子供は学校には行かなくていいから予備校には行った方がいいとすら思います。

 学校側関係者も中にはこうした現状をしっかりと認識している人もいるようで東京都のある小学校なんかは予備校と提携し、放課後の補修事業に予備校教師を呼ぶなどといった取り組みを始めていますが、開始当初はやはり学校関係者から猛烈な批判があったように思えます。教員免許を国家資格化するとかどうとか言っている暇あるなら、もっとこうした予備校を見習うような対策をして学校教員の質向上を図るのが先じゃないかというのが今日の私の意見です。

2011年10月20日木曜日

テルマエ・ロマエの映画化について

 日本にいた頃(といっても去年だが)に読んでいた「テルマエ・ロマエ」という漫画が今度映画化するそうです。この漫画はなんか賞を取って人気とのことで一応チェックしておこうと購入して読み始めたのですが非常に面白く、2巻を買った際に1巻を貸した友人にまた貸してあげようと申し出たら「もう買った」と返答されたのはいい思い出です。
 内容について簡単に概要を説明すると、歴史的にも風呂好きで有名なローマ人が日本の銭湯にしょっちゅうタイムスリップしてはローマに戻り、その度にローマにも日本式銭湯を作っていくというギャグ漫画です。作者がイタリアで生活していることもあってやけに歴史背景やら細かい上に日本の銭湯システムのオリジナリティがよく観察されていて自信を持って太鼓判を押せる漫画です。

 それが今回映画化するとのことですが、ローマが舞台(半分は日本の風呂だが)のマンガを日本で映画化とちょっと疑問に感じたところはあったのですが、このほど公開された写真を見てみて一気にそういった心配はぶっ飛びました。

【映画】「テルマエ・ロマエ」 人気の顔濃い俳優がローマ人に 似合い過ぎワロタwwwww(アルファルファモザイク)

 上記リンク先を見てもらえば早いですが主演は阿部寛氏で、脇を固める俳優陣も市村正親氏、北村一輝氏、宍戸開氏とよくもまぁこれだけ顔の濃い俳優を集めたものだと感心させられる配役です。公開されている撮影風景を見る限りですと、確かにこれだけ顔の濃い連中ならローマ人と言い張っても日本人相手ならそれなりに納得させられるんじゃないかと思うくらいの出来栄えです。
 それにしてもスレッド上でも言及されていますが、ほかの俳優陣があまりにも顔が濃いもんだから阿部寛氏ですらいささか薄いように見えてきます。惜しいというか残念なのは、これに照英氏とハンマー投げの室伏選手が加わっていれば濃い顔のジャパンオールスターになったのに……。

 なお濃い顔とくればうちの親父も負けておらず、中東人っぽい顔していることで周りには有名です。親父から話を聞く限りだと会社では「ビンラディン」というあだ名がつけられ、昔に上野を歩いていたらイラン人に声をかけられたことがあるなどエピソードには事欠きません。
 息子の自分は父親に似ず母親似の顔なので中国人にしょっちゅう道聞かれる程度ですが、何故だか声についてはよくきれいな声していると誉められ、大学時代には「学科内で一番渋い声してる」と妙に範囲の狭い中でほめられたりしてました。また今日も新しい部署の同僚から、「昔に幽遊白書のエンディングテーマを歌っていた高橋ひろに似ている」と、えらくピンポイントに誉められました。高橋ひろ氏は数年前に夭折していましすが、何気に生前はかなり好きなアーティストの一人だったのでうれしいやら、「えっ、あの高橋ひろと?」というような複雑な気持ちを覚えました。

平野達男復興相の「馬鹿」発言について

 昨日一昨日と妙に帰りが遅くなって更新がまた空きました。最近多いなこういうの。
 別に凄い忙しいというわけでもありませんが、ちょうど香港に着任した頃に新しい上司が風邪を引き、しかもそれをオフィスの全員に感染させたことから私も体調が悪くなり、昨日まで咳が止まりませんでした。今日になってようやく咳が止まったかと思ったら今度は頭痛が起こりましたが、頭痛薬飲んだらやけに調子良くなって今日に至ります。あと穏当にどうでもいいですが、今使っているNECのLAVIE S LS550ですが、「Kキー」がむやみに反応が敏感で大半の打ち間違いはここから端を発しててイライラします。このパソコンの唯一の不満点はそこかな。

 話は本題に入りますが、当初は記事にするかどうか悩んだものの二日経って情勢が少し見えてきたので書いておくことにします。

「逃げなかったバカなやつ」…復興相が友人を(読売新聞)

 内容は既に報じられているかと思いますが簡単に説明すると、平野達男復興相が研修会で東日本大震災によって起きた津波に言及した際、「私の高校の同級生のように、逃げなかったバカなやつがいる。彼は亡くなりましたけど、バカなやつって言ってもしょうがないですけどね」という発言をしました。この発言を巡って上記リンク先の読売新聞のように「被災者を馬鹿にしている」という論調を取る新聞もあれば、「この発言はそこまで問題視する内容なのか」、「マスコミの揚げ足取りでは」という意見がネット上などでいくつか見られました。
 ちなみに上記の読売新聞はどちらかと言えば非難する論調で書かれていますが、比較対象先として朝日新聞を除いてみたところストレートニュースではこの発言は取り上げておらず、「平野復興相、津波被害への発言で謝罪」という記事で初めて取り上げていることから、読売よりかは問題視していないのではと私は感じました。民主党に批判的な産経新聞は本日、「輿石氏「マスコミが世の中悪くしている」」という記事を載せておりますが、私はこれを見て産経はヒートダウンし始めたのかなという気を覚えました。あくまで個人的な所感ですが。

 それで肝心なこの平野復興相の発言に対する私の感想ですが、そもそも取り上げる程の発言なのか、もっと他に報じる内容があるのではないかという考え方から、非難に値しないと見ています。そういう意味では喜び勇んで報じたメディアは揚げ足取りと批判されて然るべきで、本人らも少し意識し始めたのか管内閣時の松本復興相や鉢呂前経産相の失言騒動の時と比べるとトーンダウンし始めているように今日のニュースを見ていて感じました。

 いちいち語るほどではありませんが平野復興相の発言は会話の前後を見る限りだ亡くなった同級生を冒涜するようなものとは思えず、また一部で逃げたくとも逃げれなかった被災者もいるという批判も見受けられますがそれとこの発言を結びつけるのは如何なものかと思います。
 ちなみに今回のこの発言を私はネット上の掲示板で最初に知りましたが、複数の掲示板を回ってみたところそれぞれで論調が全く違っており、これは報道したメディアでもそうでしたが一部のサイトでは明確な意図を以って前後の会話部を弄り、どちらかと言えば平野復興相をわざと悪者にしようとしているサイトも見受けられました。そういったところは続報を載っけているのかな、今日の輿石氏の発言を「悪人が悪人をかばった」みたいに。まぁ輿石氏が悪人かどうかと言われたらそうかもと私も言ってしまいますが。

 あと非常にくだらないことですが、関東と関西では「バカ」と「アホ」の比重が逆(少なくとも私はそう感じる)で、関東ではアホと相手に言うとマジギレされますが関西だと「アホちゃうわ」と軽く返してもらえます。しかし逆に関西でバカと相手に言うと真面目に睨まれるくらい相手は怒る一方、関東だとへました相手に「バカだなぁ」というのはごくごくありふれてます。それで平野復興相はどっち側かと調べてみたら岩手出身とのことで、「馬鹿」という言葉を使ったのもやはり東側だからかと妙に納得しました。

 最後にさすがに今回は気になるのでこの件でのYahooの「みんなの政治」における投票ページを覗いてみましたが、現在この記事を書いている段階で回答割合は「問題ある」が56%、「問題ない」が33%、「どちらでもない」が11%でした。毎度のことながら少数派に属したわけです。

2011年10月17日月曜日

世界同時格差デモについて

 日本のニュースでも報じられているかと思いますが、昨日の日曜日はニューヨークのウォール街で起きたデモをきっかけに世界各都市で格差反対を訴えるデモが実施されたそうです。デモの中心となったのは若者たちとのことで、就業機会や親の世代と比べた収入の少ない現状を訴えたとのことですが、日本でもこれに触発されて一部でデモがあったようですが、個人的に今回のデモについてはなんだかあまり共感が出来ませんでした。
 私は常々このブログで日本における若者の現状と問題性を挙げては是正を訴えてはいますが、恐らく東日本大震災があったからだと思いますが今そんなことを言っている場合かと思うのと同時に、具体的な改善策や改革案の議論が見当たらないから今回共感が出来なかったんだと思います。

 まずそもそもの前提の話として、20世紀にどうして資本主義国はあれほど繁栄できたのかという理由を説明します。これは堺屋太一氏の主張ですがきわめて単純明快に、当時は石油というエネルギーがほぼタダ同然に無制限に西側諸国で使えたからこそ繁栄できたので、石油資源の枯渇や環境問題が持ち上がってきた現代においてあの時代を再現することは完全に不可能と堺屋氏は言っています。よく経済学者はもっともらしくあれこれ理由を付けて20世紀の世界経済を語りますが私はこの堺屋氏の話が最も正解に近いと考えており、それ故にあの繁栄の時代はよっぽど劇的な発明がされない限りは来ないと考えており、日本もみんなが大学出て就職してマイホームを買うようなことはもうありえないと割り切っています。さらに言えば、今の日本はあの20世紀という繁栄の時代に作った貯金を切り崩して生きているような状態で、既にヨーロッパ各国ではその貯金すらも使い果たして破綻し始める国が出てきていますが日本も年金制度や社会保障制度をドラスティックに切らない限りは対岸の火ではないでしょう。

 ちょっと本筋から外れますが前から言いたかったこととして、現行法の社会保障制度は小泉時代に大分切り捨てましたがそれでも制度の骨格はバブル前に作られており、当時の税収を元に支出額などが決められています。すでに述べているようにあのバブルの時代なんてもう逆立ちしたって来ないんだから、制度を維持出来るなんてありえないのです。むしろ維持すれば維持するほど借金が増えるだけでしょう。

 話は戻しますが、もうあの繁栄の時代は来ないというのは前提としてでは今は何をすればいいのかですが、これまたごく単純に社会を維持するためにどれだけ基準を切り下げればいいのかということだと私は考えています。言ってしまえば生活レベルを含め裕福さをどれだけ切ればいいかということで、最低防衛ラインを設置することが急務だと考えています。
 最低防衛ラインと言えば聞こえはいいですが、実質は要するに何年から何年生まれには死んでもらうということです。かなり極端な表現を使いますが、これくらい言わないと真面目に意識されないんじゃないかと昨日のデモとか見ていて思いました。

 ちなみに私が設定している防衛ラインは、社会保障支出が史上最も最大となる期間を団塊の世代(1946~1948年)が年金を受け取り初めて大半が死ぬまでの期間と設定し、仮に平均寿命を80歳とすると2028年までが最も日本が財政的に苦しい時期ということになります。この2028年、前後期間を考えて2030年とするとこの間に現役世代となる自分を含めた日本人は後の世代のための捨て石とばかりに、必死で国を支える必要があると思います。具体的な細かい中身までは言いませんが。
 そんなことをしてまで国を維持する必要があるのかとかつては自分も疑問に感じたことがありますが、ソ連崩壊後の混乱の話やイランやアフガニスタンの現状を見るにつけ、いくらか国民を不幸にさせるとしても国家を維持することの方が相対的には国民は幸福だという考え方が自分にはあります。

 今現在でこそ海外で働いて暮らしている自分ですが、幼少時に一応まだすこし余裕のある頃の日本を体験させてもらったこともあるので、いつかは日本に帰らなきゃなと思っています。さらに言えば海外に出ることが日本のためだという人がいますが、決してそうでもないんじゃないか、日本に残り続けることも大事なんじゃないかと今日この頃思います。こういった話が、昨日のデモとかで出てくれば面白かったんですが。

2011年10月16日日曜日

見た目と中身のギャップについて

 昨日の記事でも軽く触れていますが、私の見かけは周りから聞く限り、かなり大人しそうに見えるそうです。そのように見られることについて私は特段抱く感情はないのですがこの手の奴でちょっと面倒だと思うこととして、外見に抱くイメージと中身が一致していなければ怒り出す人間が一部にいることです。

 まず大きな前提として、私は外見と中身(=性格)が一致しないというのはままあると考えています。あまりにも老け顔過ぎて並んで歩いてたら「何、君の先輩?」と別の知り合いに言われた私の後輩なんか下手したら私より大人しそうな外見していますが、権力に対する反発心とかそういうものは自分以上にやけに強いですし、また別のある友人なんか病弱そうに見えて長友選手もびっくりなタフネスを持ってたりします。
 こういう風に外見と中身は一致する人もいれば一致しないと私は考えているのですが、私が見る限り世の中そういう風に考えている人間に占められるわけじゃなく、むしろ外見と中身が一致していなければおかしいと思う人間も少なからずいると思います。

 具体的にそのような人間はどんな感じかというと、たとえば私の場合は普段が大人しそうに見えるためにそういった「大人しそうな」身振りや行動をするものだと考えている節があり、たとえばこのブログでやっているように何がしらかで意見を言ったり反発することもあれば、「なんでお前がそんなことを言うんだ」などと、意見の内容以前に意見を発言したことをとがめられるという経験がこれまでに何度もあります。
 私としては見た目でなんでもかんでも人間を判断しようとする時点であまりそういった相手とは関わりたくないと考えるため、無駄に接触を続けるくらいならとそのままイメージに抱かれるステレオタイプな行動を演じることもあります。いわば期待されている役割を演じるような具合で、過激な行動や発言は可能な限り控えるようにします。

 こうした私の体験談などはどうでもいいのですが、ここで私が言いたいことは多かれ少なかれこういうことは世の中にあるのではということです。外見で抱かれるイメージに対し周囲が期待する行動を本人も実行する、中にはそれが定着して外見と中身が一致していくという。社会学はこういう相互作用的な話を好む傾向があって私もそういう背景があってこういう考え方をするのですが、別に「本当の自分はこんなんじゃないっ」なんてマンガみたいなセリフを言うつもりはなく、中にはそうしたイメージを逆手にとってくる食わせ物もいるわけで、よくよく外見にこだわらず相手を見極めることは大事だというのが今日の私の意見です。

2011年10月15日土曜日

香港で気になる点

 香港に来てからそれなりの日数が経ちましたが、このところ街中を歩いていて気になる点が一つあります。その点というのも、非常に高齢者が多いということです。

 香港の話をする前にまず北京や上海といった中国本土の説明をしますが、この二都市ははっきり言って非常に若者が多い都市。中国は一人当たりGDPがまだ他の先進国の水準にまで達していないながらもなかなか平均寿命の高い国でもちろん老人も見かけますが、それにしたって繁華街を眺めていると日本の主要都市と比べて非常に多くの若者がたむろし活況を呈しております。
 それに対し香港ですが、大抵どこ行っても街中を歩いているのは中年以上の人ばかり、また60歳以上の高齢者の姿も非常によく目立ちます。逆に十代や二十代くらいの若者の姿はもちろん存在するものの、あくまで私の実感ですが歩行者より小売店で働いている姿の方が多いんじゃないかという気すらします。

 そこで早速、明治大学が便利なものを作ってくれていたのでこのサイトで調べてみましたが、2010年における65歳以上の高齢者の人口割合は日本が22.7%で世界1位であるのに対し、香港は12.7%で44位と比較的高い数字ながらも思ったより差がありました。どうも私の実感とずれたデータではありますがこのずれの理由に敢えて考察すると、日本の高齢者は地方に多い存在するため東京や大阪といった主要都市では平均値より若者の割合が多くなる傾向があるのに対し、香港の場合は狭い土地なだけに実数地が直接街中に出ている可能性があります。少なくとも私の感覚では東京の姿以上に香港は年寄りの数が多いように見えます。

 ちょっと話が変わりますが以前に日本のテレビか何かであった気功整体師のインタビューにて、気功を行う上で若いエネルギーというのは非常に重要なため、その先生は週に数回必ず渋谷など若者が集まる場所で散歩すると語っていました。この話が本当かどうかまでは科学的にどうこう言いませんが、実感としては私もその通りだという意見を持っています。
 やはり上海の街中を歩いていて日本と違うと感じるのは若者が多い点と、街全体がどこか明るいというところです。無論景気状態が違うというのもありますが日本にいたころは何か目には見えない圧迫感というか倦怠感が常に付きまといましたが、上海での生活ではそういったものはあまり感じられません。

 昔に誰かが言っていましたが、金銭的に苦しいからと言って必ずしも気分を暗くする必要があるわけでもないにも関わらず、何故だか日本は全体的に非常に後ろ向きになっているという話がありました。このブログでも何度も書いていますが一般的な中国の若者の収入は日本の物価格差を考慮しても低水準なままですが、それでもその表情は日本の若者と比べて非常に明るさが感じられます。
 ただ今回香港に来てみて、そうした表情の明るさが香港の若者にはないのではというように思いました。それでも日本の若者に比べればまだどことなく楽しそうではあるものの、なにかどこかで深く考えているような、何も悩むことなくて楽しそうな上海の若者と比べると明らかな違いを感じます。

 もっともこんなことを言いながらですが、周りからは私の表情が明らかに最も暗そうな感じだとよく言われ、「てめぇの辛気臭い表情が嫌いなんだよ」とこれまでに実際に何度も罵倒されたことがあります。その一方で親しい友人らからはごくたまに、「自分の周りで一番学生っぽさが抜けていない、理想を捨ててない顔してるね」と言われることがあります。この辺については機会も機会なのでまた次回あたりにでも書こうと思いますが、社会的な空気はやっぱり明るいに越したことはなく、なんか香港は歩いてて妙に疲れるからまた猫カフェにでも行こうかなと思案中です。

2011年10月12日水曜日

アルバイト人口を考える

 なんかこのところ経済関連の記事が多くて自分でも嫌なので、ムキになって無理矢理カテゴリーを「社会」によく変えてます。まぁそもそも、日本にいないのに日本社会を語るというのいろいろとあれですが。

 話は本題に移りますがよく人に話して驚かれる話として、中国には学生アルバイトは基本的に存在しないという話があります。日本、ひいては欧米においては大学生は多かれ少なかれアルバイトを経験するものだという認識、というよりは社会慣習がありますが、これが韓国は知らないけど中国においては事情が異なり、基本的に大学生向けアルバイトは存在しません。一体何故中国の大学生はアルバイトをしないのかというと理由は簡単で、アルバイトをしようにも仕事先がないからです。

 最近は大分事情は変わってきましたが、中国は未だに労働力が豊富な国です。そのため日本でアルバイトが雇われるような3K職場(これももう死語だ)、外食や小売りの現場などにおいても変に大学生のパートタイマーを雇うくらいなら地方からやってきた中学や高校を卒業してきたような子らをフルタイマーとして雇う方が効率がよく、大学生が入り込む余地が全くと言っていいほどありません。
 そのため中国の学生というのは基本的に生活費用は親からの仕送りに頼るほかなく、貧しい家だと大学生活も厳しいものが迫られるという現実があります。私はあまり好きではありませんがコラムなどを書いている石平氏などはこうした中国の大学生と比べ、日本の大学生は確かに勉強はしないかもしれないが社会的経験も豊富で決して劣っていないと主張しており、痛し痒しですがそうかもしれないという認識を持っています。

 と、ここまでの話でもそこそこブログに書く価値はありますがちょっとこのネタを考えていて気になった点として、逆にもし今の日本で大学生みんながアルバイトをしなくなったら、という妙なお題が思いつきました。
 結論から言うとまず間違いなく先ほど挙げた外食、小売り産業は成り立つことが出来ず、廃業するか値上げするかのどっちかが迫られることとなります。パートタイマーの代わりにフルタイマーの従業員を雇うため人件費を増やすという選択もありますが、私の予想だと人件費を上げたとしてもやはり人員が集まらず、サービスを維持することは出来なくなるでしょう。現実に産業が成り立たなくなっている例として農繁期における農業が既にそうで、前にテレビインタビューで見ましたが昔は夏休み中の大学生が来てくれたが最近は募集をかけても誰も応じないため、中国などから募集する外国人研修生に頼らざるを得ないそうです。

 私がここで何を言いたいのかというと、日本社会は意図してかどうかまではわからないものの、大学生をアルバイトで働かせることによって正社員以下の最低賃金を維持し、経済を回し続けてきているということです。これはつまり大学生アルバイトがなくなると経済が回らなくなるということで、「社会も知らない学生がえらそうな口をきくな」と一部の正社員は言うかもしれませんが、その学生なしでやってけない体制を維持しているのは誰なのかということにもなり、「口のきき方に気をつけろ」と学生アルバイトは言い返してもいいかもしれません。
 こうした視点で見てみると、ちょうど少子化傾向が目立ってきた90年代中盤くらいからフリーターという言葉が生まれましたが、もしかしたらこの学生アルバイト層の埋め合わせをするために新たな低賃金層を作る必要があって作られた言葉だったかもしれません。さらに言えば、バブル期によくアメリカさんに日本はダンピングをしていると非難されましたが、ある意味そうだったかもしれません。

 ただこんなことを主張するからと言って、もっと最低賃金を上げろだとかそういうことまでは私は言う気にはなりません。現在の私の給料は昨今の円高のせいもありますが現地物価は低いものの日本円にして約10万円強で、さらに現地中国の同年代の若者はさらに低い給料で働いております。以前も日本から来た人と上海のレストランで食事した際、多分17か18歳くらいの若いウェイターが夜遅く、忙しく動き回っているのを見て色々とショックを受けてましたが、日本以外の国ではこういうのは当たり前です。
 それでも敢えて一言苦言を呈すなら、学生アルバイトに頼るという惰弱な経営体質からは早く脱却した方がいいというのが、今日の私の意見です。

2011年10月11日火曜日

香港にある猫カフェ



 先週に着任してこの前の土日は暇してたので、日用品などを購入した後は日がな昼寝をして過ごしましたが、日曜に近くに猫カフェがあるとガイドブック(地○の歩き方)に載っていたので、試しに行ってみることにしました。
 ここだけの話、元々学生時代に長い間喫茶店でバイトしていたのでやけに古びた喫茶店に出入りすることが多いです。中にはレトロすぎて友人が嫌がるのを無理やり引っ張って入ることも少なくないですが、猫カフェなどといった色物系喫茶店には後輩にせがまれてメイド喫茶に一回だけしか言ったことがありませんでした。それにもかかわらず、しかも香港で猫カフェに行こうとしたのはよっぽど暇だったんだと思います。

 そんなわけでやってきた猫カフェですが、まずガイドブックにも書いてありましたが店舗の入っているビルは繁華街にあるもののどう見たって雑居ビル、それもヤクザが出入りするような汚いビルでした。香港自体が土地が狭いのに人がたくさんいるもんだから高層ビルを呆れるくらいに立てて空がリアルに見えない場所ですが、まさかこんな雑居ビルに本当に猫カフェがあるのか少々疑いました。そしたら後ろからやってきたカップルがビルの警備員に、「猫カフェは何階?」って聞いてたので、そのまま自分もついていきました。



 まず店内に入ってみると入り口付近でどかっと座っている猫、上記写真のように寝ている猫がおり、さすがは客商売に慣れているのか見知らぬ人間が来てもおびえたり警戒する素振りは見せませんでした。そのまま客席に着くと周りはやはりというか若い女の子ばかり(やけにメガネをかけているのが多い)で、男一人で来ているのは案の定自分だけでした。
 とはいえ外国なんだしそんなのいちいち気にせずに昼食を兼ねてパスタを注文しながら周りを眺めましたが、店内は喫茶スペースとともにクッキーなどのお菓子教室もあってそこそこ広かったです。店内に徘徊する猫の数は大雑把な感じで8匹くらいで、我が物顔と言ってはなんですが客を気にせずあちこちを動き回っていました。




 個人的に気になった点はどの猫も成猫なのはともかくとして、やけにデカい猫ばかりだったのが何故だか気になりました。もちろんでかい猫はそれはそれでいいんですが、できればもっとちみっちゃい子猫とかも触りたかったのに、「年増ばっかりじゃねぇ」などと親父くさいことを言いながら女の子に混じって写真取ってましたが、店を出てみてその理由がなんとなく察しがつきました。
 これはあくまで私の予想ですが、猫カフェのある同じ階にはペットショップがあり、もしかしたら猫カフェの猫たちはこのペットショップで売れ残った猫たちなんじゃないかという気がします。というのもうちの実家の猫もそうでしたが、ペットショップで売られている猫たちは小っちゃくてかわいい子猫として売り出すためにあまりエサは与えられないそうで、家で飼われ始めるとその反動で異常にエサを食べ同クラスの猫に比べて異常にでかくなることが多々あるそうです。実際にうちの実家の猫がその口で、以前に買っていた猫と比べるとその差は歴然で、私の友人がうちに来ると、「やけにでかいなこの猫……」と妙におののきます。猫の世界も楽じゃないんだなぁとしみじみ感じます。

香港特別行政区の日々



 ここ数日また更新が空きましたが、ただ単にサボっていたわけじゃなく物理的にネットが出来ませんでした。一体どんな環境にいたのかというと友人らへの広報も兼ねてスパッと言いますが、先週から出張の関係で香港に来ています。

 出張と言っても滞在期間は年内と言われており、今年はこのまま香港で年末まで過ごす予定です。何気に香港に来たのは今回が初めてですが、主要言語は広東語のため、中には北京語も使える人がいるもののやはり英語のが通じやすいこともあって会話時に色々混乱することが多いです。と言ってもこういってはなんですが本土と違って人が良くできているというか、細かく言わなくともすぐにこちらの意図を把握して対応してもらえるのですこぶる居心地がいいです。

 また既にいろいろ回っていますが中国本土と違ってネットの規制がないおかげで約一年ぶりにFC2の自分のサイトとか見ましたが、普通にアクセス数がカンストしかかっているほど未だに閲覧者が来ており、そっちに来るくらいならこっちに来いよとむなしい気持ちを覚えました。一日70人とか増加したらどれだけアクセス順位が上がるんだって。

 このほか香港にいて自分が感じたことなどはまた明日以降に書く予定ですが、今ここで声を大にして言いたいのは自由というのは大事だということです。別にどこかの国に対して言ってるわけじゃないですから、念のために。

2011年10月6日木曜日

仏教だけが何故多神教で生き残ったのか

 よくある宗教議論でキリスト教やイスラム教など、どうして一神教の宗教はこれほどまでに強くなったのかという議論がありますが、こうした議論を見るたびによく、逆にどうして仏教だけが多神教なのに世界三大宗教としてまだ頑張っているのかの方が不思議じゃないかと日頃考えています。

 先に一神教がどうしてこれほど強くなったのかですがこれは実に簡単な議論で、多神教の宗教に比べ政治に食い込もうとする執念が半端じゃないからです。こうした傾向は異教を認めないというような排他的な性格を持つ宗教の特徴として共通しており、日本仏教の中でも例外的に排他性が強い日蓮宗などはどの時代においても政治に参入しようとする動きが強く、現在においても日蓮宗系の創価学会が支持母体の公明党が相当の議席を持つなど、理屈はともかく実証的にははっきり出ています。

 話を本題に戻して多神教ですが、基本的に一神教と比べるとやはり弱いです。これまでにあった多神教を挙げると、ギリシャ神話、ゾロアスター教、古代エジプト神話、アステカ神話などがありますが、一部で進行が残っているもののどれもがかつての隆盛はどこ吹く風かほぼ消滅しております。逆に今でも残っている多神教としては今日の本題の仏教をはじめ、日本神道、ヒンズー教、道教と、見てわかるとおりに東アジアに集中してます。ただ単に西側世界に詳しくないだけかもしれませんが、少なくとも世界ベースで認知されている多神教と言ったら仏教に限定されるでしょう。

 私自身がそれほど宗教学に詳しくないのもあるのでごねごねと書く気はありませんが、仏教がキリスト教、イスラム教といった一神教勢力に駆逐されずに残った理由としては一つは信仰された日本や中国といった国で長期間根付いていたこと、また植民地にならなかったことが大きいでしょう。その上で宗教的な性格も加味するのであれば、これは神道や道教に顕著ですが仏教は他の宗教と融合しやすい性格があり、いい意味でいい加減さが強かったからだと思います。ヒンズー教でもブッダはヴィシュヌ神の化身の一つと言われるそうで、これは多神教全体に共通する特徴かもしれませんが、元来あった宗教と融合して行事などが習慣化することで意識せずとも信仰される宗教となっていくのかもしれません。

 ただ世界的な信仰者割合でいうと目下のところイスラム教のみ増えてて、仏教とキリスト教は減り続けている状況だと言われております。こうした状況について一部では、業界では有名なE・フロムという人の主張した「自由からの逃走」という理論に基づいて、古くからの慣習や生活形態が変化して行動の自由度が広がった分、拘束要素の強いイスラム教が人気なのではという意見がありますが私もなんとなくこうなんじゃないかなという気がします。
 ちなみに仏教は坊さんにならなければ比較的自由ではありますが、坊さんの生活というのは浄土真宗を除けば世間で思われている以上にかなり厳しいとよく聞きます。前に曹洞宗で修行している人に話を聞きましたが、よく静かな環境で瞑想したがって来る人が多いものの、実際にやるのは掃除がほとんどだそうです。しかもその掃除も、「何も考えず、ただ掃除を続けよ」といった具合でやるそうで、想像してたものと違って門を叩いたもののドロップアウトする人が後を絶たないとのことです。

 個人的に私は日本人というのはいい加減さを大事にする民族で、いい加減さを売りにする浄土真宗なんかはある意味で日本民族の文化の結晶のようにも思います。ただこのところやけに親鸞学派を名乗って講座参加を呼び掛ける団体が増えていると聞き、なんか違ってきてるんじゃないかとやや危惧するものを持っております。

2011年10月4日火曜日

家電量販店などのポイントサービスについて

 七月に日本に帰国した際の顛末を書いた記事にて書いていますが、新品のパソコンをオノデンさんで購入した際に海外在住と伝えたところ、「海外にいるのであればポイントが使えないので、ポイントを付けない代わりに今ここで値引きしますね」と対応してもらいました。特別な対応をしてもらったオノデンさんに頭が上がらないのはもちろんのことですが、実は元々私はポイントサービスというのが嫌いで、逆にこうして現金値引きをしてくれる企業をこれまでにも頻繁に利用していました。

ポイントサービス(Wikipedia)

 ポイントサービスというのをここで簡単に説明すると、商品を購入した際にその購入金額の一部をポイントとしてメンバーズカードなどに記録し、次回に同じ店で商品を購入した際にその分だけ値引きするというサービスのことです。私の印象としては十年くらい前に大手小売店などがやりだしたのをきっかけにどんどんと導入する店が増え、現在ではTポイントカードを筆頭に複数企業で提携してポイントを共有するサービスが現れるなど未だに広がりを続けています。
 こうしたポイントサービスを使うことによって得られるメリットですが、消費者側からすれば支払った金額に応じて次回買い物時に割引が得られるというお得感、販売者側からすればいくらかの値引きによって消費者を次回の買い物へ呼び込めるといったところで双方にメリットがあるとされますが、必ずしもメリットだけなのかという疑問をかねてから抱いております。

 まず私がこのポイントサービスを何故嫌っているのかですが、単純に自分の次の行動や思考が束縛されるのが嫌で、この点で聞き分けはいいけど私以上に束縛を嫌う友人と意見を共通しています。たとえばプリンタのインクを買う際にどこの店で買うのか決める時、「あっちのお店にはポイントカードがあるからあっちを優先して買おう」と考え、その店までの距離、実際の販売価格、店員の質、地域経済への影響などといった諸々の要素を考えなくなる恐れがあり、その上で何よりも自分の選択が相手の思惑に載せられているような気分がして不快です。またこれ以外にも常に複数枚のポイントカードを保有し、中身のポイントを管理するというのが手間で嫌というのもありますが。

 とはいえ現在社内から「ケチで有名な花園」、「飲み会に誘っても来るのか?」などと言われるだけあって私も価格は気になります。過度な値引きには相手にも悪いと思って自ら遠慮することもありますが、いくらか値引きしてもらえるのならやっぱり心は動きます。そんなわけで最初に書いたように、こういったポイントカード制ではなくその場で値引き、現金還元などしてくれる店を比較的優先して選ぶようにしており、家電量販店ではケーズデンキを贔屓にしており、またイトーヨーカドーもよく現金返還キャンペーンを実施するので非常に愛用しております。
 逆にポイントサービスを大々的にやってて、社員に愛されていない企業堂々第二位のヤマダ電機については不祥事を何度も引き起こしていることもあって徹底的に買い物は避けております。

 と、ここまではあくまで私の個人的な見解ですが、真面目にポイントカードのデメリットについても合わせて書きます。まず一番のデメリットというのは販売者側におけるデメリットで、ポイントを作って次回に値引くということは次回時の販売額がそれだけ減少することで、きちんと経理して入れとくのであればともかくそうでなければ帳簿上には見えない負債というものがポイント分だけ生まれるということになります。これはこの前のエコポイント制度などにも共通していますがポイントサービスは将来分の消費を先取り、今現在の売り上げを増やす一方で将来の売り上げを減らしている面も少なからずあるように思え、経営上、余計なリスクを抱え込むことになりやしないかという気がしてなりません。
 また具体的な内容は珍しく忘れてしまいましたが、ポイントサービスを実施していたある企業が倒産した際にポイントを消化しきっていなかった消費者からクレームが起きたことがありましたが、この事件については消費者に対して自業自得と感じる一方、倒産が噂されることによって駆け込みでポイント消費が相次ぎ、財務状況が急に悪化することも今後起こるのではという風にも覚えました。

 消費者側のデメリットについては既に述べていますが、ポイントを運営する企業が倒産することによってポイントが使えなくなる可能性があるということです。もっともそういうことはなかなかないでしょうし、まさか数百万単位でポイントを抱え込む人もいないでしょうから影響は軽微でしょうが。ただ中には企業でパソコンなどといった業務用OA機器を取りそろえる際に、購買担当者がこうしたポイントのあるお店でまとめて発注して経費を会社側に負担させポイントは自分が着服する例もあると聞くのでひょっとしたらえらいポイントを抱えてるのもいるかもしれませんが。

 自分でもややロートルな印象を覚えますが、どうもこういう電子マネーには慣れず現金にこだわるところがあります。性格が元からせっかちで物事が常に完結した状態でなければイライラするということもありますが、できる限り早くこのポイントサービスの流行が終わってくれないものかとたまに真剣に考えます。

2011年10月3日月曜日

資格乱発の現状について

 以前に友人から、通関士の資格を持っていると話を聞き、それならばインコタームズなど貿易事務についてわかるのと聞いたらその友人は素直に、「わからない」と答えました。恐らくこういったことは何もこの友人に限らず、資格を持ってこそすれども実際に業務に携わってない人間に共通することだと私は考えています。
 ご多分に漏れず私もその一人で、貿易に関しては「貿易実務検定C級」というかなりどうでもいい自己満足な資格を持っていてこれについてはクーリエ手配など一通りの業務を行う自信があるものの、同じく取得している「高圧ガス販売責任者一種」という資格についてははっきり言って全然活用できる自信がありません。黒いボンベには酸素、緑のボンベには二酸化炭素が入っていることくらいはわかりますが、そもそも瓶転がし自体をやったことがほとんどないし……。

 こうした現状を思うにつけ、そもそも資格というものは何のために存在するのか疑問に感じます。確かに高圧ガスなどといった危険物を取り扱う上では最低限の知識が必要でおいそれと誰にでも取り扱わせるべきではなく、ある程度の試験によって知識確認の必要性は感じるものの、結局は実務をやってるかやってないかの方が判断基準としてはずっと大きい気がします。また近年は資格乱発とも言っていい状況で、ちょっと今日はこの辺について一言書いておこうかと思います。

 そもそも何故一般業務における資格というものが存在するかですが、理由は大きく二つあって一つは業務遂行者の知識や技術を一定水準保障、確認するためで、もう一つは業務遂行者の職業を保護するためです。ある業務を行う上で資格が必要と義務付けることによって無資格者を締め出すことができ、有資格者の仕事口を保護できます。こう書くと聞こえは悪いですがたとえば市場が非常に狭い業界や仕事の場合ですと従事者の人数をコントロールしなければ全滅することとなってしまうので、それであれば成績順に仕事を確保するという考え方は個人的にありだと思います。ちなみに明治時代には社会上、必要性が高いものの採算がなかなか取れないもんだからジャーナリストの仕事を資格制にしようとする動きがあったそうですが、なんか凄い真面目に大きな勘違いしているようにしか思えない案です。

 今回ここで槍玉にあげたいのは最初の方の、知識や技術に関する理由です。確かに自動車や医師免許など、人の命や公益に大きく関わるものの場合は知識や技術が足りないものを振り落すという過程が必ず必要ですが、それ以外の大半の業務については八割方はいらないのでは、資格とせずとも届け出制にするだけでも事が足りるのではと私は考えています。先ほども言いましたが実際に各仕事を行えるかどうかは実務経験、言うなれば先輩の指導などを受けて関わったことがあるかどうかが重要で、テストを受けたかどうかではありません。
 そうはいっても高圧ガス関係の資格の中には毒ガスの取り扱い免許などもあって事はそう簡単じゃないということは重々承知ですが、こうして敢えて批判する形をとっているのは、資格制にすることで誰が一番得をするのかというとほかならぬ、資格試験を管理、運営する連中だからです。あまり表には出てきませんがこうした団体には独立行政法人など官僚の天下り団体が多く、しかも一つの試験で受験料、試験対策講座費、教材費、資格登録費などと多方面にわたって受験者から料金を徴収し、どう見たって必要以上に儲けているんじゃないかという気がしてなりません。払う方も払う方で、大抵会社が費用出してくれるのでためらいなく払うし。

 こうした不当な儲け方、言い方を強くすれば不必要なまでに資格取得熱を煽って利益誘導をしている団体例としては2009年に一挙に問題が発覚した漢検協会をよく代表例として使っていますが、実態的には漢検だけでなくもっとたくさんの団体で試験に関わる徴収料金を本来の目的用途の試験運営以外に現在も流用していると思います。さらにうがった見方をすれば、2000年代前半の就職氷河期時代に盛んに「資格があると就職に有利」と言われてきましたが、この背景にはマスコミへの資金の流れがあったのではと今思います。
 繰り返しになりますが資格があろうとなかろうと、仕事に必要な知識が必ずしも伴われているというわけじゃありません。下手に中間業者をのさばらせるくらいなら、いくつかの資格は届け出制にしてこの際つぶした方が世の中も回しやすいのではないかというのが今日の意見です。

2011年10月2日日曜日

内需拡大によるメリット、デメリット

 昨年に日本を追い抜いて中国のGDPが世界二位になった際、「これほどまでの経済大国となったからには、中国はこれまでのように大量生産による輸出中心の経済モデルでは経済を維持できなくなる」などといった評論をする経済家がたくさんいましたが、どうしてそうなるのかきちんと説明していた人は皆無と言っていいいくらいにいなかったので、当たり前と言ってしまえば当たり前の話ですが今日はどうしてそうなるのかを簡単に解説します。

 まず現在の中国がどうしてこれほどまでに経済力を成長させることができたのかですが、その原動力となったのは保有する世界最大の人口とその人口に裏打ちされた豊富で安価な労働力です。言うまでもなく労働力が安ければ同じ材料で同じ製品を作ったとしても値段が安くても利益が出るので、繊維商品を筆頭とした軽工業品は中国国内はもとより、「メイドインチャイナ」が世界で当たり前になるくらいに他国にもバンバン輸出されていきました。そのためこれまでを含め現在の中国経済は、輸出販売をメインとすることで成り立っております。

 今現在の日本では輸出が多いということはとにかくいいことだというような言われ方をしておりますが、確かに輸出量が多いということは一面ではいいものの、必ずしもいいことづくめではないと私は考えております。具体的な例が卑近で助かるのですが、一国の経済消費における輸出割合が高いということは、自国の都合と関係なしに他国の都合で突然大きな影響を受けやすくなるというデメリットが存在します。具体例を挙げるとまさに今起きているリーマンショック以降の不況で、それまで好調に売れていた商品が他国で急に売れなくなると輸出産業にかかわる業種では売上が突然に減少します。また不況に限らずとも相手国との関係悪化に伴いセーフガードなどといった貿易対抗策や輸出規制が敷かれても同様で、毎月1000万円あった売り上げが突然に10万円に減少することだってありうるわけです。無論こうなったら従業員も雇い続けることが出来なくなり、下手すりゃ一発で廃業です。

 またこれ以外にも、輸出依存の経済体制にありがちなのは貧富の拡大です。これも単純な話で輸出産業にかかわる業種では自国の経済(=値段)に関係なく価格を決定することができるため、国内向け産業の人たちと比べて大金が得やすいです。現実に今の中国では昼食や散髪が100~200円で済む一方、大型トラックや建設機械は海外に数百万円で輸出されております。
 無論このような状態を維持し続けながら経済成長を保つということは理論上は可能ですが、行き着く先は言い方が悪いですが韓国社会のようなものだと私は考えています。韓国は輸出産業を極大化させることで経済を維持していますが、その弊害というかサムスンやヒュンダイといった財閥企業に属していなければまともに生活できないほど一般庶民の所得は低く、貧富の差は日本とは比べ物になりません。おまけに今現在起こっているようにウォン高になるだけでそれらの財閥企業も途端に経営が苦しくなることもあり、底堅い経済とは言い切れません。

 ではこうした輸出依存のデメリットに対しどのような対策が必要なのかですが、一つはよく言われるように内需を拡大させることです。内需はあくまで国内のみの消費ですので不況時にも国家である程度コントロールすることができます。日本の場合はコントロールするために借金に借金を重ねた挙句が今の状況ですので、一概にとは言えませんが。
 ただ内需を高めるために何が必要かというと、なによりもまず一般庶民の所得の向上です。それまで毎月10万円もらってた人が20万円に上がればそれだけ使えるお金が増えて内需は増えるわけですが、こうなると何が起こるかというと労働力コストが上昇し、これまでのように輸出で大儲けすることが出来なくなるどころか大量生産、輸出モデルが崩れることになります。見方によっては貧富の差が縮まるとも言えますが。

 話は戻って今の中国経済ですが、順番的には以下のような形で内需拡大策を現在取っております。

・安価な労働力を武器に輸出産業を中心として経済成長達成
  ↓↓↓
・経済成長こと達成したものの、貧富の差が拡大し不満が増加
  ↓↓↓
・不満解消のために全体の所得を底上げする必要がある
  ↓↓↓
・所得が底上げされると、これまでのように安価な労働力だけじゃやってけなくなる
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・減少するであろう輸出消費の埋め合わせとして、内需を拡大させる必要がある


 もちろんこれだけが理由じゃなく世界経済がリーマンショック以後に不況となったのもあって内需化拡大にかじを切ったのもあるのでしょうけど、「中国がこれまでのようにはいかない」という理由というのはざっとこんなもんだと私は考えています。
 現実に先週、私も会社で記事を書きましたが、労働コストの上昇などによってこれまで軽工業品の輸出産業中心地であった浙江省温州市で、今年に入ってから経営者の夜逃げが相次いでます。経営者が夜逃げした企業の業種を見てみると、ライター、メガネ、靴といったメーカーで、これは日本も歩んだ道ですがもうこれらの大量生産は中国でもやっていくことはできないでしょう。