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2012年4月29日日曜日

他人の痛みに対する感度

 一昨日に書いた「エスカレートしていく行為」の記事で重要なことを書き忘れていたので、補足としてもう一本記事を書きます。もっとも、今日ここで各テーマはエスカレート行為とはまたちょっと距離がある内容なので、こうして鼈甲を儲ける形というのがあながち正しいのかもしれません。
 さて前回の記事で私は、いじめやしごきといった行為はしている加害者らが「自分たちも以前と同じ仕打ちを受けた」と思う、信じていながらも、実際には行為内容がエスカレートしていく可能性が高いという論を主張しました。この記事で書き忘れていた重要なことというのはこうしたしごきやいじめを実行する人間らの特徴のことで、概して「自分の痛みに敏感で、他人の痛みに鈍感な人間」が多いということです。

 自分の痛みに鈍感というのは書いて文字のごとく、自分が不快に思ったり苦痛に感じる範囲が広かったり程度が大きい人間のことです。それこそ例を作るなら、コンビニに入ったところで店員が「いらっしゃいませ」と言い忘れたのを失礼だ、無礼だ、気分が悪くなると感じる人間もいればよくあることだと気にしない人間もいるでしょうが、この場合は前者の人間の方が痛みに敏感だと言えます。次に他人の痛みに敏感か鈍感かについてですが、これもそんなに難しいことではなく単純に、「何をしたら相手はどれほど辛いと感じるのか」という程度を感じ取る能力のことです。他人の遺体身に敏感であるということは「相手は傷つきやすい」と考えるのと同じことで、逆に鈍感であるということはちょっとやっそとつついたくらいは全く問題ないと考えることを指します。ちょっと変な説明の仕方ですが。

 それで「自分の痛みに敏感で、他人の痛みに鈍感な人間」とはどんな人間かですが、説明するまでもないでしょうが自分が被った損害は過大に主張する一方で他人には同じことをしても平気だったり、他人が何にどんなことで苦しんでるかを理解できない人を指します。言うなれば主観が強い一方で客観を持たない人間で、こういってはなんですがあまり近くにいてもらいたくない人間です。
 既に現時点でかなり身も蓋もない言い方をしておりますが、意外にこういう輩というものは世の中に数多くいるかと思います。それこそ前回の記事で紹介したように、「過去に自分が受けた仕打ちは後輩も受けるべきだ」という考えで同じ、もしくは自分が受けた以上の必要のないしごきをする人間などは典型で、相手の限界点とか不快度というものを無視していろいろ厄介ごとを押し付けてくる人間は私があれこれ言わなくとも誰もが出会ったことはあるでしょう。

 これは友人の言ですが、「それが必要な苦労ならともかく、そもそもの話として自分が受けた苦しみをほかの人間も共有すべきだと考える人間は頭がおかしい」というように、私もこうした人間は可能な限り社会から排除しなければならないと考えています。以前に書いた「必要な苦労、余計な苦労」の記事中でも述べていますが、世の中には明らかにやらなくてもいいし省略できるにもかかわらず何故だかみんな伝統的に維持し、守り、伝えている苦労が数多いです。それこそその苦労の経験者なら不必要性がわかっているにもかかわらず、何故だかそうした苦労を率先して伝えていき、逆に必要な苦労を伝えていこうとしない場面を私も嫌というほど見ております。ひどい奴なんか、体験したことのない苦労をさも経験したかのように語って他人に押し付けるのもいましたが。

 私は何もここで「他人の痛みに敏感になれ」というつもりはありません。過ぎたるは及ばざるが如しというように、他人の痛みに敏感過ぎると何事も人との接触を避けようとする人間になってしまう可能性もありますし、これはこれで問題があります。しかし全く他人の痛みを理解しようとしない、客観を持たない人間は百害あって一利なく、決して重要な地位とか仕事を任せてはいけません。一番いいのはまたも論語ですが中庸こと自分の痛みも他人の痛みも相応にわかる、もしくは渡辺淳一氏が主張する「鈍感力」こと自分の痛みにある程度鈍感で他人の痛みは理解するくらいがいいでしょう。

 なお、たまに私は人を評価する際に、「あの人は一人称だね」と言うことがあります。この意味は主観しか持っていない、つまり客観の視点が足りなくてまさに今回の「他人の痛みがわからない人間」のことを指しております。これに対して「二人称」というのは、外からの見方しか持っていない人間で、バックボーンがないというか主体性を持っていない人間を指しています。となるとベストなのはやはり「三人称」で、自分を含め周囲を客観視することが出来て、その上で自分の目指す方向というか視点を持って意見を主張できる人間のことを指しており、宮沢賢治じゃないですけどこういう人間に私もなりたいです。

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