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2013年8月8日木曜日

全米球団の永久欠番「42」の来歴について

 最近アメリカ史のいい本をブックオフで購入して読みふけっているのですが、その中で全メジャー球団の中で永久欠番となっている「42」という数字と、その背番号をかつて背負ったジャッキー・ロビンソンという選手について書かれてあり、素直な気持ちで面白いと思ったのでこのブログでも紹介しようと思います。

 野球を知らない方に向けてあらかじめ説明すると、どのチームのプロ野球選手も試合に出る際にはユニフォームに背番号を背負って出場しますが、チーム内で大活躍した名選手に対して敬意を持つという目的から各チームで一部の背番号はその選手の引退後、使われずにおかれることがあります。日本のプロ野球で代表的なのは巨人の王貞治氏の「1」、長嶋茂雄氏の「3」、西武だと故稲尾氏の「24」などがそのような扱いとなっております。

 それで今回紹介する「42」。これはメジャーリーグのドジャースでプレイしたジャッキー・ロビンソンの背番号です。一体何故この番号が永久欠番となっているのかというと、シーズンMVPにも輝いたことのあるロビンソンの実績以上に、彼が近代メジャーリーグで初めての黒人メジャーリーガーだったことからです。

 まずあらかじめ書いておくと、メジャーリーグ初の黒人選手だったのはモーゼス・フリート・ウォーカーであって、ロビンソンではありません。ウォーカーについて少し書くと、彼が出場したのは1884年で捕手として出場しましたが、人種の壁はロビンソンの時代より高く、チームメイトからは投球のサインを受け取ってもらえずシーズン最多の捕逸を記録するなど満足に活躍することはできませんでした。翌年からはマイナー球団を転々としましたが、とうとう再度のメジャー出場は叶いませんでした。

 そんなウォーカーに続く第二の黒人メジャーリーガーであるロビンソンは1919年の生まれです。当時もメジャーリーグには白人しか出場しておらず、黒人選手は二グロリーグという別枠のリーグでしかプレイすることが出来ませんでした。
 ウォーカーの兄はベルリンオリンピックの200メートル走で銀メダルに輝くなど彼の家はスポーツ一家で、ロビンソンもその才能を受け継ぎスポーツ推薦を受けて大学に入学します。ただ中途で退学した後は一旦就職し、二次大戦の開戦と共に徴兵を受けますが、配属された基地内ではやはりというか人種差別が付きまとったことからこちらも途中で除隊します。

 除隊後、二グロリーグでプレイしていた彼に目を付けたのが、ブルックリン・ドジャース(ロサンゼルス・ドジャース)のブランチ・リッキー会長でした。彼は優秀な選手という触れ込みで視察したロビンソンを見初め、彼に対してあらゆる差別や批判を耐え忍び、やり返さない覚悟を説き、それに応じた彼をドジャース傘下の3A球団、モントリオール・ロイヤルズに入団させます。
 こうして迎えた1946年のシーズン。ロビンソンの出場に対して対戦球団からは様々な抗議が寄せられましたがそうした声にロビンソンはあくまで静かな態度を取り続け、そのシーズンでは球団新、リーグ最高となる打率349、113打点という恐ろしい成績を打ち立てます。この年にチームは優勝を果たし、観客動員数も過去最多を記録したそうです。

 そしていよいよ翌年の1947年。満を持してロビンソンのメジャー昇格が球団から発表されるや他の全球団は揃って彼の出場に反対の意向を示し、対戦拒否すら示す球団もありました。ただ当時のメジャーコミッショナーが出来た人だったのかドジャースの支持に回り、当のドジャース監督もロビンソンの起用は必要であれば使うのみと言い切り、彼の出場への舞台が整えられていきます。もっともチーム内では反発の声が依然と大きく、数人の主力選手がトレードを志願して他球団へ流出する事態にも発展しています。

 そして開幕戦の4月15日。この日の観客はロビンソンを見ようと半数以上を黒人が占められるなか、前述のウォーカー以来となる黒人のメジャー出場をロビンソンは果たしました。ロビンソンはこの年も優秀な成績を収めチームに貢献し、また球場の内外から飛んでくるヤジや侮蔑に対して目立った反応はせず紳士的な振る舞いを続けたことから次第に世論を味方につけ、最初は毛嫌いしていたチームメイトたちも彼を信用するようになっていったと言われております。
 そしてロビンソンは同年、この年から始まった新人賞を初めて受賞することとなります。こうしたエピソードからメジャーリーグの新人賞は別名で「ジャック・ロビンソン賞」と言われております。

 その後、ロビンソンは1956年までプレイしてこの間に首位打者、盗塁王、MVP、そしてチームのワールドチャンピオンという各タイトルを取得します。現在においても彼の評価は高く、彼がいなければメジャーにおける黒人選手の出場はずっと遅れていたと言われるとともに、初の黒人選手としてまさに手本となるほどフィールド上で紳士的な人物だったとして、同時代の野球以外のスポーツ選手からも多大な尊敬を集めました。
 こうした一連の功績から彼の付けていた背番号「42」はメジャー、マイナーを含む全米球団で永久欠番となっており、さらに4月15日は「ロビンソンの日」として今に至るまでその功績は語り継がれております。

 私の方からもう少し付け加えると、ロビンソンを使った球団がドジャースだったことが印象的に思えました。知ってる人には早いですがドジャースはあの野茂秀雄氏を獲得し日本人のメジャー進出の道を作り、その後も数多くの日本人選手を積極的に採用することで有名なだけに、この球団は昔からフロンティアを開拓する球団だったのだと妙な尊敬の念を覚えました。

 あと今回の記事を書こうと調べているうちに知ったのですが、なんでも今年4月に「42」というまさにこのロビンソンを題材にした映画がアメリカで公開されていたそうです。日本では11月に公開される予定なので、差別と偏見に敏感なこの頃だから折角なので見に行こうかなと考えています。

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