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2013年12月29日日曜日

長平の戦いについて

 この冬の歴史まつりも三日目ですが、日本史、西欧史と来たもんだから今日は中国史だなと考えていいネタはないかと考えたところ、過去二日間が戦争に関する話題だったのでこの際それに合わせ、中国の戦国時代における最大規模の野戦である長平の戦いについて私なりに紹介しようと思います。

長平の戦い(Wikipedia)

 この戦いは元々有名だし、このところ人気で私も読んでいる「キングダム」という漫画でも簡単に説明されているので知ってる人も多いかもしれません。

 この戦いがあったのは古代中国紀元前260年。当時、中国は各地に国々が乱立してそれぞれが覇権を争う戦国時代だったのですが、時代の趨勢は後に中国を初めて統一する秦が徐々に勢力を増し、敢えて例えると現代の米国の様にほかの全世界の国々が束になってかかっても抑えきれないほど強さを増しておりました。そんな秦に対して唯一対抗できるというか、対抗せざるを得なかったのが秦と国境を接する隣国の趙という国です。この国は元々は晋という国でしたがお家騒動から韓、魏、趙の三国に分かれたものの、比較的強い勢力を保ちながら戦国末期まで影響力を持ち続けておりました。

 この趙が大きく躍進したのは長平の戦いに至る数十年前の武霊王の時代です。武霊王は当時、蛮族が着る衣装と蔑まれていた胡服という、現代のズボンのような衣装を兵士の服として採用します。当時の漢民族の衣装は裾の長いもので騎馬に乗るのには向いていなかったのですが、武霊王は国内の反対を押し切り胡服を取り入れたことによって軍事力の大きな向上に成功します。この軍事改革によって最強国の秦も趙にはなかなか侵攻することが出来なかったそうです。

 話を長平の戦いに戻しますが、この当時の秦は優秀な将軍が綺羅星の如く集まり、特に当時、というより戦国時代を通して最強の司令官とも言われる白起が文字通り縦横無尽に暴れ回り領土を拡張し続けておりました。この時代に秦と趙は領土争いのもつれから秦側が攻め込む形で戦争となるのですが、趙側は「刎頸の交わり」で有名な廉頗を防衛の将として送り込みます。
 秦の強さもさることながら老練な廉頗の指揮も見事で秦側はたちまち攻めあぐねてしまいます。この時代に白起は打開策を練り、まずは面倒な廉頗を遠ざけるため趙の首都で「秦は相手が年寄りの廉頗であることに安心している」という噂と、「逆に若くて才能高い趙括がやってくることを恐れている」という噂を流しました。

 趙括という人物は父親が有名な将軍で、本人も幼いころから軍学を学んでいた青年でした。彼は若い頃から軍学にかけては右に出るものがないほど賢く、議論でも父親をしばしば打ち負かせるほどで評判が高かったのですが、その父親と母親は息子は自惚れが強く大将としては大成しないと早くから予言していたそうです。

 話を戻すと、趙の国王は秦が流したその噂を真に受けて廉頗に変えて趙括を総大将として長平へ送り込みます。なお趙括にとってこの時初めて軍の指揮を任されたのですが、いきなり大将は無理だとこれまた「刎頸の交わり」のエピソードにおけるもう一人の主人公である蘭相如は、病床からわざわざ国王に総大将の交代をやめるよう諫言しています。そして夫に先立たれた趙括の母親も、息子は総大将の器ではないからと国王に諫言した上で、どうしても総大将にするのならば趙活が敗北したとしても親類を連座で罰しないよう約束を取り付けました。

 そうしてやってきました長平の戦い。両者の兵力は趙が40万以上だったのに対して秦は数万程度だったと言われ、総大将に着任した趙括は兵力で勝っているのだから一息に飲みこむべきだとして、廉頗が城から一歩も出ずに防戦をし続けたのとは逆に全兵力で一気に打って出ました。仮に相手が並の将軍だったらこれでもよかったもしれませんが、秦軍には秘密裏に白起が将軍として着任しており、趙が打って出るのを虎視眈々と待ち構えていました。

 結末は本当にあっさりと出ました。数を頼みに趙軍は城から打って出ましたが、秦軍は巧みにこの攻撃を防ぐと別働隊が趙軍の退路を塞ぐことによって趙軍を食料や予備の武器といった補給物資のない状態で包囲してしまいます。この包囲を打ち破ろうと趙軍は何度も攻撃を仕掛けるもののその攻撃はすべて白起が先読みし、適切に部隊を配置されていたためにすべて失敗に終わりました。
 こうして数十日間包囲された趙軍の中から餓死者も現れたため、最終的に趙軍は全滅覚悟で最後の突撃を敢行します。この突撃によって司令官の趙括は戦死し、残った兵士は全員が降伏します。

 ここからがこの戦争のハイライトなのですが、降伏した趙軍の兵士は約40万人いたとされ、白起はこれほど大量の捕虜となると連れ帰ろうにも食料がなく、かといって無傷で趙に戻してはこの戦争で勝利した意味がなくなると考え、なんと一部の少年兵を除き全て生き埋めにして殺してしまいました。
 私の考えとしては当時の中国の人口で40万人も兵士を動員できるかと言ったら疑問で、また戦争で戦ってるのにほとんどの兵士が戦死せずそのまま降伏するってのはさすがに有り得す、この数字はさすがに盛っているように思えます。ただ大量の兵士が降伏したにもかかわらず生き埋めにされたのはどうやら事実だったらしく、なんでも近年にこの戦いの戦場だったと思しき場所を発掘した所、有り得ないくらいに大量の人骨が出土したそうです。軽いホラーだ。

 この戦いの故事から趙括の名前はいわゆる「論語読みの論語知らず」という、「勉強はできるけど実戦はからきしな頭でっかち」という意味を表すようになりました。そしてこの戦いで勝利した白起ですが、この戦争の後の戦後処理に不満を持って出仕せず自宅に引きこもるようになり、この態度に腹を立てた秦の国王によって自害する様にと命令されこの世を去っております。
 たった一つの戦いとはいえあまりの敗戦ぶりによって趙の勢力はガクンと落ち、その滅亡を早めたと言われております。天下分け目の戦いとまではいきませんが、実にドラマチックな展開で結局の勝者は誰だったのかと考えさせられるエピソードです。

2 件のコメント:

片倉(焼くとタイプ) さんのコメント...

趙の孝成王はなぜ廉頗を解任し趙括を総大将にしたか、私はいくつか仮説を立ててみました。
①廉頗の健康不安説。 廉頗の年齢は不明ですが、おそらく初老だと思われる。 総大将が
 急病になれば一大事。その前に若い趙括を総大将にしようとした。
②孝成王の戦略判断ミス 廉頗の持久戦法を、兵力に勝るのに戦わない消極的な戦法と考え
  趙括を総大将にして、短期決戦で決着を決めようとした。
③孝成王の功名心 実は孝成王は自分で国の政治を思うように取り仕切りたかった。でも藺相如
 をはじめとする先王の功臣に事ある事に意見され思うように活動できなかった。
 そこで若い世代の趙括に手柄を立てさせ、秦に勝つという実績をあげさせれば、先王の功臣から
 口出しされることもなくなるだろうと思って趙括を総大将にした。

案外③が真相なのかもしれません。  
趙括は孝成王と同じように、自分の能力を発揮して活躍したいという願望がおそらくあったでしょう。
ただし彼はは論理的な部分では父親を超えていましたが、軍才は圧倒的に劣っていました。
それが彼の不幸でした。

花園祐 さんのコメント...

 改めて考察された仮説を見てみて、私も③が最も適当な気がします。
 あの時代、趙に限らずとも若い君主は老臣に逆らい辛く、秦の始皇帝もクーデターに近いことやって親政をようやく開始できましたしね。
 趙括についても同感で、敢えて言うなれば論理的な才能に恵まれてしまったことが彼の不幸だったかもしれません。