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2016年8月10日水曜日

天皇が滅多打ちにされた事件

 先日の天皇陛下の生前退位について言及されられた発言については専門外ということもあって敢えてこのブログで触れませんでしたが、いい方向に議論が発展していけばいいなと陰ながら祈っています。少しだけ考えを述べると、たとえば脳死のような意識不明状態に陥った場合の皇位継承はどうなるのかなど現代医療を考慮しても皇室典範は対応する必要があり、これを機に抜本的な改革を行ってもらいたいものです。
 そんなわけで天皇系の話題というか事件でも今日は書こうかなと思ったので、鎌倉時代にあった「天皇滅多打ち事件」こと「粥杖事件」について記憶を頼りに紹介しようと思います。

 この事件が起きたのは鎌倉時代の後深草院がいた時代です。後深草院とは後深草天皇が引退して上皇となってからの呼び方ですが、恐らく「後深草天皇」と呼ばれることの方が実は少なかったりします。というのも承久の乱以降、鎌倉幕府の管轄下に置かれた天皇家では後鳥羽上皇系の皇族が遠ざけられたことにより傍流であった後嵯峨天皇が天皇となりますが、この後嵯峨天皇は自ら院政を行うために早々と譲位したことにより、わずか四歳の後深草天皇が誕生することとなりました。
 天皇となったものの公務は上皇となった後嵯峨院が取り仕切っていたため後深草天皇はほとんど実権がなく、また父親も彼より彼の弟を寵愛したため後深草天皇にも早々の譲位を迫ったため、なんと後深草天皇は17歳で弟に譲位したことにより亀山天皇が誕生したわけですが、これがのちの南北朝の両派となるわけだから歴史ってのは面白い。

 話は戻りますが人生において天皇だった期間よりも上皇だった期間のが長いことから「後深草院」と呼ばれることが多いわけで、この記事でも以後はこの名称で統一します。

 そんな後深草院ですが正室以外にも色々愛人を作っており、その中の一人に「とはずがたり」の作者と言われる「後深草院二条」という女官がいました。はっきり言ってリアル源氏物語で、後深草院は二条を幼少の頃から育て上げて自らの妾にしたのですが、この後深草院との絡みを二条はみっちり細かく文書に残しており、その中に「粥杖事件」と呼ばれる話も載せられています。
 当時、何かの祝日の際に女性の安産祈願としてお粥を作る時に使う杓(粥杖)でお尻を叩くという慣習があったそうです。この慣習が行われる日は女性たちは男に追いかけられながら粥杖で尻を叩かれるという、なんとなくダウンタウンの罰ゲームっぽいことをさせられていたそうです。

 例年通りこの粥杖大会が行われた後、「くそぅ、いつまでもやられっぱなしだと思うなよ(# ゚Д゚)」と誰か言ったのかは定かではありませんが女官たちは集まって復讐の計画を練り、そしてそれがそのまま決行されました。

後深草院「やっほー、誘われるままに遊びに来たよー(´・ω・)」
二条たち「かかったなアホが!( ゚( ゚( ゚( ゚Д゚)ズラッ」(粥杖シャキーン)

 なんてセリフが言われたか定かではありませんが、ホイホイやってきた後深草院に女官たちは寄ってたかって粥杖で滅多打ちにしたそうです。やられた当事者の後深草院自身は「ハァ、別に痛くねぇし(´;ω;`)」といって女官たちのいたずらに寛大な態度を取ったそうですが、後でこのことを知った公家のお偉方はカンカンとなって二条たちもなんかめちゃ怒られたみたいなことが「とはずがたり」の中で書かれてあり、「粥杖事件」という風に現代では呼称されています。
 この事件はその内容のコミカルさもさることながら、仮にも天皇やった上皇に対して女官たちが粥杖で滅多打ちしたという事実があったことに驚きます。平安時代からこんな感じだったのか、承久の乱で負けて以降こういう風になったのかは定かではありませんが、当時は現代以上に天皇家に対してフランクな態度が取られていたのではないかと伺わせるエピソードです。

 常日頃言っていますが私は現代人の天皇制への意識は明治、大正、昭和よりも江戸時代の方が近いと考えており、むしろ日本の歴史の中で明治から昭和までの時代の方が天皇制に対して特別な価値観が持たれていたと考えています。しかしこのエピソードを見るだに、鎌倉時代はもっと激しかったとも思わせられ、案外天皇制ってのは元々はずっとフランクなものだったのかもしれないなんて時たま思ってしまいます。 

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