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2024年3月10日日曜日

神との対面



 なんかJBpressの方で自分が3年前に書いた元寇の連載記事がリバイバル無料公開されており、昨日からずっと1位から3位までの表彰台を独占し続けています。二次配信は許諾しているので別に問題ないのですが、こんなにアクセス稼いでるなら自分にもおこづかい分けてほしい(´;ω;`)ウッ…
 ちなみにこの記事は書く前の段階からガチで3打席連続ホームランを狙っており、1本目はやや力んでのシングルホームラン、2本目は完全に待ち構えての満塁ホームラン、3本目はやや変化球に泳がされながらも調子の良さで合わせての2ランホームランっていう印象でした。

 話は本題ですが最近特にほしい本はないけど漫画が読みたいってときに、藤子・A・不二雄の「まんが道」を少しずつ買っています。非常に巻数が多いのでまとめ買いし辛いためこのような形式としていますが、第2巻では藤子不二雄両名が手塚治虫の家をたずねに行くエピソードが載せられてあります。
 この回ですが、ぶっちゃけ宗教画のようでした。登場してきた手塚治虫は後光が差すかのようにやたら神聖視して書かれてあり、作中でも初めてブッダかキリストにあったかのように終始感激、圧倒される様がそのまま描かれてあります。ただこれは恐らく誇張しているわけではなく、実際こんな感じだったんだろうなというのも見て取れます。

 というのも当時二人は高校生で、生前から漫画界の神様と呼ばれていた手塚治虫との対面とくれば、文字通り神様を見るような出来事だったのでしょう。そういう意味では宗教画のようなタッチであの場面を書くのはあながち間違いじゃなさそうです。

 そんな神こと手塚治虫ですが、彼がいなければ日本の今のマンガ、アニメ産業は間違いなくなかったと言えます。というのも手塚治虫がいなければ上記の藤子不二雄をはじめ多くのフォロワーは多まれず、そして彼らフォロワーが作った名作も存在しえないからです。
 主だったフォロワーとしては、恐らく一番心酔し切って信仰していたのは藤子不二雄でしょうが、このほかにも劇画で異なる分野に進んだとはいえ、さいとうたかをも手塚漫画を見て漫画家を目指したと言われます。また松本零士や大友克洋氏らも完全な手塚フォロワーであり、アニメ界においても虫プロからガンダムの富野監督などが出ており、その影響度は総理大臣よりデカい気がします。

 手塚治虫が神様と呼ばれるのは、その優れた作品群もさることながら、多くの後進作家に影響を与え、育てていったことも大きいでしょう。このフォロワーの多さこそ漫画界への影響力の大きさともいえますが、手塚治虫に次ぐフォロワー数で言えば、やはり先日亡くなった鳥山明が上がってくるのではないかと思います。
 画風や作風に関しては、手塚治虫と違って鳥山明は継承したとみられる作家はあまり見られないものの、ドラゴンボールを見て漫画家を目指そうと思った人間の数は相当なものだと思われます。すでに一部の現役作家がそのようなことを話していますが、自分がブログを見ている絵師も、休み時間に書いたドラゴンボールの絵が誉められたことがすべての始まりだったと書かれてあり、改めて鳥山明の影響力の大きさを感じました。

 私を含め、自分くらいの世代なら恐らく手塚治虫よりも鳥山明の方がその存在感がでかいと思います。でもってもし自分が子供の頃に鳥山明に対面することがあったとしたら、恐らく本当に神と対面したような印象を覚えたであろうとも思います。こうした身近な神の存在というのは、やはり世の中にとって非常に重要なのだなと再確認した次第です。

2024年2月16日金曜日

そのグルガン族の男は静かに語った……

 いきなりわけわかんない見出しですが、これはファイナルファンタジー3の冒頭でいきなり出てくるモノローグの出だし言葉です。モノローグの内容も背景説明もなく急に「これから何か起こる」的な内容で意味不明ですが、それ以前にこのグルガン族が何なのかについて、一切説明なく急に語りだすもんだから、久々にこれ見て「何が言いたいねんお前」と思いました。
 なおそのググガン族はゲーム中、盲目だが未来が見えるという種族として登場しますが、モノローグで存在感満点で出てきたくせにメインストーリーにはほとんどからまず、変な谷の中にいて、「あの塔に行け」としか言ってきません。なんかとってつけたようなキャラクターでした。

 というわけで昨日、Steamで購入したFF3のピクセルリマスター版をクリアしました。FF3自体はファミコン時代に一度遊んでいますがクリアできず、20年ぶりにやり直した今回のピクセルリマスター版で無事クリアとなりました。色々仕様が変わっていましたが一番印象的だったのは終盤のボスの「まおうザンデ」が、ファミコン版では瞬殺されるザコ的なボスだったのに対し、ピクセルリマスター版では少し強くなっていくらか抵抗を見せるようになっていました。それでもそのあとのボスに比べたらくそ弱いけど。

 あとBGMはファミコン版のオリジナルとアレンジされたバージョンを切り替えることができましたが、アレンジ版は正直聞くに堪えないという印象を持ちました。絶望的にテンポが悪く、音源は良くなってるはずなのになんでと思うくらい残念な出来で、結局オリジナル版でずっとプレイしていました。

 春節の休暇も明日がジ・エンド・オブザデイですが、休み中は買いためていたゲームを消化するのに費やしていた気がします。割と暖かい日が続いていたから何度か自転車で遠出、といっても往復50㎞くらいを走っていましたが、なんかあまり追い立てられることがなく、ぼーっとして過ごしていた気がします。まぁこれから夏にかけてずっと忙しくなり、次余裕ある日常を過ごせるのは秋になってからだから、これでいいんだと思うけど。

2024年2月13日火曜日

原作改変に寛容だった漫画家

 未だに「セクシー田中さん」作者の自殺事件が尾を引いていますが、この問題でドラマの脚本化は原作維持という指示を聞いていなかったといい、小学館の編集者側は原作を改変しないようテレビ局側に伝えていたいう声明を出しています。脚本家に関しては自分を守るために聞いていなかったと主張している可能性もなくもないのですが、どちらにしろ作者の支持を確実に聞いていて、本来グリップを利かせるべき番組プロデューサーこそがこの問題で最も責任が大きいと言って間違いないでしょう。聞いていなかったは通用しないし、それでいてここまで問題を大きくさせたのだから何か言えばいいのに、いまだに何も言ってこないのはやはりその問題を自覚しているからじゃないかと思います。

 そんな原作改変について、今回は変えてほしくないという要望があらかじめ作者側から出されていましたが、過去には映像化にあたって原作から離れたストーリー展開をすることに寛容だった漫画家もいました。とりあえず思いつくあたりで何人かここでピックアップしようかと思います。

・横山光輝
 日本における「三国志」普及の第一人者である横山光輝ですが、「伊賀の影丸」をはじめ実写映像化された作品も非常に数多くあります。中には「六神合体マーズ」の原作の「マーズ」など、原作から大きく離れた作品もあるのですが、横山光輝は原作を改変することにあまり口を出さなかったと言われ、それがためプロデューサーらもこぞって横山作品の映像化に取り組んだと言われます。
 もっとも横山本人も一部作品の改変ぶりには閉口していたと以前に親類が語っていたのを聞いたことがあります。とはいえ大きく口を出さずに現場に任せ、その結果多くの作品が映像化されたことは事実であり、その点で言ってもやはりこの人は大御所であると感じます。

・永井豪
 そもそも原作なんてあったのかと思うくらい、アニメ版と漫画版で全く展開の違うストーリーが展開されることは永井豪氏の作品において最早お馴染みです。彼の場合、マジンガーZをはじめマンガの連載開始前からアニメ化も同時並行で動き出すというメディアミックスをよく仕掛けており、そのため大まかなキャラクターや舞台背景などは共通するも、それぞれのメディアで各担当者が自由に作品を作り、売れる要素があったらあとから別のメディアも追随するというかなり激しいパラレルぶりを見せています。
 その結果、漫画版では衝撃的な結末で半ば伝説化した「デビルマン」も、アニメ版では勧善懲悪な無難なストーリーでまとまっています。っていうか、漫画版の内容をアニメでやっていたらとんでもないことになっていたでしょう……。
 以前に永井氏の半自伝的漫画の「激マン」を読んだことがありますが、この中でアニメ版の脚本を担当したスタッフらに対する強い信頼感が描かれており、こうした関係があったからこそああしたパラレルな展開ができたのだと思います。中でも辻真先氏は、デビルマンの打ち合わせをしながら別作品の脚本を同時に書いていたというエピソードはかなり強烈だったというか、こんな凄いスタッフがいたのならそりゃ任せられるなと納得させられました。

・諫山創
 ご存じ「進撃の巨人」の作者ですが、原作改変に寛容だったというより原作を改変するよう脚本家に要求していたというぶっ飛んだエピソードがよく語られています。「進撃の巨人」の実写映画化にあたってはかねてからファンであった映画評論家の町山智浩氏を自ら指名し、できた映画の評価は非常に低かったものの作者自身は大満足だったという、まさに作者自身が喜ぶために映画が作られたような展開でした。
 中でも本当かどうかわからないけど脚本を書くことを町山氏が当初断ったところ、

「うれしいです。これでまた町山さんを説得するために会いに来れるのだから……」

 という、若干質の悪いストーカーじみた発言を諌山氏はしていたという話を聞きます。まぁそれだけ慕っていた人間に自分が原作の映画作ってもらったんだったらうれしいに決まってるだろうなぁ。

 最後に、今回の原作改変についていろいろ議論が続いていますが、やはり業界内でガイドラインかなんかは作るべきだと思います。その際に自分から提言したいこととして、原作者が死去した後の原作改変についてどのように扱うべきなのかも決めておいた方がいいでしょう。
 生前に原作者が大きな改変を望まないとはっきり言明していた作品に関しては映像化を控えるなど、こうした制限がないと最近ホラー映画とか作られている熊のプーさんのように、作品の尊厳を踏みにじろうとする輩が後年に出てくると思います。そうした改変の幅などに関して、著作権法と絡めつつ議論するなら今であるような気がします。

 なおこの手の議論で一番最初に思い当たったのが、水木しげるの不朽の名作こと「ゲゲゲの鬼太郎」です。この鬼太郎の、作者の死後に制作された第六期アニメでは猫娘がこれまでのデザインから大きく一新され、頭身の高い美少女キャラクターとして描かれたのですが、このデザインについて放映前にいくらか議論となっていました。
 「いくら何でも改変し過ぎ」、「こんなの猫娘じゃない」、「かわいいからこれでいい」といったいろんな意見が飛び交う中、

「いや、水木先生なら『売れりゃそれでいいんです』と言うはずだ」

 というコメントがあり、このコメントを見て私も「我が意を得たり!」という気持ちがしました。どこの誰かは知らないけど、水木しげるの気持ちをかなり理解している人のコメントだと心底思ったし、こうした作者の気持ちというか方針にぶれない改変だったらやっぱアリだなと当時思いました。

2023年12月31日日曜日

我一向是無所謂的(わたしは一向にかまわんッッ)

 先日、中国人の同僚に「私の好きな中国人キャラ」として漫画の「バキ」シリーズに出てくる烈海王の画像を百度で検索したところ、彼の名台詞でスピンオフ作品でも引用されてある「わたしは一向にかまわんッッ」について、見出しの通り「我一向是無所謂的」(実際には簡体字で直されてた)と翻訳されていました。
 元の言葉に合わせるならば無理して「一向」を入れなくてもいいのですが、これを翻訳した人は敢えてこの言葉を入れたと思います。その甲斐あって元のセリフを知っている人間からすれば非常に通りのいい訳語となっており、また烈海王はもともと中国人ということもあり、なんか中国語で書いたセリフのほうが似合っているような印象すらあります。

 こう言った翻訳に関して、法律文書ならともかく、エンタメ作品では如何に意訳するかというテクニックがやはり求められてくるでしょう。この手のものとして伝説的なセリフとしてスターウォーズエピソード3の「地の利を得たぞ(I have the high ground!)」というのがありますが、これに関しては「(高みから見下ろす感じで)この未熟者め!」と訳している人がいましたが、私もこっちの方がいいと考えています。
 なお同じ戸田奈津子氏のスターウォーズの誤訳で有名なのは「義勇軍」とすべきところを「ボランティア軍」と訳した例もあり、原語に引っ張られすぎだろと内心思います。

 上のは悪い例ですが、逆にいい訳され方したなと思うものとして「With Great Power Comes Great Responsibility」があります。これは言うまでもなくスパイダーマンに登場するセリフで、かつそのヒーロー性を代表するセリフですが、日本語では「大いなる力には、大いなる責任を伴う」と訳されています。下手な訳者だったら「Comes」を無理やり入れて「大いなる力とともに大いなる責任が来る」という風に訳してたかもしれませんが、単純に「伴う」でまとめ成語としたのは素晴らしい手腕だと思います。

 なおこのセリフですがつい最近見た映画解説動画によると、原典の漫画版スパイダーマンのある回で小さくモノローグに入れられていた言葉だったそうです。それを映画の初代「スパイダーマン」の監督であるサム・ライミがベンおじさんが今際の際にピーターへ伝えるセリフとして使用し、スパイダーマンを誕生させるきっかけと変えたことで、一気に普及しました。多分後代にも語り継がれ、今後英語のことわざになってくんじゃないかな。

2023年12月19日火曜日

キャラ要素盛り盛りなブラックラグーンのルマジュール

 本日、約2年ぶりにマンガの「ブラックラグーン」の最新巻にあたる13巻が発売されました。あらかじめ予約していたので昨夜にダウンロードしてすぐ読みましたが、長く待たされただけあって相変わらず面白い内容でした。

 多少ネタバレになりますが、前の12巻から登場しているルマジュールというキャラクターがこの13巻でも出てくる、っていうかほぼ主役級にずっと出続けています。12巻で登場した時から思ってましたが、ルマジュールはこの作者にしてはやたらキャラ要素が盛り盛り入ったキャラだと思っており、それもあってかネットでの反応も見ているとなかなか人気高そうです。実際自分も読んでて、このキャラいるから面白いんだろうなと感じたりします。

 ではこのキャラの要素には何があるのかというと、リストアップすると以下の通りです。

・ツンデレ
・ツインテール
・アイパッチ
・殺し屋
・普段着がスーツ
・小柄な体格
・妹キャラ
・変なところで義理堅い
・っていうか性格が完全ヤクザ系
・妙なところで図々しい
・背中が○○

 決して誇張ではなく、以上の要素がこのルマジュールという一人のキャラに内包されています。割とブラックラグーンのキャラって「フライフェイス」ことバラライカ女史をはじめ単独のとんでもない個性が造形をはっきりさせているキャラが多いと思っていたのですが、ルマジュールに限っては要素、っていうか美少女系萌え要素をかなりふんだんに盛り込まれていると感じ、ここにきてまたすごいキャラを作ってきたなという印象を覚えます。狙ってこういうキャラに仕立てたとしたらかなりすごい。

 なお13巻のほかの内容ですが、粛清シーンはまたかなりどぎつい描写になっています。まぁブラックラグーンの世界では日常ですが、今まであまりこういうはっきりと殺害する、それも女性キャラでああいうシーンを書くのはなかったなという気がします。幼児では前からあるけど。

2023年12月10日日曜日

SFC時代の小学生のゲーム購入事情

ファミコンハウス流山店の思い出(かけるのブログ)

 上の記事で紹介されている流山のファミコンハウスですが、ぶっちゃけ家の近くにあったので一番通っていたゲーム屋です。1990年代前半に南流山にはこのファミコンハウスのほか、テックス、ブルート、マジカルといったゲーム屋が存在しましたが、店舗面積と品ぞろえが一番広いのと、比較的価格相場が安定していたため、迷ったらここのファミコンハウスで自分もゲームを購入していました。
 なお当時は100円でも安くゲームを買うため、隣の松戸市を含め中古ゲーム屋をよく徘徊しては欲しいゲームの相場を調べていて、なんか一人で価格コムの調査員みたいなことをしていました。

 そんな私が小学生だったころ、当時の覇権ゲーム機は言わずと知れたスーパーファミコンで、ある意味ゲームの価格が歴史上最も高かった時代です。なんでも当時のスーパーファミコンのゲームは任天堂系列の問屋を介さないと流通できない仕組みになっていたそうで、問屋を含め忍店頭が粗利の5割近くを持って行ったため、スーパーファミコンのゲーム価格は後半には1万円越えもざらになるほど高騰していったそうです。
 なおこんな阿漕な商売をやっていた反発から、プレイステーションやセガサターンがソフトメーカー向けマージンを下げるやサードパーティのソフトメーカーは一気に任天堂から離れて新興勢力についたと噂されています。当然といえば当然で、任天堂が64の時代に冬になったのはハードやソフト戦略ではなくかつての流通戦略に起因する面が大きいと私は見ています。

 話は戻しますがゲーム価格が高騰していた当時、正直5千円くらいでは中古でもまともなゲームを買うことができませんでした。収入が制限される小学生にとっては非常に難儀な時代で、お小遣いをためて買おうにも月500円だったら1年間ためても6000円にしかならず、とてもじゃないけどまともに買うことはできませんでした。

 そんな小学生がゲームソフトを買うチャンスは年間で3つあり、誕生日、クリスマス、お年玉がその3大チャンスでした。このイベントにおいてはどんだけ高くても好きなゲームを親に要求することができ、またお年玉に至っては購入するソフトを調整すれば複数本購入することができるため、非常に重要な予算となりました。
 このイベントの際、地味に重要だったのは購入するゲームの換金性です。というのも前述の通り当時のゲームソフトは非常に高く、お小遣いではまともに購入することは不可能でした。となれば上の3大イベントのほかにどうやって買うかですが、前述のイベント時に買ってもらったゲームを中古屋に売却して、新たに現金を得るというのが「第四の手段」でした。

 中古ゲーム屋に買い取らせるにしても、古いゲームだったり、人気のないゲームだったりすると買取価格は非常に小さくなります。なので前述の3大イベントの際にはなるべく換金性の高いゲームを選んでおくことが、後々の新規ゲーム購入の際の資金源となりうるだけに、非常に重要な選択肢となっていました。

 具体的にどんなゲームが換金性が高かったのかというと、単純に人気の高いゲームほど買取価格が高くなるのですが、ファイナルファンタジーなど人気は高いものの出荷本数が大きいゲームだと発売から数か月はまぁいいとして、半年も経つと中古へ流れる本数も異常に多くなるため値崩れしやすかったです。
 自分の実感で言えば、「がんばれゴエモン」とか「ロックマンX」といったシリーズ物のアクションゲームが、一番値崩れしにくかった気がします。このほか対象年齢が比較的高かった「信長の野望」や「ダビスタ」シリーズも中古で高価格帯をよく維持していた気がします。逆にジーコサッカーをはじめ、発売から時間を経たサッカーゲームが一番値崩れが激しかったような。

 話を戻すと、私が小学生であった頃のゲーム購入は後々に中古で売却することを前提としていました。ただこれもスーパーファミコンの時代が終わり、プレステ全盛期になると新品でも価格は6800円が上限となり、新品価格の値下がりとともに中古価格も以前に比べれば落ち着き、3000円もあればそこそこ幅広い選択肢の中で買えるゲームが選べるようになったことで、以前ほど中古販売を視野に入れた換金性に関してそこまで意識することはなくなりました。っていうか、あのスーパーファミコンの時代が一番特殊だった気がする。

 近年はゲームのダウンロード購入が増え、冒頭のファミコンハウスも確か2013年あたりに潰れるなど、ゲームの中古販売はまともに商売できないくらいになっています。ある意味、新品価格が異常に高かったスーパーファミコンの時代だからこそああした中古ゲーム屋も商売ができたんだと思います。
 恐らく今後ゲームはますますSteamなどパソコンなどの端末を介したオンライン販売が主流となり、ゲーム単価もますます下がっていくと思います。そう思うと、中古ゲーム屋のあの独特な雰囲気を味わえたいい時代を自分も過ごせていたのだとしみじみ感じたりします。

2023年11月12日日曜日

熊が心底怖いと思ったゲームと漫画

 2020年2月に日本にいた際、テレビで見たニュースはほぼすべてコロナ関連、特にダイヤモンドプリンセス号に係るものしかありませんでした。それに対し先週までの日本滞在はどうかというと、クマクマクマこと全部熊で、なんか日本の話題をさらっているのが芸能人とかスポーツ選手じゃなく熊ってのが業が深いなとか思いました。もう流行語大賞もクマでいいんじゃないだろうか。

 その熊についてですが、かつて心底恐ろしいと感じさせられたゲームがあります。それはPSVitaで出た「忍道2」というゲームで、その名の通り忍者を使って敵の忍者を倒していくゲームなのですが、このゲームでは敵の忍者に交じって熊も出てきたりします。
 具体的には城の檻の中に入っていたり、野山で出くわしたりするのですが、普通の忍者は5、6回斬りつけるだけで倒せるというのに、熊はというと何十回斬りつけても倒れないほどめちゃくちゃタフに設定されています。そのため出会った当初、迫力あるけど何とかなるだろうとプレイの腕に自信のあった私はなめてかかったものの、何度斬りつけても倒れないのに向こうの一撃はこっちの体力をごっそり奪うほど重く、長びく戦闘で集中力が薄れていくやあっさりと熊の餌食となりました。

 その後、プレイヤーキャラの能力を高め、自分の腕が上がったころには割と楽に倒せるようになりましたが、サブミッションで熊と1対1で戦う面があり、そこに登場する熊は普通の熊の何倍も強いという恐ろしい敵でした。この熊には相当てこずったものの、最終的には地雷を設置しまくるという罠戦法により辛くも勝利を得ることができました。
 なおこの手ごわい熊を倒した後には「白黒はっきりさせましょう」という手紙とともに、パンダと戦うこととなります。あと敵がうろうろするところに熊放つと、割と楽しい光景が見られます。

クマ撃ちの女(くらげバンチ)

 以上のようにゲームを通して熊には忍者でも敵わないと認識していた私ですが、昨今の熊被害の拡大を受けてか、かねてより熊撃ち猟師を題材に取り上げていた上記の「クマ撃ちの女」という漫画を紹介記事で目にすることがありました。いま大きな問題となっているとともに熊猟の現状というのはどんなものかと興味を持って私も手に取ってみましたが、端的に言って面白く、プロの猟師らからも評価されているというのも納得のマンガでした。

 具体的な評価点としては主人公らをヒロイックに描かず、ともかく写実的に熊猟の現場について描写している点だと思います。鉄砲さえあれば余裕、というわけではなく、実際には急所を一撃で的確に狙撃しなければ熊の反撃によって死にかねないという厳しい熊猟について、時折目をそむけたくなるような激しい描写とともによく描かれています。これ見て猟師らも本当に命がけで熊撃ちをしているということがわかるとともに、人里へ降りてきた熊がどれほど危険なのか、素人目ながらその一端が垣間見えた気がします。
 同時に、熊問題については他人事のように思ってはならず、猟師にただ任せておけばいいなどという気持ちを持ってはならないというようにも感じました。もっと社会全体で議論し、どうやって熊被害を減らすかをみんなで考える時期に来ているような気がします。

2023年10月15日日曜日

マンガレビュー:夢なし先生の進路指導

 自転車のストッパーが以前よりバネが弱いのか、走行中にカタカタ鳴り続けてずっとうるさく、先日は友人にも「えらく音が鳴るね(;´・ω・)」と言われたのでジョイント部に緩衝材とばかりに絆創膏貼ったら、途端に音がしなくなりました。これまであったノイズが急になくなったもんだから、最初乗ったときは後方に強い違和感があるのと、乗り心地がなんか違うように思えて自転車がおかしくなったのではと逆に疑ってしまいました。
 にしてもこの前の100㎞サイクリングしてからというものの、なんか体が軽いというか充実感感じる。

夢なし先生の進路指導(ビッグコミックブロス)

 話は本題ですがこの前宣伝記事が出ていたので上の漫画の単行本1巻を手に取ってみました。

 あらすじを簡単に説明すると、夢のある職種に就きたいとする高校生に対し現実的な目線で「やめときなさい」と進路指導する、かつてピアニストを目指したものの挫折した高校教師の話です。1巻では声優、鉄道運転士の2職種が出てきて、どれも実際にこの教師の言うことを聞かずに夢へ向かって邁進している最中に挫折し、キラキラした職種の現実を見せる漫画です。
 巻末に取材先一覧が載せられており、実際漫画の中を見ていても丹念に取材した後を見て取れます。またテーマ的にも「夢の背後にはつらい現実がある」ということを取り上げており、一見すると悪くなさそうな漫画に見えるのですが、自分はこの漫画の続きを読む気はなく、続巻も購入する予定はありません。端的に言って、読んでてつまらないと感じました。

 前述の通り、選んだテーマと取材に関してはしっかりした作品だと思います。作画に関しても及第点というか作風にあった絵だと思うのですが、致命的なまでに漫画としての構成が悪いとはっきり感じました。全体として話の進行が非常に冗長であり、読んでて必要性を感じないコマが多い、っていうかほとんどそれで、ページ数の割に展開が異常なほど遅いと感じました。
 近年はこうした不必要に感じられる場面に紙幅を割き、話の展開が延々と遅い漫画が目立つようになっていますが、他の作品と比べてもこの夢なし先生の構成の冗長さは突出しており、もっと他に見せ方はないのかと素人目にも疑問に感じるほどでした。それこそ手塚治虫など往年の漫画家であれば、夢なし先生の1巻の内容は2、3話で片づけたことでしょう。

 具体的に冗長さを感じた場面として、個性付けだとは思うのですが主人公は角砂糖をコップの中に高く重ねてからコーヒーを入れるシーンがあります。最初の1回でも「これ必要?」と思うくらい冗長でしたが、この場面はその後も何度もあり、見る度になんやねんと呆れた印象を覚えました。同じ行為はデスノートのLもやっていましたが、あっちは「L=甘党」と認識できる場面で意味性もあったし冗長性も当時感じず、夢なし先生と比べると見せ方で本当に雲泥の差があり、角砂糖一つでこうも差が出るものかと思ったほどでした。

 また夢に挫折する若者たちを描いていますが、収録されている話はどれもこれからに関しては希望が持てるハッピーエンド的にまとめられています。これも賛否両論はあるでしょうが、もし逆だったら闇金ウシジマくんみたいに一つの強烈な個性を持った作品として認知されたであろうことを考えると、果たしてこの形式の終わらせ方でよかったのかな、最後まで厳しい現実を見せる漫画でもよかったのではという感情を覚えます。
 なおウシジマくんの作者はインタビューで、「ドラえもんを読んで漫画家になろうと思った」と答え、すぐに「全然違う漫画しか描いてないじゃん」とツッコミを受けてます。その直前には、「ガスバーナーで相手の手を焼き切って、ドラえもんにしちゃったよ(笑)」という裏社会の証言を載せているし。。。

 最後に夢なし先生を読んでて一番違和感を覚えたのは、この主人公は夢のある職業を希望する生徒に対し「やめときなさい」と止めておきながら、代替案を一切出してこないのが疑問でした、設定では主人公は元キャリアコンサルタントということになっていますが、ならばこそ「その職業に就くのは難しいから、同じような方向性でこっちはどう?」の一言くらいは言えないのか、っていうか本当にキャリアコンサルタントだったのか、職歴詐称ではないかと読んでて思いました。
 曖昧に「無理せず大学に進学したら?」とアドバイスするのは別として、別の方向性を一切見せようとしないのはなんかテーマから考えても矛盾があるように思えます。更にもう一点を加えると、なんか作者は取材した内容を作品に詰め込み過ぎているように見え、なりたての記者が取材の話を全部記事に書いてきているような印象も覚えます。取材っていうのはむしろ、聞いた内容をどうそぎ落とすかが重要なのに。

 なお取材漫画でいえば、正直不動産が近年の作品では非常にレベルが高いと感じます。原作者が元々ルポライターというのもありますが、一つの話に1つの不動産ネタを扱い、新米不動産会社員を交えて何がトラブルの種となるのかを話の中でうまく解説しています。

 以上のような感じで、テーマ性は悪くないのに漫画の構成一つで全部台無しにしているというのがこの漫画の感想です。ぶっちゃけ天津飯じゃないけど、現代の多くの漫画に足りないのはスピードだと思う。

2023年10月3日火曜日

好きな漫画家(奥浩哉)

 「好きな漫画家は?」と聞かれた場合、大抵相手を見て応えて無難に応えるべき状況であれば「三国志の横山光輝」と答えますが、そうでない場合は「ニビンベンと奥浩哉」と答えます。
 ニビンベンとは弐瓶勉氏のことで、その代表作は「BLAME!」、「シドニアの騎士」ですが、両作品は同じ作者ではあるものの同一人物とは思えないほどデザインが異なっており、自分が好きなのはどちらかと言えば「BLAME!」の方で、同時期の「バイオメガ」も好きです。

 もう一方の奥浩哉氏についてはその代表作はまぎれもなく「GANTZ」ですが、実は先日、セール中だったのと前からずっとほしかったことからその短編集の「赤」と「黒」を購入しました。両方とも、作者の出世作である「HEN」シリーズの短期集中連載版が掲載されているのですが、改めて読むと時代の先取りぶりというか相変わらずタブーのない描き方をしていることにびっくりしました。
 知らない人向けに説明すると、この「HEN」シリーズの内容はバイセクシャル、トランスセクシャル物です。話は大きく分けて3種類あり、

・女の子っぽい男子に求愛する超イケメンの男子の話
・超地味な女子に求愛する超美女な女子の話
・体が女性になってしまった男子の話

 以上三つで、ほかにあるとしたら両刀使いくらいしかないくらい性的価値観が一般とは異なる三者三様のストーリーが載せられています。また「黒」の方には「観察日記」をはじめとした、後の「GANTZ」を彷彿させる残酷で救いようのない、人によっては目をそむけたくなるようなえげつない内容も収録されています。

 自分が奥氏を初めて知ったのは上記の「HEN」の正式連載版で、表紙の女性キャラクターの露出が異常に激しいのと、ほかの漫画家とは一線を画すスタイルのデザインが目を引きましたが、当時は結局手に取ることはありませんでした。実際に初めて手に取ったのは「HEN」の後に連載された「01 ZERO ONE」からで、作者名が「奥浩哉」と書いておきながら、表紙には当時のバーチャファイターのようなフルCGで描かれたキャラクターが載せられており、「え、奥浩哉ってあの漫画家でしょ。なんでゲームCGが表紙なの?」という疑問から漫画喫茶で手に取ったのを今でもよく覚えています。

 この「ゼロワン」は奥氏にとって初めての、コンピューターグラフィックスを多用した漫画作品です。話のあらすじはVR空間で戦う格闘ゲームを巡り中学生の主人公らが仲間を集めて大会に出場し、俺たちの戦いはこれからだ的なところで打ち切りに合うという話です。
 奥氏によると、制作機材の導入やスタッフの育成であれほどの大ヒットを飛ばした「HEN」で築いた財産がこの作品の制作のためにすっ飛び、また人気も得られなかったから連載を中止したとの作品です。ただ結果的にこの作品で得られたノウハウが次の「GANTZ」に使われ、こちらで負けを取り返すかのような大ヒットを手中に収めるわけですが。

 この「ゼロワン」ですが、初めて見た時のインパクトは非常に強いものがありました。当時まだCGを使う作家はほとんどおらず、使うとしても表紙のカラー画程度だったものを、「ゼロワン」では通常のページでもふんだんに使用しており、元々リアル調な奥氏の絵柄と相まってCGで作られた背景が非常に際立っていました。
 その後、「GANTZ」においてもこの手法は受け継がれるのですが、CGを漫画に使うという手法は現代ではごく当たり前と化しつつあるものの、先日亡くなった「コブラ」の寺沢武一と並び、この分野のパイオニアはやはり奥氏であると私は考えています。

 もっとも奥氏に関してはその作画技術もさることながら、前述の「HEN」シリーズのように作中の展開が苛烈過ぎるくらいタブーのない描写を描く点でもほかの作家と大きく異なっています。連載終了から長く日が経つ「GANTZ」に関しては、恐らく現在においてもこれほど残虐描写の激しい漫画は多分ないように思われ、現代世界を背景にリアル寄りの画風であれほど血肉飛び交う作品は自分はまだお目にしたことがありません。実際に連載当時、よくこの本が発禁にならないものだと当時思っていました。同じ時期に「殺し屋1」もあったけど、なんか2000年初頭は堰を切ったかのような残虐描写の激しい漫画が多かった気がする。

 ただ残虐描写だけなら、「GANTZ」はここまで評価される作品にはならなかったでしょう。今回短編集を読んで改めて奥氏は単純に「漫画がうまい」というか、コマの区切り方や描写の見せ方がうまく、読者を引き込む力が元から高いと感じました。描写がわかりやすいせいかページをめくる速度が以上に早く、今回さらに勢いに乗って購入した「ゼロワン」も1時間以内に3巻全部を読み終えてしまいました。
 それでいてCGに頼らない作画能力も桁違いに高く、有名な話ですが「GANTZ」終盤で出てくる巨大ロボットは当初誰もがCGで描かれていると思われていましたが、あれも全部作者自らがいちいち書いていたそうです。っていうかあの「GANTZロボ」も、無駄にかっこよく見せようとしてないのに、ほかの誰にもない独創性を強く感じる凄いデザインに感じます。

 こんな感じで一気に奥氏についてまくしたてましたが、CG作画に関しては本気で彼がいなければ5年は日本漫画界の発展は遅れたのではないかと思います。それだけに、その記念すべき初代作品の「ゼロワン」は今だからこそ連載再開してほしいなと密かに思ってたりします。



  

2023年9月29日金曜日

どらごんころし

 「ドラゴン殺し」と言えば、ダークファンタジー漫画の最高傑作と誉れの高い「ベルセルク」で主人公が使う「竜をも屠れる」大剣ですが、最近は中日の立浪監督に対しても「竜殺し」という別称がついてきています。

 この別称は偶々「竜殺しのタツナミ」というキャラクターが出る漫画が配信された当時、立浪監督率いる中日ドラゴンズが、あくまで偶々一向に上向く気配なく今シーズンもほぼ最下位確定のようなシーズンを過ごしており、「タツナミが中日を殺しに来ている」という一部ファンの見解と一致したことで出てきたものです。
 まぁぶっちゃけ、同じ最下位でもホームラン王を狙える位置にある万波選手をはじめ、徐々にではあるもののチームが上向く気配を見せている日ハムと比べるとその差はデカいなと思います。またこんなチーム事情を反映してか「米騒動」などネタにニュースが中日から吐き出され続けるというのも因果なものです。

 なお中日では今年、キューバ出身選手が2人も飛んだというか亡命をやらかしましたが、この亡命劇にネットで誰かが中日のことを、ユダヤ人に命のビザを出した杉原千畝に例えている人がいましたが、すごいセンスしている気がします。

 そんな私も大嫌いな中日は置いといて近況ですが、相変わらず「遅雄防衛軍4.1」にはまっており、文字通り寝る間も惜しんで遊んでいます。まず難易度EASYからクリアしましたが、後半の面で大量のドラゴンと闘う面があるのですが、プレイ中にふと、橋の下に安全地帯というかドラゴンが入ってこれない遊歩道のようなトンネルがあることに気が付きました。ただトンネルの中に入ると空にいるドラゴンを狙って撃てないことから、隠れているだけではどうしようもありません。
 そこで、トンネルの中でロケットランチャーを使うこととしました。トンネルの中で自分が爆風に当たらないよう壁に向かって撃つとあら不思議、爆風が何故か壁やコンクリを貫通して橋の上や周辺にいるドラゴンに当たり、自分を狙ってトンネルの周りにいるドラゴンを文字通り一網打尽にできてしまいます。もっとも距離感ミスって、何度も自分が爆風に巻き込まれて死にまくりましたが。

壁に向かって撃ち続けろ!

 何故か知りませんがこの作業がやたらはまり、難易度HARDでもクリアできていい武器がたくさん得られるため、延々とこの面だけやり続けました。やり続けている最中、ロケットランチャーではなく火柱を真上に吹き続けるナパーム弾でも、炎が壁を貫通して橋の上にいるドラゴンをあぶり続けられることに気が付き、こちらの方法の方が安全かつ早いことからこっちに切り替え、でもって何度もクリアし続けています。

壁の中からこんにちは!

 この「ドラゴン殺し」ともいうべき必勝パターンですが、一方的に尚且つ大量のドラゴンを屠れることからめちゃくちゃストレスが解消されます。ただ橋の上で大量のドラゴンの死体が積み重なるせいか、あぶっている最中に本来なら貫通するはずのないドラゴンの死体グラフィックも貫通してきて、トンネルの中に姿を見せてきます。地味にこの貫通死体にロケラン当てると誤爆して自分が吹っ飛ぶため、いやらしい存在でした。

トンネル内では紫色の血の雨が降るぜ!

 またこのゲームでは敵キャラが絶命した際には紫色の血を吹き出すのですが、この血もトンネルを貫通して橋の上からたくさん降ってきます。天井からドラゴンの首が突き出た上に紫色の血の雨が降り続ける中、ひたすらナパーム弾をトンネル内で発射するのは普通にホラーな感じます。
 なおこのステージ、敵の増援が来た際にNPCが「恐ろしい光景だ……」としゃべるのですが、敵の増援よりトンネル内の方が恐ろしいことになっています。

トンネル内は所せまし!

 タイミングによっては、上の画像のように所狭しとドラゴンの死体が貫通し、その背後で火柱が上がり続けるというわけのわからない状況に陥ります。なお貫通したドラゴンの死体に誤ってナパーム打ち込むと、その死体から水平方向に火柱が吹き出し自分があぶられる羽目となります。っていうかこのナパーム、ほかのステージでもかなり使えます。

 こんな感じで延々と遊んでたら、ドラゴン撃退数の数値のみがえらい量に跳ね上がっていました。もしかしたら時代が違えば、自分もドラゴンキラーと呼ばれる身になっていたかもしれません。

2023年9月6日水曜日

ゲームレビュー:ベオグラードメトロの子供たち

Children of Belgrade Metro

 はいというわけでつい先ほど、上記リンク先で紹介されている「ベオグラードメトロの子供たち」(通称、ベオチル)というノベルゲーを全クリしました。結論から言うと、かなり期待外れでした。

 この作品は以前にも紹介した「真昼の暗黒」というノベルゲーの作者が作った、現状では最新の作品に当たります。この作者はほかにも「MINDCIRCUS」や「CODA」というゲームも作っており、どれも無料ながら非常に尖った内容で、暴力描写の激しさはもとより陰鬱な文体で非常に抜きんでています。
 また「劇中劇」または「断片的記録」形式で描かれることが多く、作中の内容はあくまで記録者の主観に過ぎず、ほかのゲーム上で示される情報と照らし合わせると明確な矛盾があり、どこまで真実なのかという点が非常にあいまいにされているのが大きな特徴となっています。

 今回、ベオチルを手に取ったのは過去作品が無料ながら非常に面白く、ベオチルに関しては有料ですがそれでも遊んでみたいという興味を持ったため、販売サイトからきちんと正規購入して遊んでみました。もっとも、定価で買って三日後にSteamで半額セールが始まったときには軽く鬱になりましたが。

 同じ作者の他の作品同様、このベオチルもノベルゲーであり、プレイヤーは表示される文章をゲーム画像や音楽と一緒に読むだけです。選択肢による分岐もほぼなく、読んでは進み、進んでは読むだけでゲーム性についてはほぼ皆無です。
 簡単にあらすじを説明すると、セルビアの首都であるベオグラードを舞台に、巨大企業の陰謀によって大量発生した超能力者が時にバトルし、時に犯罪に走り、時に超能力者発生の真相を追っていくという内容になっています。登場人物の多くは主人公を含め中学、高校生であり、一部は家庭環境の問題から建設が途中で放棄されスラムと化したメトロ(地下鉄)構内を根城にたむろしていて、それが作品タイトルにつながっています。

 以上の内容からこのゲームはぶっちゃけシナリオと演出の質がその評価を左右するわけなのですが、シナリオは決して悪いわけではなく、実際中盤に話が動くというか急に残虐シーンが増えてからはグッと面白くなって、一気に最後まで読み進めるほど没頭しました。相変わらずというか陰鬱な文体は冴えており、ベオグラードという日本人にとってあまりゆかりのない世界観で日本人ゼロで進められる異国情緒あふれる内容は非常に惹きつけられます。
 ただ本質的にその陰鬱な世界観と相性が良さそうに見える建設途中で放棄されたメトロが、話が面白くなってきた中盤からあまり舞台にはならなくなります。一応、ラスト超能力バトルの舞台にはなっていますが表示されるゲーム画像があんまメトロっぽくなく、文章読んでても普通の建物の中で戦ってるようにしか見えませんでした。もっともそれ以前に、アクション方面の文章に関してはそれほどうまいように見えず、読んでて作中のキャラクターの動きがつかめず、何度も「LOG」ボタン押して読み返さざるを得ませんでした。近年のノベルゲーでこれほどログを読み返したのはこの作品が初めてです。

 話をシナリオに戻すと、話の核となる超能力者がそこまで特別じゃないというか、むしろありふれ過ぎている気もしました。各話に最低1人はニュー超能力者が出ますが、能力はみんなバラバラで、しかも大体その1話限りでほぼ退場してしまい、なんかどれもキャラが薄いです。また作中では超能力者が街中に溢れていることは社会で周知されており、なんか手品のうまい奴らがその辺にいるような扱いになっており、その存在がそこまで深くシナリオの展開に絡んでこないのが逆に違和感を覚えました。

 そして一番の問題は、語り部たる主人公にあると言わざるを得ません。主人公は超能力のない無能力者で、性格も若干ひねくれているため家庭にも学校にも居場所がなく、唯一気の合う親友のいるメトロに入り浸っているという割と典型的な陰キャ主人公です。話はこの主人公の目線で進められ、なんとなくどこにも居場所がなく、目にする超能力者にあこがれを抱くとともに孤独を深めるという心境を作者は描きたかったのかなという気がするのですが、見ている側からすると主人公の孤独感に一切共感できないという点がこの作品の最大の問題点です。何故そうなるのかというと、作中において主人公を否定する存在が誰一人も存在しないためです。

 やってみればわかりますが、ぶっちゃけこの主人公は全登場人物からマジ頼られるとともに深く信頼され、作中で数年ぶりに再会した相手からもその再開(作中でも「再会」ではなくこう書かれている。多分誤字)を大喜びされるほど交友関係に恵まれています。家族に関しては優秀な妹に対し苦手意識を持ち、その妹を贔屓する母親からはあまり相手にされずすねる心情が描かれていますが、妹は別の場所に住んでるということになっていて作中では登場せず、また母親もほとんど出番ないというか本当にいるのか怪しいくらいの薄い存在感なため、主人公が家庭で孤立しているという描写はほぼ全く描かれていません。

 本来なら、家庭にも学校にも居場所がなくメトロに入り浸り、自分の存在を認めてもらうためにマリヤというヒロインに縋りつくという話の構図になるのではないかと思いますが、メトロの親友をはじめ全登場人物の主人公に対する信頼感が非常に厚過ぎて、全く孤独そうには見えません。それでもなお孤独だと言い張る主人公を見ていると、大企業の社長令嬢であらゆる面で恵まれているマリヤにやや嫉妬めいた感情を持つ主人公に「お前も人間関係ではリア充やんけ」と言いつつ、「青い鳥」でも読んでみたらとアドバイスしたくなります。

 あんまりこういうケチをつけるのは良くないと思うものの、このベオチルで致命的に欠けているのは主人公を否定する存在に尽きると思います。それこそ主人公を教祖の如く全編にわたって全肯定し続けるネデルカというキャラクター辺りにどっか否定するシーンでもあれば、主人公の孤独感を自分ももう少し共感できたような気がします。
 っていうか、このネデルカが色々やらかした主人公を最後の最後まで全肯定するシーンは読んでて逆に冷めました。あそこまで行くとただのご都合展開が続くハーレム小説と取られても仕方ない。まだ親友のデジャンの反応は理解できるけど、ってかデジャンが主人公でよかったのに。

 ただケチは付けたものの、シナリオ自体は面白く、また演出となるゲーム画像も凝っているというか見ていて色々不安になる絵が多く、ゲームとしては間違いなく優れた作品だと感じます。とはいうものの同じ作者のほかのゲームと比べた場合、確実に「真昼の暗黒」や「CODA」などにベオチルは面白さの面で劣ると感じます。
 しかも「真昼の暗黒」や「CODA」は無料であるのに対し、ベオチルはさっきも書いたように高くはないけど有料です。実際自分も、「あれだけ面白い作品を作る人の有料作品なんだからどれだけ面白いんだろう(・∀・)」という高い期待感で購入しましたが、結果でいえば無料作品の方が面白かったわけです。わかっちゃいるけど、ベオチルが有料じゃなく無料だったら、多分こんなレビューも書かなかったことでしょう。有料というハードルアップが、悪い作品ではないんだけどベオチルの評価を気まずくさせたと思います。

 そういうわけなのでベオチルを勧められるかどうかでいえば、つまらなくはないけど「CODA」のが面白いよ、「CODA」ほどには期待しない方がいいよというのが本音です。

2023年7月19日水曜日

ガシャ商法は誰が発明したのか?

 最近このブログでもずっと書いていますが、「アクション対魔忍」をまだ遊んでいます。使用キャラは、

    秋山凛子→桃地凪→甲河アスカ

 という風に変遷していますが、お嬢様ルックな髪型して必殺技がミサイルや正拳突きなどとやたらとごつい設定な甲河アスカは稀有なキャラクターだなと密かに感じています。このキャラが人気出るのもなんかわかる気がします。

 それはさておきこの「アクション対魔忍」はジャンルでいえばいわゆるソーシャルゲームに属します。ソーシャルゲームの定義は恐らくいくつか分かれるものがあると思いますが、比較的幅広く許容される定義となれば以下の条件が当てはまるゲームを指すと思います。

・SNSなどウェブブラウザ上で動作する
・プレイすること自体は基本的に無料(=買い切り型ではない)
・ゲーム内のアイテムなどを有料で販売(=課金)することで売上を得る
・プレイヤー同士の交流要素(対戦、ポイント付与、アイテム交換など)が含まれている。

 以上の条件が基本ですが、これに加えるとしたらやはり主要な課金手段である「ガチャ」も、ソーシャルゲームの絶対条件に含んでもいいと思います。

 このソーシャルゲームにおける「ガチャ」とは何かですが、自分の言葉で言えば「ゲーム内で得られるポイントまたは料金を支払うことでゲーム内で使用できるアイテムなどを取得するくじを引く行為」となります。
 ちなみに中国語だと「盲盒(マンフー、見えないカプセル)」と呼びます。

 基本無料のソーシャルゲームにおいてガチャは、運営側が売上を得る主要な手段となるだけに、ゲームにおいても非常に重要な要素です。それだけに運営側としてはあの手この手でプレイヤーにガチャを引かせようとするのですが、そうした誘導が露骨過ぎればユーザー離れを引き起こすことにもなります。有名なのだと「課金へのこだわり」というパワーワードを出した「ブレスオブファイア」だと勝手に思っています。
 一方、ユーザー側としてはなるべくこのガチャで出費せずにゲームを有利に運ばせたいと思うのが心情です。こうした両者の価値観ギャップをどう埋めるのかが、運営の腕の見せ所でしょう。

 話を「アクション対魔忍」に戻すと、ソーシャルゲームらしくこのゲームでも武器やサポーターキャラがアイテムとなっていて、基本的にガチャを通して入手するようにできています。このガチャの仕組みについては漫画で今度ドラマ化する「トリリオンゲーム」でも取り上げられているのですが、如何にしてユーザーからお金を取るか、いろいろ考えられています。

 具体的には、「期間限定キャンペーン」みたいに期限を定めて通常より安く多くのアイテムを得られるキャンペーンを度々打つ。また欲しいものがなかなか取れない人のために、一定回数以上引いた人にはいいアイテムを無償で提供する。このほか、ゲーム攻略上で不足しているアイテムを優先的に取得できるように確率を操作するなど、いろいろ手口があるそうです。

 そうした前知識を持って「アクション対魔忍」を遊んでいると、上記の定石通りなガチャ商法がまさに展開されており、ユーザーにお金使ってもらうためにいろんな工夫をしているんだなと改めて感じます。

 なおソーシャルゲームは過去に「パズドラ」をやっていましたが、当時は完全無課金を通してランク200まで行きました。それ以降は一次大戦後のドイツみたく無限にインフレが続くと感じたため、スパっとやめました。今回の「アクション対魔忍」ではそこそこゲームしてて満足感もあるだけに、運営へのリターンとして1000円以下の範囲でたまに課金して遊んでいます。
 実際に課金してみて思うのは、やはり「得したなぁ」という満足感を得られるかが非常に重要だと感じました。前述のタイムセールみたく同じ特典でも時間限定にすることで満足感は跳ね上がり、また「トリリオンゲーム」でも書かれていましたが、最も障壁が高いのは最初の1回目の課金であり、そこを克服してもらうためにも大盤振る舞いなセールというのは非常に効果が高いというかこの商法において必須だと思います。

 実際自分も300円くらいの時間限定の課金オプションを見て「それくらいならいっか(´・ω・)」と課金してから、一気に心のハードルが下がり、その後もちょくちょく課金するようになりました。

 こうした経験を経て、改めてこのガチャを含むソシャゲの課金商法というビジネスモデルは奥が深いと思うとともに、ゲームの歴史においても非常に革命的な一打であったと感じるようになってきました。これがなければ今のようなソシャゲの隆盛はまずなかったと言えるだけに、一体誰が発明したのかと思い調べてみました。


 ガチャ成立過程について上の記事が非常にきれいにまとめてくれているのですが、それによるとガチャ商法を最初に打ち出したのは2007年にグリーが出した「釣り★スタ」からだったそうで、課金してアイテムを得られる仕組みだったそうです。さすが「任天堂の倒し方」を知っているだけある。
 その後、DeNAが「怪盗ロワイヤル」で「課金+対戦要素」で爆発的ヒットを飛ばすと、このビジネスモデルは一気に普及し、同時に重課金という課金し過ぎてお金が無くなる人が出るといった社会問題も出始めるようになりました。

 そこへきて、ついにガチャ商法を初めて搭載したのが2010年に出た「ドラゴンコレクション」だったそうです。ここに至り、ソシャゲのビジネスモデルはほぼ完成したと言っていいでしょう。
 ただ「ドラコレ」を含む当時のガチャには「コンプリートガチャ」と言って、「特定のレアアイテムを揃えて初めて新たなレアアイテムが取得できる」という、ユーザーに多大な出費を強いるシステムが含まれており、「ガチャ倒れ」が社会問題化する中、このコンプリートガチャについては後に行政からの指導もあって現在はほぼ禁止されています。

 とはいえ、ゲームそのものではなくゲーム内のコンテンツにお金を支払わせるというビジネスモデルは、むしろ今のゲーム業界においては主流です。買い切り型のゲームにおいても同じように追加コンテンツを別料金で販売するのも当たり前となっており、真面目に課金というビジネスモデルはゲームの歴史を変えたと言っていいでしょう。
 まぁ買い切り型のゲームの課金要素、特にアンロック形式については内心どうかと思いますが。

 そういう意味では課金、そしてガチャを発明した人はまじめに名前を残してもいいような気もするのですが、具体名はあんま世の中に出ていない気がします。世間体的なものもあるでしょうが、今後十年間はまだまだこのビジネスモデルがゲーム業界で主流であり続けるでしょう。

2023年7月17日月曜日

自分の人生に影響を与えた漫画

【人生に影響を与えた漫画・男性編】『こち亀』『スラダン』が上位に…圧倒的1位は『ONE PIECE』を抑えた世界的人気作(FLASH)

 今日たまたま上のような記事を見かけましたが、得票数がどれも非常に小さくなんかあまり真面目に調査してねぇなという感じがプンプンする記事です。それはともかくとして、これ読んで果たして自分の人生に影響を及ぼした漫画を挙げるとしたらなんだろうかと考えてみました。

1位、三国志(横山光輝)
 仮にランキングを取るとしたら、ぶっちぎりでこの「三国志」が自分の人生に影響を与えた、っていうか大きく変えた作品になってきます。これ読んで中国史にはまらなければこれほどまでに中国に係わる人生になるはずがなく、その影響度は下手すりゃ親の教育以上あるかもしれません。
 なお私と三国志の出会いは、ゴミ捨て場に捨てられていた三国志の1巻をたまたま拾って持ち帰り、読んだことがすべてのきっかけでした。まさかあれで自分の人生がこんな中国まみれになるとは全く思わなかった。

2、時の行者(横山光輝)
 小学校中学年の段階で自分は歴史に対する強い興味を持ち始めていましたが、それがはっきりと形になったのは多分、小4の頃に読んだこの「時の行者」という漫画からじゃないかと思います。この漫画がほかの漫画と一線を画していたのは、安土桃山から江戸時代にかけての事件をオムニバス形式で展開していたという点です。またその内容も本能寺の変や島原の乱など有名なものだけでなく、天一坊事件や火付け盗賊改めなどマイナーなものも入っており、特定の人物や年表形式に流れに沿って行く歴史ではなく、紀伝体のような事件単位での歴史の見方を初めて学んだような気がします。
 ちなみにJBpressで連載するに至ったのは、このブログで以前書いた火付け盗賊改めの記事をJBpress編集部が見つけたことがきっかけでした。

3、頭文字D(しげの秀一)
 大学に入ったあたりまで、自分の価値観はやはり精神的、観念的要素が非常に強く、物質的な価値観は非常に希薄だったと思います。そんなもんだから物質的豊かさなんて不要、人はいかに心を強くするかだと言わんばかりにやたら俗世的な価値観や欲望に対しやや蔑むような見方を持ってました。もしかしたら「今もそうじゃん(σ・∀・)σゲッツ!!」とか言われるかもしれませんが……。
 そうした価値観がひっくり返ったのは今思うとこの「頭文字D」からだったように思え、この作品に出会って初めて自動車に興味を持ち、また実用性皆無なのに価格が高いスポーツカーに対して名で多くの人が恋焦がれるかという感覚を初めて理解できるようになった気がします。その変貌ぶりは当時の友人からも、「花園君が車に興味を持つとは思わなかった」と言われたほどでした。
 
 またこうした車への関心を抱くことがなければ、「ものの形、デザイン」というものに興味を抱かず「価格が低ければ低いものこそ価値がある」といった価値観を維持し続け、今のように戦闘機や戦車に興味を持つこともなかったことでしょう。さらに言えば、そうした人々の物質的欲望に対する理解や感覚がなければ、その後に経済記者としてやってくこともできなかったように思えます。
 そう考えるとこの作品も三国志に負けず劣らず自分の人生をかなり左右している感じます。

4、坊ちゃんの時代―秋の舞姫(関川夏央、谷口ジロー)
 自分はこの作品を、中学生の頃に確か床屋の順番待ちの時にたまたま読みました。舞姫というか森鴎外のエピソードについては当時から把握していましたがそれ以外にはバックグラウンドがなく、なんか古臭い絵柄の漫画だなと思いながら手に取りつつ、丁寧にほぐしていくかのようなストーリー展開と、ややもするとシュール感のある谷口ジローの絵を見て変に引き込まれました。
 その後も、タイトルは思い出せないものの舞姫関連であんな漫画を読んだなとずっと覚えており、社会人になった後であの漫画は「坊ちゃんの時代」の一部だと知り、後から全部買いなおして読み直しましたが、今現在においてもこの「秋の舞姫」編が一コマ一コマ強く覚えており、無意識レベルに強く刷り込まれた作品であるような気がします。

 具他的にこの作品を読んで何かが変わったとかそういうのはないですが、元からの歴史好きと相まって、各時代の背景や価値観に対する感覚はこの作品を見て研ぎ澄まされたような気がします。割と平成時代の折々について妙に細かく当時の事件や空気感を自分は覚えていますが、もしかしたらこの作品が原因なのかもしれません。

5、水木しげる伝(水木しげる)
 ぶっちゃけ自分のバイブルというか、何度読み返したかわかりません。大学時代、1000円出すのも30分は躊躇するほどケチだった自分がこの水木しげる伝に関しては何の躊躇もなく購入しており、その後の価値観、特に幸福に関する意識には間違いなく多大な影響を及ぼしています。
 秋の舞姫同様に具体的にその後の人生に物理的な影響は及ぼしてはいませんが、割とその後の人生で結構周りにもひかれるくらいの逆境に何度か置かれつつも、くじけず、っていうか逆境になればなるほど妙な底力を発揮できたのはこうした水木しげる伝から得た価値観が源泉だったように思います。特にこの本の中にはないものの、「戦争で左腕を失ったことを惜しむ気持ちはないか」という質問に「全くない。生きて帰ってこれたのだから」という水木しげるの言葉は今も自分の心を強く打ち続けています。

 以上の五作品が自分の人生に影響したと思う漫画ですが、改めてみるとどれもかなりの影響を及ぼしているような気がします。それを踏まえて言うと、今の自分は「横山光輝が40%、しげの秀一、関川夏央(谷口ジロー)、水木しげるが20%ずつ」で構成されているということになります。だからなんだと言われたら困りますが。まぁもっと厳密に言えば水木しげるが40%で、しげの、関川は10%ずつかなという気もしますが。
 それにしても「東京ラブストーリー」じゃないけど、あの日あの時あの場所(=ゴミ捨て場)で三国志に出会わなかったら、本当にどんな人生歩んでいたんだろうかと思うくらい全く別の人生になっていたかと思います。真面目に中国語の読解に関しては若干極めつつある領域に入ってきてるし(;´・ω・)

2023年7月2日日曜日

Vガンダムとエヴァに共通したテーマ


 本題と関係ないですが上の動画見て、中国人はみんないつも映画でも撮影してんのかよと思いました。こういう突飛な映像がしょっちゅづ得てくるのが中国でしたが最近は見なくなり、久々に見ると凄く安心します。


 話は本題ですが、アニメのVガンダムに声優として出演した阪口大助氏と、カエルとおかんの声でおなじみの渡辺久美子氏の対談記事が出ていました。っていうかこの対談、主役張った坂口氏はともかくとして、ヒロインのシャクティではなくカテジナ役の渡辺氏を選ぶ辺り、企画した人は良くわかってるでしょう。

 この対談は結構裏話が多く、業界経験間もなく緊張でガチがちだった阪口氏をだましてパーマに欠けたりして、阪口氏がリアルで「おかしいですよ」とカテジナさんに言っているのが笑えました。
 ちなみに阪口氏は「アイドルマスター」の企画で出演声優の料理バトルを司会した際、合成着色料で青色に染め上げられた鶏肉も食わせられており、Vガンダムの主役のウッソといい女難な人だという気がします。

 話を戻すと、阪口氏は当時、演技指導として監督の冨野氏から鉄拳指導も受けていたと言われていましたが、この件に関しては事実ではないと否定されています。指導自体は居残りで厳しく行われたそうでしたが、殴られたりするほどではなかったそうです。ただ指導が曖昧な表現で言われるためわかりづらく、渡辺氏も対応に苦労したとも語っています。

 またVガンダムという作品について両氏とも、放映当時はピンとこなかったけど何度も見ているうちにだんだんわかってきたという風に話しているのが印象的でした。特に渡辺氏が自身が演じたカテジナについて、常にというわけではないものの、カテジナ同様にエキセントリックにおかしな行動を取ることが自分にもあることがわかってきたと話しており、これを聞いてようやくというか、この後に世に出て大ヒットしたエヴァンゲリオンとの共通テーマに気づきました。

 エヴァの監督である庵野氏はかねがね、かつて制作現場で直接指導も受けた冨野氏のこのVガンダムがエヴァの政策に大きく影響したと話していました。私はこの言葉について、世紀末的退廃的な90年代の世界観のことを言っているとこれまで思っていたのですが、今回のVガンダム対談を見て、「周囲の価値観がおかしく、自分でも気づかぬうちにどんどんおかしくなっていく」というのが、両作品に共通するテーマじゃないかと思うようになりました。

 このテーマはVガンダムの方が非常に顕著で、わずか13歳の主人公をMSの操縦がうまいという理由で、周りの大人たちがこぞって機体に乗せて戦わせようとします。主人公も周りに乗せられるままに相手の命を奪うようになり、作品が進むにつれ、殺害に対する呵責もどんどん失われていくようになっていきます。
 いわば少年兵の問題がこの作品上では一切問題視されない、それどころか大人ほど気にしない姿を見せます。それに対し「子供を戦わせるべきじゃない」と唯一否定していたのがヒロインのシャクティとカテジナさんでしたが、前者も相当ですが後者に至っては当初否定していた大人以上におかしくなり、死亡確実な作戦に部下を投入したり、だまし討ちしたりとガンダムシリーズの中でもやりたい放題を尽くすくらいの悪女となり果てます。

 なおケロロ軍曹の中で「トチ狂ってお友達にでもなりに来たでありますか?」というセリフを言ったことがあるらしいです。ケロロ軍曹もほんとやりたい放題だ。

 以上のように、Vガンダムは子供の目線で見ると頼りない大人を尻目に少年が目を見張る活躍で悪い奴らを一方的に打ちのめしていく作品ですが、大人の目で見るとみんな頭がおかしく、主人公もカテジナもそうしたおかしい価値観に染まってどんどん過激になっていくように見えてきます。

 翻ってエヴァについてはVガンダムほど露骨ではないものの、この作品も周囲の大人がおかしく、そのおかしな価値観に子供が翻弄されていく様が描かれています。わけのわからない怪物に対してロボットの操縦適性が子供しかないからという理由で子供を兵器に載せ、戦わせていくという流れです。
 当初でこそ主人公のシンジに対し周りは搭乗拒否権を認めていたというか、「できれば戦ってほしい」的な立場を取っていますが、回が進むにつれて、「乗って戦うのが当たり前」的に扱うようになり、よく突っ込まれるミサトさんなんかは「エヴァに乗るのがあんたの存在意義でしょう」的に、乗らなければカス的な見方を徐々にシンジに対しぶつけていくように見えます。これに対しシンジの方は何度か抵抗し、途中で一度ははっきりとした自分の意志で乗る姿を見せるも、結局は「抵抗しても無駄なんだ」的にあきらめて周囲のプレッシャーに潰される羽目となります。

 このシンジの姿を、子供の目線で見ると期待に応えられずうじうじした奴に見えなくもないですが、大人の目線でいえば上司や客先の圧力に潰される自分の姿のようにも見えなくもなく、「そりゃ14歳だもん、乗らなくなるよなぁ」的に妙に理解が増してきます。Vガンダムの比較で述べると、作中でもはっきり言われているように超人であるウッソはあらゆるプレッシャーを跳ね返して戦い続けるものの、常人代表のシンジは、世の中の多くがそうであるように強すぎるプレッシャーに潰れる様が描かれています。

 このように、周囲、特に大人の価値観が逸脱していて、それによって翻弄される子供もどんどん気づかぬうちにおかしくなっていくというテーマで、Vガンダムとエヴァは共通していたのかなと初めて気が付きました。なおエヴァの場合、カテジナに相当するのはシンジであり、流されておかしくなっていく点でウッソに相当するのはミサトさんな気がします。ミサトさんが私生活はともかくとして当初は常識持っていたのが、後半になるにつれて作中屈指のやばいキャラになっていく過程がなんとなくそう見えます。


 たまたまですが上記の自分の理解に通じると思うまとめ記事を見たので併記しておきます。ぶっちゃけこれ、アニメの中だけじゃなく日本の多くの中小企業や部活動に当てはまるんじゃないかな。

2023年6月28日水曜日

「ゲイシャ」が消えた!?

 先週、Steamを通して「アクション対魔忍」を遊べることを知り、プレイ開始当初はそれほどでもなかったものの、週末挟んでから徐々に本格的にはまってきて遊ぶようになっています。なお主に使っているのは「脳筋対魔忍」代表こと秋山凜子です。
 それにしてもこのゲームですが「退魔忍」と名乗ってはいるものの舞台設定が近未来SFとあって、みんな着ている衣装は忍び装束ではなくライダースーツで、このゲームのせいでライダースーツ着た女性が対魔忍と呼ばれるようになったのはなかなか因果に思います。一応、忍者設定もあるからたまに術も使うものの、基本おまけ程度なので忍者要素はかなり薄いです。元がお色気ゲームなんだから細かく突っ込むのも野暮ではありますが。

 それでも敢えて忍者を名乗るのは、やはり海外における日本の「Ninja」ブランドの力によるものだと思います。実際このアクション対魔忍は海外でもそこそこ評価されてるらしく、自分のフレンドリストにもなんかやたら中国語漢字のアカウントが多いです。みんないちいち口に出したりしないけど、日本最強のブランドはソニーでもトヨタでもなくやはり「Ninja」でしょう。
 その忍者に並ぶ日本の架空(?)の人気職業ブランドとしてもう一つ、「サムライ」があります。忍者と侍はセットでありそうで実はあんまセットで提供されない組み合わせですが、どちらも単独であってもどの国にも一定程度通じるブランド力があり、また「侍JAPAN」に代表されるように日本人の理想像としても使われるあたり、国内外を問わず強力なブランドイメージを持つ言葉だと思えます。

 なおWBC日本チームは当初から侍JAPANを名乗っていますが、最初の方は変化球で惑わしたり、盗塁で揺さぶったりなどどちらかというとNINJAPANだった気がします。ただ先のWBCでは今日も先発でホームラン二発を決めた大谷選手をはじめ圧倒的な力でねじ伏せる戦いを見せるようになり、侍JAPANの名に恥じないチームになった気がします。


 脱線しまくりですが今日出た上の記事にある、

「この日はスプリットとカットボールが冴え、100マイル近いフォーシーズンズや決め球のスイーパーも効果的に決まった」

 という記述見て、よくこんな誤字決められるなと目を丸くしました。AIにでも記事書かせてんのか?

 話は本題に戻りますが、以上の通り忍者と侍は圧倒的ブランド力を保ち続ける一方、かつてこの二つに並び称された「ゲイシャ」という言葉をここ数年、目と耳にすることが全くありませんでした。端的に言って、忍者や侍と比べると芸者はかなりフェードアウトしているような気がします。

 芸者もかつては侍や忍者同様に「東洋の神秘」として欧米をはじめに結構もてはやされていたように思え、実際に00年代であればアメリカの本屋に「Last Geisha Story」という本が割とどこでも置いてありました。しかし前述の通り近年、そもそも芸者という言葉を目にすることが日本国内でもほとんどなくなり、また海外で紹介されるような記事も見当たりません。自分がいる中国でも、忍者や侍はまだ目にする一方、芸者を目にすることは全くありません。

 一体何故、かつて高いブランド力を誇った芸者は消え去ったのか。忍者や侍と違って戦闘職じゃないなど理由はいくつかあるでしょうが、一番大きいのは漫画やアニメに一切登場しないっていうてんじゃないかと思います。

 現代の日本文化の発信とくればやはり漫画やアニメが一番波及力が強いですが、そうしたメディアで芸者が取り上げられることはほぼなく、ホストやホステスはともかく、芸者が主人公な作品なんかまず見ません。芸者という職業観もあるでしょうがそれ以前に日本国内で芸者文化自体が退潮気味であり、ニューリッチ層でも廓遊びに狂う人もそんないないように見えます。そうした日本国内での退潮が発信メディアでも現れるようになり、かつてもてはやした欧米でもだんだんと忘れられてきているのではないかと思います。

 それと比べるなら、忍者は以前として漫画やアニメの主役級キャラクターであり、侍も「ゴースト・オブ・対馬」で海外のゲームメーカーが主役として登場させる辺り、人の心に突き刺さるものがあるとともに、そのブームがうまく時代を経て引き継がれているように感じます。対魔忍も派生した忍者の一端としてこうしたブームを牽引しているのかもしれませんが、どちらかといえば芸者に属しているような気もします(´・ω・)

2023年6月26日月曜日

アニメや漫画にゆかりの場所が少ない関西

 先日、中国人の同僚から「秋くらいに日本、それも関西方面へ旅行に行こうと思うのだけれど何かアニメや漫画にゆかりの場所とかない?」と聞かれました。聞かれて自分も少し考えては見たものの、パットと思い浮かぶものはなく、「放火された京都アニメーションのスタジオ跡ならあるけど(´・ω・)」と答えたら「さすがにそれはいい(;´Д`)」と返事されました。

 この会話の後、改めてネットの検索などを駆使したり記憶を辿ってみたりしましたが、これという場所が関西地域では浮かんできませんでした。ネットでの「関西を舞台にした漫画」という検索に至っては、「ナニワ金融道」とか「ミナミの帝王」などしかヒットせず、これらの作品で聖地巡礼するファンなんているのかよと自分でツッコミを入れる始末でした。
 また自分のかすかな記憶の中では「押忍!空手部」でヤンキーたちが集会する場所として大阪城公園があること思い出しましたが、これもそもそも作品自体古いし、中国人でこのマンガ読んでる人がいたら逆にビビります。まぁ自分もそんな読み込んだ作品じゃないですが。

 そんなわけで、京都や大阪という結構独自性ある都市を抱えながら、改めて考えると関西を舞台にした漫画やアニメ作品ってほとんどないなということに初めて気が付きました。漫画におけるキャラクターとして関西人は特徴をつけやすいのか頻繁に登場するものの、登場人物全員関西人的に、関西を舞台にした作品となると実は希少ということになります。
 まぁ超関西どローカルな作品として、「じゃりんこチエ」があるけど。これも今の若い子はもうわからないだろうな。

 では漫画やアニメで舞台となりやすい地域としてはどこなのか。やはり首都でもある東京だと吉祥寺など結構ローカルな地名とかも出てくることが多いです。中でも新宿、それも歌舞伎町はホストやホステスが出てくる漫画ではメインの舞台となり、ゲーム「龍が如く」でも事細かに描写されていることもあって、初めて訪れる外国人ですら「ゲームで歩き回ってるから地図なしで歩ける」というくらいやたら認知が深い場所になっています。
 このほかだと一時期はゲームの「アキバズトリップ」、漫画の「秋葉原電脳組」(自分で書いててよく覚えているなと思う)など秋葉原を舞台にした作品も多かったですが、近年の秋葉原の零落ぶりはすさまじいだけに、なんかこの手の作品は急激に減っている気がします。ピークだったのはまさに「シュタインズ・ゲート」出たころだろう。

 このほか実際の地名やゆかりのある場所が出てくるものとして「らきすた」が埼玉県の神社を出し、ファンの聖地となって、地元もうまいこと乗っかった例もあります。ただ一部のこの手の「聖地」ではファンが大量にやってくるようになって混乱を招いたという例もあるので、クリエイターの側もモデルとした場所を敢えてぼかしたりしているのかもしれません。
 なおこの手の聖地巡礼では「スラムダンク」に出てくる湘南の踏切が中国人の中で人気ナンバーワンで、この前の映画公開を受けて今も中国人が大挙して訪れているのではないかという気がします。

 話を戻すとやはり出版業界が東京に集中していることもあって、関西を舞台にした娯楽作品というのが意外と少ないと思え、それはそれでなんかもったいないなという気がします。小説でいいなら「鴨川ホルモー」が京都を舞台にしてますが、あれはあれで正直言って面白くなかったので、もっといい作品があればという気がしてなりません。やるんだったら京都国際会館に至るやたら急な坂道でバトルするとか、進撃の巨人の如く八条以南の京都人がJR線を乗り越えて侵入してくる展開が読みたいです。

 また関西、東京以外では、「氷菓」が岐阜の山奥を舞台にしてたりしますが、特徴ある地域とかだったらこういう取り組みは前述の通り現地で混乱を招く恐れもあるものの、将来のタイアップの可能性をつなげる意味では結構ありな気がします。そうなるとやっぱり自分としてはマッドシティを出さざるを得ないというか、もし将来小説を書くことがあったら松戸を「名探偵コナン」の米花町もびっくりなくらいの犯罪都市として仕立て、東松戸の丘のあたりに邪神を封印しておくような展開にしようかなと思います。
 一応、ゲームの「学校であった怖い話」で撮影に使われた学校があり、話でもモデルとなっているのは松戸市だったりしますが、これもかなり古い作品だから今更感があると思いつつ、やっぱホラーや犯罪と松戸は相性がいいのかなとも思えてきます。

3巻から急につまらなくなった(ぼっちざろっく)

 去年の冬頃に何度もこのブログで取り上げた「ぼっちざろっく」ですが、アニメを見て興味を持ったことから原作の漫画単行本も折に触れて買うようになりました。1巻と2巻はアニメでも取り上げらえた箇所で内容はあらかじめ把握していたものの、漫画は漫画として楽しむことができ、非常に満足いく出来でした。
 そんな感じで強い期待感とともに先日も3巻を購入してみたのですが、結論から言うとびっくりするくらい面白くなく、マジで強い衝撃を受けました。一体何故3巻から急につまらないと感じたのか、自分の中で理由は割とはっきりしています。

 そのつまらなくなった理由は、セリフ量が明らか且つ異常なくらいに増大しているためです。話数が進むごとにこの傾向はどんどん増しており、3巻後半の話に至ってはほとんどのコマがセリフの吹き出しだけで余白が半分以上埋まっています。元からセリフ量の多い漫画でしたが3巻に入ってからはそれに輪をかけるようになっており、セリフの多い銀魂ですらここまでは多くないでしょう。
 そのあまりのセリフ量というか文字数の多さに加え、四コマ漫画という形式からコマが小さいため、マジで読んでて老眼でもないのに見づらいと感じます。でもってそのセリフもウィットにとんだものでもなく、あんまひねりのないしょうもない内容が多いように感じます。

 一体なんで急にセリフが増えたのかですが、作者のインタビューなどを聞いていると主人公のぼっちにあまりに注目が集まり、ほかのキャラがあまり印象に残っていないという読者の反応を見て、ほかのキャラにスポットを当てるようになったと語っていることから、恐らくこれが原因だと思います。実際、ぼっち以外のキャラに対する描写が増え、それに伴ってセリフ量も増えています。
 ただちょっと理解しがたい点として、ほかのキャラにスポットを当てながら、自分の中の印象だとむしろそれ以前よりも陰が薄くなっているような気がします。何故かというと3巻に入る辺りで、やたらと新キャラを投入するようになり、結果的に1キャラ当たりの描写がそれ以前よりも減っているからです。これは主役のぼっちにも当てはまり、ある意味彼女の奇行が作品の主軸でもあっただけに、作品全体の面白さも一気にトーンダウンしてしまったかのように感じます。

 また前述の通り吹き出しが多くなりすぎて、絵で見せる描写が減ったせいか見栄えも悪くなっているように感じます。元々、この漫画は表情の微妙な変化を見せるのがうまいなぁと感じていたのですが、そうした表情が吹き出しで見えなくなるというのは本末転倒もいいところでしょう。

 あくまで以上は私個人の感想ですが、こうしてみると漫画とかのテコ入れって難しいんだなと改めて感じます。読者の反応を受け入れて描写を変えたら逆に人気が落ちたっていう話はほかでもよく聞きますが、その反対に読者の反応を無視し続けてたら作者の自己満といわれて人気が急減するという話もよく聞きます。割合的には後者の方が高い気がしますが。

 オチらしいオチがあるわけではないですが、セリフに関しては工夫次第で同じ内容でも短くまとめることもできるので、ぼっちざろっくに関してはこの方面でもっと上達が見れたらいいなと思いつつ、4巻を買うかは若干悩み中です。

2023年4月19日水曜日

評価が大きく逆転したガンダムキャラ

 最近上海市内のマクドに行くと、ほぼ必ず「ガンダムSEED」の主題歌だった「INVOKE」が流れています。日本語歌詞のままで。
 原曲は20年以上前の曲で、尚且つ日本語歌詞なのになぜ流れるのかいろいろ不思議ですが、この作品自体が平成後期に大ヒットし、中国でもファンも多いので聞きたい人とか、わざと選曲する人がいるのかもしれません。なお「ガンダムSEED」自体は放映当時、非常に賛否両論が激しくてその後の話題になるたびに議論を呼んでいましたが、ここ数年はようやく評価が固まってきたのかそういう議論は見なくなりました。映画化についても、発表以来続報を見なくなりましたが……。

 その賛否両論ではないですが、ガンダムの最初のシリーズ放映からすでに半世紀近く経っていることもあってか、時間の経過とともに評価が変わるキャラクターも見られます。そうした評価の逆転が最も激しいキャラを敢えて上げるとしたら、「0083スターダストメモリー」の敵役であるアナベル・ガトーこそが変動幅ナンバーワンのキャラではないかと密かに見ています。

 ガトーは作品公開当時、ジオンに与する敵役ながらその理想に準じた忠義の士として非常に人気があり、主人公のコウ・ウラキが若干パッとしない(特にスパロボで)キャラであったこともあり、文字通り主役を食う人気キャラでした。
 しかし作品公開から時間が経ち、具体的には2001年のニューヨーク同時多発テロが起きたあたりから、ガトーの人気は目に見えて落ちていったように見えます。というのも当初でこそジオン本国はほろんだけれど、その理想は捨てずに残党として活動し、最後には部下の撤退を支援するため特攻したというサムライチックなキャラとして見られていましたが、同時多発テロ以降は「テロリストでしかない」といった評価へと変わっていきました。

 実際に作中のガトーの言動を追うと、ジオンの理想を掲げてはその理想のためなら何したっていいというなりふり構わぬ態度が見られ、盗んだ核弾頭をぶっ放したり、連邦に痛手を負わせるためだけにコロニーを地球に落としたりなど、巻き添え喰らって死ぬ人なんか全く眼中にない過激な行動ばかりとっています。でもってこれらの行動が彼らスペースノイドに貢献したかというと全く逆で、こうしたテロ行為を取り締まるためにティターンズが結成され、スペースノイドへの弾圧がより強まるという真逆の結果を引き起こしています。
 こうしたガトーの行動は冷静に見た場合、ただ暴れるだけ暴れて全く事態を好転させない、っていうか無関係の人を無意味に巻き込むテロリストに過ぎないという評価が、先の911テロをきっかけに広がっていきました。やはり実際のテロ行為を目の当たりにすると冷静になれるというか、「こいつやっぱおかしいじゃん(´・ω・)」とみんなはっとなって気づいてきたのかもしれません。まぁ公開当初はこうしたガトーの負の面に気づかれなかった辺り、作品上の演出は上手だったんだろうな。

 一方、ガトーの評価が急落するのに反比例してうなぎ上りに評価が高まっていったと思うのは、同じ作品に出てくるシーマ様ことシーマ・ガラハウだと思います。作中で彼女はガトー同様にジオン残党のデラーズ・フリートに合流こそするものの、連邦軍にも内通し、コロニー落とし作戦の最終局面で裏切りを果たしています。結果的にはその後、上官が死ぬきっかけを作った因縁もあり、裏切った後なら本当は味方であるはずの主人公に母艦を撃墜された挙句、本人も彼我機体性能の差に負けて討ち死にする羽目となりました。

 作中で見ると敵軍とはいえ裏工作を経て裏切りを働き、また先に書いた通り主人公の上官が死ぬきっかけを作っていることから憎らしい敵役であるものの、作中のシーマの行為は俯瞰的に見た場合、コロニー落としという無差別大虐殺を止める行為につながる重要な働きになります。むしろシーマの裏切りというか裏工作を、本人らは全くその意識はないものの、主人公らが妨害してしまっており、結果的にそれがコロニー落とし大成功につながるという結果になっています。
 なおゲームの「ギレンの野望」とかでシーマの内通を受諾し、主人公らに余計な活動をさせなければ、物の見事にコロニー落としを食い止めることができたりします。

 以上のように、近視眼的な主人公らの目線だとシーマは憎らしい敵役であるものの、こと連邦軍によるテロ活動防止という面では非常に積極的な役割を果たしています。シーマ自身は大義を以って動いているわけでなく、連邦への内通も自己保身が最大の目的ではありますが、コロニー落としというテロ活動を変に美化してみていないあたりはガトーらよりはずっとまともな神経を持っていると言えるでしょう。

 さらにシーマの場合は、裏設定で元々ジオン軍の正規軍人、しかも女性なのに開戦当初より佐官級という超エリートながら、戦時中は上官命令で毒ガス作戦など汚れ仕事を延々とやらされ、敗戦後にほかの部隊同様にアクシズへ逃亡しようとしたら向こうから拒否されたりという、かなり悲しいバックグランドを持っています。おまけに故郷へ帰ろうとしたら故郷のコロニーは兵器に改造されてもはやなく、食い詰めた部下を生かし続けるために宇宙海賊となるなど、名作劇場のヒロインばりに苦労と慈愛に満ちた生涯を送ってたりします。
 この辺の設定は元ソ連軍士官で、崩壊後に部下を養うためロシアンマフィアとなった「ブラックラグーン」のバラライカと共通する点が多いでしょう。

 以上のような、自己保身に走るのも仕方ないと思わせられる悲しい過去に加え、テロ行為に対する批判的見方の広がりに伴い、悲しい過去を背負いながら最終的にはテロリスト集団を裏切って味方に付こうとした超でかい(推定180㎝超)おばさんという評価が広がっていき、なんかシーマの人気がこの数年内でも急上昇している気がします。
 実際にそうしたシーマ人気を制作側も分かっているのか、「逆襲のシャア」の似たような中堅敵役のレズンとは違い、シーマは外伝作品とかで登場したり、ショートムービーなどでゲーム内に登場するなど、そのキャラの掘り下げが結構多い気がします。特に「ギレンの野望」のムービーで描かれた、知らないまま参加させられた毒ガス作戦直後に半狂乱となる姿には多くの人間が同情したでしょう(´;ω;`)ウッ…

 私の味方だとシーマ人気は未だに上昇カーブを描いているように見え、あと何か一押し、それこそシーマを主人公にした新作外伝漫画なんかが作られたら、一気にその人気を不動のものにするような気がします。最近萌化が激しいハマーンさん同様、シーマも萌えキャラ化するのかなと思っていたら、なんか昔のギャルゲーで「アンナ・デラーズ」という喫茶店でウェイトレスとして働く「嶋さん」ってキャラクターが既に作られていたことをつい昨日知りました。

2023年4月10日月曜日

TACTICS FAMILY FANTASIA(戦略的家族幻想)

 意味わかんない見出しですがこれはゲームのタイトルです。どんなゲーム化というと、横スクロールシューティングで、宇宙生物殺しまくって、フォースとかいう攻防一体兵器を操りながら波動砲打つゲームです。わかる人にはわかるでしょうが、本当の名称は「R-Type FINAL 2」というゲームです。

 R-Type自体はアーケードの頃から存在する三大横スクロールシューティングゲームの一つですが、ほかのグラディウスなどと同様、ゲームハードの進化とともにひっそりと消えていったゲームシリーズでした。ただ制作していたアイレムはその後もゲームを作っていたこともあり、2000年代前半に「R-Type FINAL」というシリーズ最終作をPS2で出して一旦はこのゲームシリーズは完結ましたが、アイレムから独立したグランゼーラというゲーム会社が再びこのゲームを復刻して去年出したのが「R-Type FINAL 2」でした。

 元々、アイレムのゲームは「パチンコパラダイス」や「絶体絶命都市」は遊んでいたので交換持っていたのと、R-Typeはパイロットの四肢を切り離してむりくり機体に乗せているとか、大ボスを倒して地球に戻ってきたら宇宙生物に寄生されてて、味方だった仲間たちに撃ち殺されるとかえげつない設定から興味があり、ファイナル2が出た際もSwitch版があると知り、興味を持っていました。
 そんなシューティングゲームを遊んでいるわけではないものの、このファイナル2でも前作同様に100種類くらいある機体を自由に選んで遊べるということから、そこそこ長く遊べそうだと思い、先日の40%オフセールの時に自分へのご褒美として買っちゃいました。

 実際遊んでみた感想としては「激ムズ系シューティング」の名の通りになかなか攻略できず、最低難易度でも何度も死に続けました。延々とコンティニュー繰り返して2種類のエンディングを見ることはできましたが、期待通りに多くの機体を徐々に解放しながら使えるというのは楽しく、持続波動砲とかで雑魚一掃するのはかなり快感です。
 一方で2種類目の最終面は当たったら即死な障害物と無害な背景の区別が見た目で突き辛く、かなり何度も死に続けました。あとで攻略法見たら左上が安全地帯になってるらしく、知らなければかなりストレスフルな面構成で若干不満を覚えました。とはいえ、全体としては名作シリーズの名に恥じず楽しく遊べています。やはりフォースという、防御にも攻撃にも使い分けられるオプションの存在がでかいです。

 それでこの記事の見出しについてですが、このファイナル2は1回エンディングを見ると、なんとゲームタイトルを自由に編集することができます。通常は「R-Type FINAL 2」となっているのですが、順番を入れ替えて「FINAL 2 R-Type」みたいにすることもできれば、ほかの既存単語を組み合わせて全く別のタイトルにすることもでき、作り替えたタイトルはそのままオープニング画面やエンディングのスタッフロールにも反映されます。
 いろいろいじくった結果、「FINALFANTASIA TACTICS」などと某有名PSのシミュレーションゲームタイトルに近いのも試したりしましたが、最終的に自分が行き着いたのが「TACTICS FAMILY FANTASIA」でした。ただこれ作った後、無駄に長いなとも感じたので再び「893」ってタイトルにまた変えました。

 関係ないけど会社でテンプレ文章とか作るときに適当な数字を入れる際、3桁なら「893」、4桁なら「2971(つぐない)」か「2943(にくしみ)」にしています。

2023年2月20日月曜日

松本零士の逝去について

 既に各所で報じられている通り、日本のSF漫画の文句なしな巨匠の松本零士が亡くなりました。恐らくこの影響を受けてかアニメ作品の「ザ・コックピット」について自分が以前に書いた「鉄の竜騎兵」のアクセスがわずかですが上昇していました。

 松本氏の作品について敢えて自分の方から述べると、その普遍性は本当に日本の漫画家の中でも実質的に最強と言っていいのではないかと思います。フランス大使館も弔辞を出したとのことですが、日本国内に限らず海外でも非常に高い評価を得ていますが、そうした国境方面のボーダレスもさることながら年代を超えて読み継がれる点では、あの手塚治虫以上ではないかと密かに思っています。
 実際自分も銀河鉄道999の漫画を読んだとき、それが何十年前の漫画であるという古さは一切感じられず、各話で描かれるあの独自の語り口と相まって貪るように当時読みました。またアニメ作品もヤマトをはじめ何度もリメイクされ続けていますが、SFというジャンル性もありますが、それを押してもなおいつどの時代、どの場所で読んでも全くギャップを感じないという普遍性という点で、群を抜いていると感じます。

 今回の逝去報道に関しては前々から体調が悪いと報じられていたことと、あのさいとうたかをや白土三平すらも世を去っていたことから、松本零士もとうとうかという感傷を覚えたのが素直な気持ちです。また同時に、漫画の神様こと手塚治虫と直に交流した世代が本当にほとんどいなくなり、いよいよもって日本漫画第一世代は終焉を迎えつつあることを思い知らされた気がします。

 そもそも日本の漫画は手塚治虫によって始まったと言ってもおかしくなく、ほぼすべての作家が彼の影響を多かれ少なかれ受けています。その手塚治虫が切り開いた漫画手法を松本零士らをはじめとする作家らが独自のスタイルを加える形で派生していき、さらにそこから後続の作家がつながっていく樹形図のような構造を成している考えています。日本の漫画史は戦後から始まっていることもあり、大本の手塚治虫は別格として、いわゆる草創期におけるレジェンドが平成末期から令和のこの時期において次々と寿命を迎えてきています。こうしたレジェンドたちの喪失はある意味、漫画史において最初の喪失期に当たると思われ、いわゆる第一世代に関しては徐々に一巡しつつあるようにも感じます。

 ちばてつや氏をはじめまだ存命の方もいますが、今後に関しては第二世代が大御所としての役割がさらに求められてくるかと思えます。第二世代代表は私的には永井豪氏が真っ先に浮かびますが、この世代のレジェンドたちには先輩方に負けないよう、後進らを引っ張っていってほしいと密かに願います。
 なおこの第二世代最強エースは鳥山明氏とかだと思うのですが、彼の場合はフォロワーがほぼ全く存在しないというか、ドラゴンボールの作風を受け継ぐ漫画家があまりにおらず、突然変異的な天才だと勝手に考えています。マジで誰も見当たらないのが不思議。

 話が少し脱線しましたが、松本零士の場合は鳥山明氏とは違い、明らかに彼の作風に影響を受けた漫画家が数多く存在しています。その点では本当に日本漫画界への貢献は凄まじく、改めてその死が惜しま、末筆ながら冥福をお祈りします。