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2009年12月31日木曜日

北京留学記~その三一、帰国後

 どうにかこうにかでこの北京留学記も最後の記事です。
 約一年間の留学を終えて私が日本に帰ってきたのは2006年7月15日でした。成田空港に着く前には何か感慨などがあるかと思いましたが実際に何もなく、帰国して三日目には早くも京都へ向かって新たな下宿を探しに行くなど忙しかったのを憶えています。
 その後旧知の知り会いとなどと会うと毎回の如く聞かれたのは中国における反日運動についてで、日本人もこういうところが一番期になっているのだと言う気がしました。

 留学以前と以後で自分に起こった変化といわれると、まず真っ先に思い浮かぶのは相撲を見るようになった点でしょう。留学以前は全く相撲など見ることのなかった私が今や場所のある時期はテレビにくっついて取り組みを確認し、実際に国技館にも足を運ぶほどとなってしまいました。
 そうした相撲というような趣味が広がる変化の一方、あまりよくない変化と言えるのは昼寝の習慣です。一日の過ごし方のところで触れていますが、授業が午前で終わるものだから毎日午後は昼寝をする癖がつき、現在に至っても休日は二時から三時くらいまでは昼寝をするようになっております。いくら昼寝をしても、夜も眠れるというのだからなぁ……。

 こうした点を踏まえてこの私の中国への留学を振り返ると、この時期に留学をしたということをなによりも強く感じます。ちょうど中国語の需要が高まっていく中、日本の中で中国の存在感が高まっていく中、そして北京オリンピックが行われる前のあの時期に留学を行ったと言う事は、恐らく後年になればなるほど価値が高まるような気がします。現在の所私は直接的に中国と関わる事はまだ少ないですが、これもまた今後の話となるとわからず、また中国と関わる環境に変わることがあれば、この時期に留学をしたものゆえの感覚のようなものがはっきりと出てくるのではないかと思います。

 最後に、これはあくまで私の感覚なのですが、私は今に至るまで2005ねんと2006年の区別が曖昧なところがあります。ちょうどこの二つの年に跨って留学を行ったが故というか、2006年のサッカーWカップが2005年にあった日本の事件らと時間的に一致しているとよく誤解する事があります。
 一体何故この様な感覚になったのか、結論を言えば私が中国に行った一年間という時間がそのまま日本で生まれ育って生活した時間とは独立して存在しているのが原因かと思われます。この様に考えた事がきっかけとなり、もう随分と放置している「時間の概念」の連載にて話している話題につながってくるわけです。

2009年12月28日月曜日

曹操の墓、ついに判明か!?

 さりげなく昨日から私のブログにもよくコメントをくれているサカタさんのブログ、「毘沙門道」とリンクを結びました。もしよければ私のブログ同様にご贔屓の程をよろしくお願いします。
 それにしても、「毘沙門道」の検索でちゃんと引っかかってくれたが、多分内容を誤解して入ってくる人が多そうなブログ名です。

 さてそれでは本題ですが、日本の一部のメディアでも報じられていましたが先日中国において三国志の登場人物である曹操の墓がついに見つかったというニュースが流れました。この曹操は私も前に記事で書きましたが三国志のもう一人の主人公とも言うべき人物で、日本人の間ではこちらも人気な織田信長のイメージと被るのか人気面では本来の主人公の劉備を凌いでおります。ちなみに昔光栄が出していた「ゲームパラダイス」という雑誌でのアンケートでは、趙雲、諸葛亮、曹操という人気順でした。

 それで今日、ちょっとよからぬ企みをこのところしていて中国のニュースサイトを眺めていた所、現地中国でこのニュースが大きく取り上げられているのを偶然見つけ、折角なので今日はプロフィールに偽りがないということを一つ示すために、中国語で書かれたこのニュース記事を翻訳してご紹介しようと思います。

曹操墓现安阳可能藏其遗骨

 本日取り上げるのは「上海青年報」の記事で、早速如何に記事の翻訳文を載せていきます。


  一代の梟雄、曹操の墓はどこにあるのか。
 曹操の墓の場所を巡る1700年にも渡るこの謎に対し、河南省安陽県に駐在する考古学者らがついに特定ができたと昨日発表した。

 曹操の墓とされる墓所の構造は甲字型で、西から東に向くように作られている。規模は大きく構造は複雑で、前後に部屋があるだけでなく左右にも四つ設けられている。墓を貫く坂道は長さ39.5メートル、幅9.8メートルで、最深部は地表から15メートルも距離があり、発掘隊の隊長はこれほど広大な墓所は始めてみたと語っている。
 墓所は幾度か盗掘された跡があるものの、今回いくつか重要な副葬品が発見された。出土した土器は250個あまりとなり、多種多様の素材から様々な工芸品が見つかったが、何よりも銘の刻まれた石碑と遺骨が見つかったことが今回大きな発見であった。

 出土した銘のある石碑は59枚あり、長方形をしており銘文には副葬品の名称と数量が書かれていた。そのうち八枚の石碑には「魏武王常所用格虎大戟」と書かれており、かつてこの墓より盗掘されたとされる石枕の上にも「魏武王常所用慰项石」と書かれていることから相通じる内容であった。これらの出土した碑文の文字を書くのに使われている材料はその書かれた時代や埋葬者の身分を調べる上で非常に重要となる証拠である。
 この墓所の発掘中、考古学員は頭骨や肋骨といった部分々々の人骨を発見し、鑑定の結果それらは一男二女の三体の人骨で、被埋葬者とされる男性の年齢は60歳前後とされることがわかった。

  ~曹操の墓と証明された根拠~ 
 文学作品の中で奸雄とされる曹操は、言い伝えによると自分の墓を守るためにわざわざ72体もの偽の墓を作ったとされる。では一体どうして今回見つかった墓が曹操のものだと断定されたのだろうか?

 河南省文物局の発表によると、墓所の形状や構造、副葬品の時代考証を行った所後漢末期(本文では「東漢」と記述されている)のものだということがわかり、また文献上の記載が曹操の墓とされる特徴と一致した事が決め手となったそうだ。

 主な根拠は六つあり、まず第一に墓の規模が非常に巨大で全長が60メートルもあり、墓所内の部屋の形や構造がこれまでに伝えられている曹操の魏王という身分の者の墓の形態と類似していることだ。また曹操の墓について書かれた文献の、「比較的高い場所にあり、(地表に)盛土や碑文がない」という記載と今回の墓の状況も一致する。第二に出土した土器や石碑の絵が早々の時代と一致し、第三に埋葬品に記されている記載が文献にある記載と完全に一致している。

 三国志の「魏書武帝紀」によると、曹操は建安25年(AD220年)の正月に洛陽で死去し、二月に棺によって運ばれ高い丘の上にある「西門豹の祠から西の原っぱの上」に葬られたとされている。調査資料によると当時の西門豹の祠今日の漳河大橋から南に1キロの安陽県の範囲内にあり、今回見つかった墓はこの位置からちょうど西に位置しており、1998年に見つかった大仆卿驸馬都尉の墓志にも、曹操の墓の位置が今回見つかった場疎にあるとはっきりと書かれている。

 第四に、文献にて明確に曹操は臨終の際に副葬品を必要以上に入れるなと命じたとあり、実際に今回見つかった墓にはその規模に対して副葬品はもとより墓所内の装飾も少なく、壁画もなく非常に質素なものである。兵器や石枕に刻まれている文字にはどれも、「曹操が平時に使用した」とかかれており、いくつかの装飾のきれいな宝石品のほかには曹操が日常携帯したであろうものしか見つからなかった。

 第五に、最も大きな証拠として「魏武王」という銘文のある石碑と石枕があり、被埋葬者がその爵位を持った曹操である事を証明している。曹操は始めに「魏公」という爵位を持ち、その後「魏王」と変え、死後に「武王」と諡され、実子の曹丕によって「武皇帝」という諡号が与えられたため、史書には「魏武帝」と書かれている。出土した石碑にも石枕にもこの「魏武王」と書かれてある。

 第六に、墓所内の部屋で見つかった男性の遺骨が60歳前後のものだと鑑定され、曹操が66歳で死去したと言う事実に一致する。

  ~発見の意義~
 今回の発見は魏の歴史研究に大きな一ページを与える事となるだろう。記者会見の現場ではその重要な意義について重ねて専門家らからそう主張された。

「今回の大発見は文献上にある高い陸の上にあるといわれた曹操の墓の位置、彼の諡号、その他諸々の墓所の状況や副葬品の文献の記載との一致から信頼に足るものである。千年以上もこの謎に対して議論が交わされて、様々な間違った意見や曲解が作られていた」

 ある専門家は今回の発見が様々な議論を解決する鍵となり、発掘品の年代の基準など曹操や周辺の魏史の研究に大きな貢献になるだろうと述べている。

  ~発掘隊隊長インタビュー~
 曹操の墓が発見されたと報じられるや、弊社記者は発掘隊の隊長である河南省考古学研究書副研究員の藩偉斌氏にインタビューを行った。すでに様々なメディアから取材を受けていながらも藩氏は興奮しつつ、以下のように語った。

「曹操が後の時代に与えた影響は非常に大きく、72体もの偽の墓所の伝説など、今回の発見は非常に価値があるだろう。我々の発見は専念の謎を解いたわけなのだから、その影響も非常に大きい!」

 藩氏は今回の発見を振り返って、当初は曹操の墓を発見する事になるとは思いもしなかったと述べた。06年にある人物からこの墓に盗掘が行われていると告発し、その後現地の公安が盗まれた発掘品の鑑定を藩氏らに依頼したところこの付近の発掘品が後漢時代のものだとわかり、発掘の必要性がある重要な墓だと言う事がわかった。

「発掘の開始前にこの付近は数え切れないほど盗掘がなされていたので、私はもとよりこの墓が曹操の墓だとは夢にも思いませんでした」

  ~曹操の墓は質素だった?~
 曹操の副葬品はどのような感じだったのか? 同時代の貴族の墓と比べると質素なのか?

 藩氏の解説によると、曹操は生前一貫として葬儀等は質素に行うべきだと主張していたのだが、というのも曹操自身が若い頃に盗掘をやらかしており、その目で数多くの墓が盗掘によって荒らされていくのを見ていたためと、生前からも節約の重要性を訴えていたことかが原因ではないかとされる。

「当時の長年に渡る戦乱の歴史から社会全体で生活水準は下がり、そのような環境から曹操は副葬品を質素にするべきだと提唱したのでしょう。実際に曹操は非常に節約家で十年間も同じ布団を使い続け、その臨終の際も粗末な服を二重に着ていたそうです。
 この様に副葬品が質素ではあるものの、同時代の蜀や呉の帝王や貴族のように副葬品をを石で代替していたのとは違ってきちんと宝石を使っております。その一方、曹操の副葬品は同時代の墓と比べて陶器は非常に少なく、作りも荒いものです」

  ~72体の偽の墓の伝説は?~
 1700年もの時間が経ってようやく曹操の墓は今回見つかったが、72体の偽の墓の伝説は一体どこから来たのか。藩氏が言うには、これは完全な根も葉もない伝説だったそうです。

「これは時代背景が大きく影響しており、曹操の墓が地表に何の目印もなかったことから唐時代以後に完全に位置がわからなくなってしまいました。その後の宋の時代に尊王思想が強まり、当時の文人から「お上をないがしろにした者」として曹操は奸臣だと批判されるようになり、その後小賢しい曹操は河北に72体もの偽の墓を作ったと信じられるようになっていったのです。
 しかし清時代の末期に数多くの墓が盗掘に遭った所、偽の墓とされていた墓所からは東魏や北斉期のものだとわかり、現中国が成立後、我々考古学者は改めて発掘と研究を進め、今回ようやく曹操の墓だと証明する事が出来ました」


 以上が記事の翻訳文です。すぐ終わるだろうと思っていたら想像していた以上に文量が多く、書いているうちに結構焦りました。荒い訳ではありますが、一度も辞書を開かずに翻訳できたのだからまぁ自分としても及第点といった所でしょうか。
 それにしても、中国語って見かけには少ない文量でも、全部漢字だから日本語に翻訳すると増えるわかめのようにどんどんと大きくなるのには困り者です。

2009年12月27日日曜日

北京留学記~その三十、南方旅行三日目

 この南方旅行も三日目、最終日の記事となりました。

 前日に簡易宿泊所に泊まっており、朝八時の便で上海に向かう事となっていたために起きるとともにすぐに部屋を出ました。床には昨夜同様にびっしりと宿泊者が雑魚寝しており、そろりそろりとよけて出口へ向かう途中、ソファーの上で寝ていた宿泊所の経営者らしき男性が私の気配に目を覚ましたので、「もう出発なんだ」と小さな声で伝えると、向こうも軽く会釈で返してきました。

 早朝の南京は日本と同じく非常に静かで、駅構内も昼間の喧騒はどこ行ったのかと思うくらいに閑静なものでした。あまりにも閑静すぎて、朝食を買おうと思っていた売店すらも開いてないし……。さりげなく書き進めていますが、この旅行中に口に入れたものは本当に少なかったです。

 そのまま朝食を抜いてプラットフォームで待って時間通りの列車に乗り込み、予約していた座席もなにも問題なく座れて移動においてスムーズに事は運びました。以前にイギリスでロンドンからウェストミンスターへ行った時は予告なしで何度も乗り換えさせられた挙句に道に迷い、死ぬ思いでたどり着いたのと比べると全然マシでした。
 列車の中では日本の新幹線よろしく売り子があれこれ持ってきて車両を移動していたので、カットフルーツを買ってそれを食べましたが、この後にお腹を下すのですがもしかしたらこの時の果物がよくなかったのかもしれません。

 そんな南京から上海までの列車での移動時間は確か三時間程度だったと思います。その間、それこそ日本の新幹線のような座席の上で座りながら外の風景を眺めていたのですが、席を立ってトイレに行く途中、デッキの壁に貼り付けられた紙に、

「文明人は唾を吐かない」

 と、中国語で書かれていました。書かなきゃだめなのか?

 少し話が脱線しますが、日本人からするとちょっと驚いてしまう妙な注意書きは中国ではあちこちに貼られております。有名どころだと天安門前の故宮入場チケット売り場には、「文明人なら行列にちゃんと並べ」と貼ってあるように、何かと「文明人」という言葉が注意に多用されております。

 これら注意書きの表記は決して中国人が文明人ではないというわけではなく、私は民族性の違いだと考えております。私が思うに中国人は何か相手の行動を制限する際、自分たちのプライドが高いことをわかって相手のプライドに訴えかける傾向がある気がします。それに対して日本人は自分達の空気を読む力を逆手にとって、相手の共感に訴えかける傾向があり、「みんな見ているぞ、ごみの不法投棄」といった注意書きや、母親が子供に注意する際に、「こんなことされると、お母さん悲しいよ」と言うのにつながってくるかと思います。

 話は旅行の話に戻り、短い列車の旅を終えて上海駅に着くと、まずビックリしたのが人の多さでした。駅のチケット売り場ともなるとそれこそ人でごった返すという光景そのもので、人ごみを掻き分けどうにか帰りの北京行きの夜行列車のチケットを購入すると、その日半日の上海観光に乗り出しました。

 まず最初に上海限らずどこにもあるチェーン店の「永和大王」というファーストフード店で昼食を取り、その後地下鉄にて上海博物館を見に行きました。その際に利用した地下鉄ですが、こちらは当時出来たばかりということで北京の地下鉄と比べると断然に綺麗でおしゃれな列車で、しかも北京は手で千切る昔からの切符に対して上海では日本同様に磁気切符による自動改札となっており、日本では珍しくないものの何故かこの時の私は興奮してしまいました。

 そうして地下鉄を乗り継ぎ上海博物館へと訪れましたが、まずここで驚いたのは自分に学生割引が適用された事でした。私は留学前にISICという国際学生証を作って持ってきていたのですが、北京の故宮では本科の学生は入場料が割引されるのに対し、この国際学生証を見せても何の役にも立たず結局正規料金を払うこととなったのですが、上海ではいい意味で外国人慣れしているのか、この国際学生証で入場料を割引してもらいました。
 それで肝心の博物館の中身ですが、まぁ好みに寄るとは思いますけど、ね。

 そんなわけで早々に博物館を出ると、次に上海で一番の繁華街と言われる南京路へと向かってみました。着いて早々これまたまず驚いたのが、左右に立ち並ぶ数多くの外資系外食チェーンの山でした。北京にも吉野家やイトーヨーカドーはありましたが、はっきりいってこちらも比べ物にならないほど日本に限らず数多くの外資系チェーンが軒を連ねており、さらに驚かされたのがそれらの店の中の値札でした。

「値札が四桁?(;゚Д゚)」

 四桁、つまり1000元(約15000円)以上の商品が普通に店舗内に溢れているのにまず面食らいました。北京でも高級品を扱う店なら珍しくはありませんが、上海では本当にそこらへんにあるようなブティックでこんな値段の商品があるというのだから、正直目を疑いました。なお私は北京で400元(6000円)のコートにも高いと憤慨したほどです。

 こうした中国国内の格差に驚きつつ、再び人でごった返す南京駅に戻って帰りの列車を待つ事にしたのですが、ここでもまた失敗をやらかしてしまい、駅の中にある売店にはサンドイッチくらいはあるだろうと踏んでいたところ、売店はあったもののそこにはちゃんとした食べ物がまたしても売っていませんでした。しかもすでにチケットを切って校内に入っているからもう外には出られず、泣く泣くカップケーキを一つ買って、それを夕食だと思い込みながら食べて列車に乗り込みました。前日の南京といいこの日といい、両日とも昼食を一家いつずつしか取らないイスラム教徒もビックリな粗食っぷりでした。

 その後乗り込んだ帰りの列車では前回にも取り上げた青島のサラリーマンと同乗することになり、彼からあれこれ情報を得るが出来ました。なおその時に得た情報の補足になりますが、その青島のサラリーマンに、現在中国で一番羽振りのいい業種は何かと聞いたところ下記のような答えが返って来ました。

「北京の中関村は知っているだろう。あそこで働いているやつらだ」

 中関村というのは中国の秋葉原と言っていい北京における最大の電気街で、要するにIT関係の業種が一番羽振りがいいと教えてくれました。すでにこの証言から四年近く経っておりますが、大勢では大きく代わりがないと今も考えております。これまた前回に取り上げている、私と接したNECの社員などはいわゆる勝ち組なのでしょう。

 こんな具合で合計一泊四日の旅は北京に朝早くに戻ることで終わりましたが、今考えても無理しすぎであったと思います。唯一まだまともな判断だったのは行きと帰りの列車に、一等客室の「軟臥」を選んだことだと思います。それにしてもいくらまだ中国語に自信がなかったとはいえ、旅行の間に取った食事はたった二回の昼食だけだったというのも情けない話です。
 ちょうどこの旅行は留学開始から半年後に行ったのですが、私の中国語もこの後から急激に前進が見られてきたので、もうすこし時期を待ってから行っていれば又違っていたように思えます。まぁだからこそ、こんな変な旅行記が書けるのですが。

2009年12月26日土曜日

北京留学記~その二九、南方旅行二日目

 前日の夜行列車は朝早くに南京に到着し、乗っていた私も無事に列車を降りる事が出来ました。時間は確か朝の六時とかなりの早朝で、それほどおなかはすいていなかったので自販機でコーラだけ買って朝食代わりに飲みました。
 この南京へは南京大虐殺の記念館を見る以外はこれといってあらかじめ見に行く目的物はなかったのですが、北京にて購入していた旅行ガイドブックを参考にしながらまずは辛亥革命の立役者である孫文の眠る山へと訪れる事にしました。ちなみにこの孫文は中国では「孫中山」とよく呼ばれているのですが、この中山という名前は彼が日本にて活動していた際に使っていた偽名の「中山悟」から取られております。恐らく、日本人も中国人もあまり知らないと思う由来でしょうが。

 それで早速その孫文の眠る山へと向かおうとしたのですが、地図で見るとそれほどでもない距離に見えたので歩いていこうと思ったのが運の尽き、やけに距離があった上に近くの天文観測所のある山を間違えて登ってしまうなどとんでもなく回り道をしてしまいました。あとくだらない事ですが、この道すがらなぜか道路の上に壊れたマネキンが捨てられていて妙に怖かったのを憶えています。
 また先ほど山に登ったと書きましたが、中国は日本と違って内陸部ならまだしも海岸部の都市の山はどれも低く、日本で言えば丘程度の高さです。それでも疲れる事は疲れますが。

 そんな風にして最終的には孫文の墓があると言う目的の山の前まで来たものの、すでに10キロ近くを朝っぱらから歩いていて疲れてしまい、もうどうでもいい気になって結局そっちは登らずに通り過ぎて、そこでタクシーを拾って次の目的地の「太平天国博物館」へ向かうことにしました。最初にケチるからこうなるんだろうな。

 その次の目的地の「太平天国博物館」ですが、これは太平天国の乱という、19世紀の中国で起こった反乱の歴史についていろいろとまとめた博物館です。そもそもの太平天国の乱はというのは日本史で言えば黒船来航に匹敵する中国近代史の始まりとされる事件で、後の清朝崩壊の最初のきっかけであったと現在評価されております。事件の内容はキリスト教主義を掲げる拝上帝会(=太平天国)の洪秀全が起こした反乱で、一時は南京を含む南方の主要都市を制圧したもののその後は内部分裂を起こして清朝に制圧されたという事件のことです。なおこの鎮圧には義勇軍らが活躍し、その義勇軍を率いた者の中には下関条約締結時の清朝代表を務めた李鴻章がおります。あと現在「LIAR GAME」が売れている漫画家の甲斐谷忍氏は過去にこの事件を題材に取った「太平天国演義」という漫画を描いていますが、こちらは途中で雑誌が廃刊して未完のままです。

 話は戻ってその博物館ですが、恐らく当時の屋敷跡を使っているのか非常に趣のある建物で、中庭など今でもその情景をよく覚えております。展示物も中国語と英語の説明書きとともに程よく揃っており、もしこれから南京に訪れる予定がある方にはぜひともお勧めのスポットです。
 細かいことについてはこれ以上特段記す事は少ないのですが、太平天国の乱の終結時を説明しているパネルにて当時の知識人たちの太平天国に対する見方という欄が用意されており、そこで孫文が語った内容として以下のように記されていました。

「彼らは理想に邁進している時は一致団結して事に当たっていたが、いざ理想が現実と化して来るとそれぞれが欲を出し、持分を奪い合ったことがその身を滅ぼすこととなった」

 なかなか含蓄に深い内容に思えてわざわざメモを取っていたわけなのですが、実際に組織というのは目標や理想が遥か彼方にあるときは夢に燃えていられるが、夢が現実に近づくと内部抗争が始まったりする事は少なくない。日本史だと信長亡き後の織田家がこの例に当てはまるが、中国史だと本当にこういうのばっかでいちいち例を挙げてられない。

 その後、博物館近くの食堂にて昼食を取り、メインイベントとなる南京大虐殺の記念館へ向かってタクシーに乗り込みました。着いてみてから気がつきましたが、この博物館がある場所は中心部から大分はずれておりあたり一体は全部更地で、なんとなくウェスタンな気分にさせられました。

 そんなこんなしながら入り口へと行ってみるとなんと入場はタダでした。言っては悪いですが、こういうことは中国では珍しいです。
 それでこの施設ですが、当初私は南京大虐殺の博物館のような場所を想像していたのですが、実際には博物館と言うよりは慰霊所であり、風の吹き抜ける広々とした場所にデザインの凝った建築物がいくつか点在しておりました。そうした建築物の中の一つに人骨の発掘現場の上にガラスをそのまま張ったものがあり、生前にどのように殺されたのか人骨ごとに事細かに説明書きがありました。またこの記念館にこれまでやってきた要人の写真も一覧にされて展示されており、その中には日本の旧社会党の議員らも入っていました。まぁ行くのは勝手ですけど。

 そんな記念館を後にすると私はまたタクシーに乗って、南京駅へと一旦戻りました。この南京市に限らず中国は街自体がとてつもなく広くて観光地が同じ都市の中でもえらく離れている事は珍しくありません。日本の京都なんかは狭い場所にいくつも観光地が密集していて非常に周りやすくていいのですが、中国を旅行する上でこういった点はあらかじめ留意しておく必要があるでしょう。

 南京駅に戻った私はその日は早めに宿を取ってから夕食にして、次の日早朝にすでに上海行きの切符を取っていたので早くに休もうと考えて、宿を探す事にしました。それで早速駅前にある中国の郵便局が一緒に経営しているような簡易宿泊所に行って部屋は空いているかと聞いたところ、私の不自然な発音に相手がすぐに反応して外国人は泊まれないよと先に断ってきました。私と大学寮にて相部屋だったドゥーフェイもかつてスケート場に入ろうとした所を外国人故に断られたといっており、事があり、レイシズム(=民族主義は最低の思想だとお互いに非難しあった事がありましたが、ひょんなことからこの時自分も経験する事になりました。

 最初に入った宿で断られてとぼとぼと外に出てみると、宿を探しているのかと呼び込みのおばさんにいきなりつかまえられました。値段を聞いてみると一人一泊40元とのことで、せっかくの機会だから最低レベルの宿泊所を体験したいと考えていたのもあり、渡りに船と思いおばさんに言われるまま止められていた車に乗り込んで、本音ではあまり望ましくなかったものの駅前から少し離れた宿泊所へと向かいました。

 その宿泊所は表向きは悪くなさそうな感じで、入ってみるや私と一緒についてきたおばさんが、「100元払えばすごくいい部屋になるんだけど」と、多少は覚悟していた足元を見た売込みががやはり来た。だがそれでも私は40元でと押し、そしたら今度は60元だとまた違うなどとしつこく食い下がられて結局その60元の部屋を取ることに決めました。

 恐らくここがこの旅行の一番のハイライトなのですが、その案内された60元の部屋は暖房つきという触れ込みだったものの、暖房は確かにあるのですが窓枠が壊れてて、どんなに頑張ってもきちんと窓が閉まらなくて寒風が常に吹き荒ぶ部屋でした。時期も一月、中国南方といえども気温は昼間で摂氏一度前後。しかもよく調べてみると備えつきのシャワー、トイレはえらく汚く、なおかつトイレは水を流そうとしても流れない。

 これも一つの経験だなどと無理に自分を言い聞かせて夕食まで少し仮眠をとろうと布団に入ったのですが……どれだけ布団にいても無限に体温が奪われる一方でした。まだ中国語が不慣れながらもさすがに言うべきことは言おうとフロントへと文句を行った所、フロントの女性が私と一緒にその部屋へ来て何を言うかと思ったら、「窓は閉まらなくとも暖房があるじゃないか」と言ってきました。こっちが何度も暖房があっても窓が閉まらなければ意味がないだろうと反論するも従業員はうっとうしそうに聞くだけで、しつこく私が食い下がっているとそれなら部屋を変えてやると言い、新たに地下の部屋へを案内しました。

 確かに地下なら窓もないだろうし、この部屋ほど寒くはないだろうという安直な気持ちを持って案内された部屋に入ったのですが、窓は確かになかったものの今度は暖房が全く動きませんでした。何度も書きますがこの時は一月、いくら寒さに強い私でもこれではたまったものではありません。それでも暖房が動かないくらいならまだ我慢したでしょうが、この上に部屋中があまりにもかび臭く、ちょっと長くはいられそうにない部屋でした。
 あくまで私の推測ですが、あの部屋は掃除もほとんどされてなかったのだとおもいます。とにもかくにもひどいカビ臭さの上にシャワーは先ほどの部屋同様にまたえらく汚く、布団も真冬だというのにまたよく湿っていました。

 さすがに二部屋連続でこの様な部屋に案内されたことによって堪忍袋の緒が切れ、それまでの気後れがどこ吹く風か怒涛の勢いを以ってフロントへと押しかけました。
 ここで一つ中国語を話す人間に対するよくある誤解を説明しますが、中国は言うまでもなくとてつもなく広い国で方言も果てしなく分派しており、一言に中国語を話せると言っても北京語、広東語、あとベースは北京語だけどそれでも北京語とはちょっと違う中国での標準語、いわゆる普通話のどれか一つが話せるというのが普通です。ちなみに私は普通話しか話せません。

 普通話しか話せず、それすれもまだ不十分な人間が訛りの強い南方に行くもんですからはっきり行って簡単な会話ですらなかなかうまく伝わりません。本当にこの時は北京では通用するのにと何度も思ったほどです。しかも頭にきていてただでさえ下手な中国語がやけに早口になるのでフロントの従業員は私の訴えがよく聞き取れず、この時はお互いに激しく一方的な言い合いを続けました。

 あれこれ言い合ってもなかなか話がつかない状態に痺れを切らした宿泊所の従業員は、恐らく支配人らしき英語がやや使える中年の女性を連れてきて、私に対して英語で話かけてきました。対する私も英語に切り替えて先ほどまで説明していた内容を改めて説明するとその女性は、「100元の部屋なら絶対に大丈夫だから」などと、料金を上乗せしてグレードの高い部屋へ移ることを提案してきましたが、変な部屋に連続で案内された上さらにに料金を上乗せしろと言われて私はまたヒートアップし、「I can't trust you!」と英語で言った後にさらに中国語で、「我不能相信你们!」をひたすら連呼し、払った宿代は要らないから押金(=宿泊する前に払う保障費。部屋を出る際に客へと返されるもので、この時は40元取られていた)だけ早く返せと、いつもこれくらいの度胸があれば怖いものなんてないのにというくらいの剣幕で迫り、向こうも最後はしぶしぶ40元の返還に応じました。もっとも、宿代の60元は結局空払いになりましたが。

 そんなやり取りを経て無駄金を使って宿を出ると、私は再び南京駅まで歩いて戻りました。距離にして約一キロ半でしたが、朝からの強行軍がたたって足がひどく痛み出し、一歩一歩が非常に重たかったです。
 そうしてこの日三回目の南京駅へと着くと、待っていたかのように再び新たなキャッチに捕まった。今度はじいさんのキャッチでしがまた40元の部屋があるというのでとりあえず見せてみろとついていってみると、今度は車で移動するという事もなく希望通りに南京駅から本当に近いところへと案内されました。ただ一つ気になったのは、どっからどう見てもそこは2LDKくらいのアパートの一室にしか見えなかったことです。

 中に入ってみるとまた格別というか、普通のアパートの部屋の中に板を立てることで細かく区切って客室を作っており、なんというか子供が作る秘密基地のような光景でした。ただ室内自体は決して悪くなく、もうすでに相当疲労していたので、そのままそこに宿をとることにしました。それで早速宿帳に記名をして料金を払おうとすると、宿の人間が自分が日本人だとわかるや外国人なら暖かいところがいいだろうと暖房のある部屋をわざわざあてがってくれました。

 案内された部屋は先ほども言った通りに板で区切っただけの部屋で広さは大体二畳程度。暖房はすぐ近くに設置されてあるへやなのですが、恐らく暖房の熱気を分けるために部屋を区切る板は天井にまで届いておらず、やや不満点を挙げると後から来た客の喧騒がすこしうるさかったです。
 しかしベッドの布団はきちんとしていて暖かく、なおかつ暖房もよく効いているので決して寝心地は悪くありませんでした。

 結局すでに大分疲れていたのでそのままその日は夕食もとらずにそのまま布団に入って寝ようとしたのですが、足の疲労から来る痛みが激しく、眠れないまま一晩中その痛みにさい悩まされたのが実情でした。おまけに先ほど行ったように防音性の低い板壁のため、後から来た客にうとうとしていたところを何度起こされたことか。それでも暖かいだけでも全然ありがたかったですが。

 そんな風にして悶々と夜を迎え、痛みを我慢しているうちにいつしか私も眠っていたのですが、夜中にトイレに行きたくなって一人目を覚ましてしまいトイレへ行こうと部屋を出たところ、ちょっと面食らう光景がそこにありました。その光景と言うのも文字通り、足の踏み場もないほど床に人間が転がって寝ていたという光景です。
 恐らくあの時に床で寝ていた人は地方から出てきた出稼ぎ労働者たちだったと思います。昼間は外で働き夜は値段の安いこの宿泊所に寝るという生活をしている人たちだと思うのですが、それこそ寝転ぶ隙間もないくらい狭い空間にびっしりと、しかも薄そうな布団を巻きつけて寝ていました。

 そんな光景に驚きつつ少ない足場を渡りトイレへ行き用を済ませて出てくると、物音に気がついた何人かが私に視線を向けてきた。彼らは私の顔を見てちょっと不思議そうな表情をするてまた目をつぶり、相手が目をつぶるのを見て私もまた部屋へと戻りました。

 当初でこそ私は部屋は暖かいけど外の音がうるさいことを不満に感じましたが、自分があてがわれた部屋は形ながら個人用の部屋で、この部屋をあてがってくれた宿の人間に改めて感謝の気持ちを覚えました。その一方でこうして雑魚寝をしながら日々働く中国人らを見たことで、わずかではありますが中国の社会を垣間見ることができたように覚えました。

2009年12月25日金曜日

北京留学記~その二八、南方旅行一日目

 北京語言大学では日本の大学同様に期末試験があり、冬季のテストは当時の手帳を見てみると一月六日に終わっています。この冬季テストの終了日こそ、私の中国南方への旅行の出発日でした。

 中国は旧正月に当たる一月後半から二月初旬が最大の旅行シーズンで、世界最大の人口は伊達じゃなく、この時期は鉄道各社が特別ダイヤを組むなど各交通機関は混雑でごった返すのですが、一月の初旬から中旬であればちょうどその直前であり、嵐の前の静けさというか比較的思い通りに旅行できるそうです。そういう話を前もってクラスの先生から聞いていたため、一つ自分の中国語の腕試しを兼ねて旅行に出かけることにしました。
 旅行計画は中国の南方ということで、まずは南京に向かってその帰りに上海に寄り、そのまま北京へ戻るというルートで、移動手段には関口宏も乗りまわっていた中国では最もポピュラーな鉄道にて周る事にしました。

 ここで中国の鉄道について説明しますが、中国では都市内を走る地下鉄こと「地鉄」、電車こと「電車」(まんまか)、そして都市と都市を結ぶ列車こと「火車」があります。火車は現在恐らく電車だろうと思いますけど、まだ石炭使っていると列車もあるのかな。
 それでこの火車ですが、以前は外国人料金といって外国人には割高な料金設定がされていたそうですが現在はそんなこともなく誰でも乗ることが出来、また座席等は完全予約制となっております。切符の購入は駅外の旅行社みたいなところでも買うことが出来ますが、駅内で買うとなると通常の窓口に行かねばならず、大抵どこの駅も人でごった返しているので私はこちらはあまりお勧めできません。

 それで肝心の料金ですが、恐らく他の中国情報系サイトでも詳しく説明されているでしょうが、大まかに言って座席には四種類あり、安いものから順に、「硬座」、「軟座」、「硬臥」、「軟臥」です。読んで字の如く、「硬」と「軟」はそれぞれ二等、一等を表しており、「座」と「臥」は座席か寝台かの違いです。

 最初に南京へ行く際は多少ケチりたいものの比較的値段が手ごろということもあり、初めての列車旅行なので私は「硬臥」で夜行列車の予約を取りました。そして出発日当日は夜七時ごろに大学寮を出て北京駅へと向かい、駅構内で旅行地図を購入して列車の乗車時間を待ちました。

 乗車後に私の予約した部屋に行くとそこではベッドが四つあり、私以外にも中国人の乗客が乗っておりました。この時は別に話す事もなくとっとと布団に入って次の日からの旅行に備える事にしましたが、結果論敵にはやわな旅行ではありませんでした。全部私の無計画によるものなのですが……。

2009年12月23日水曜日

北京留学記~その二七、学生寮でのデマ事件

 事の始まりは一枚の貼り紙からでした。私が最初に入った学生寮が補修されるということで新しい寮に引っ越してから確か二週間ほど経った頃でしたが、いつものように授業を終えて寮に帰ってくるとエレベーターの前に一枚の貼り紙が張られており、中国語にて下記のような内容が書かれていました

「このごろ季節が変わりめっきり寒くなってきました。留学生の皆さんは戸締りに気をつけて、窓の鍵は外出時はもちろん在宅時も必ずしめておいてください」

 何だこの論理の破綻した文章は(゚д゚`)!?
 読んだ直後の私の感想はまさにこんな感じで、どうして気候と戸締りが関係するのか、またそれも貼り紙で貼って告知する程のものなのか腑に落ちませんでした。

 そんな貼り紙が貼られて数日後、私の日本人留学生仲間からこの件で妙な情報を得ました。その留学生仲間がやや要領を得ない語り口で言うには、なんでも私達が移った新しい寮の中で事件があり、その事件というのも寮の二階に住む日本人女子学生の部屋に窓から泥棒が侵入し、女子学生を殴りつけて強姦に及ぼうとしたものの抵抗に遭い、注射器を取り出して女子学生に麻薬を打とうするも失敗し、また女子学生を殴りつけて物を盗って逃げていったそうです。そんな事件が起きた為に、事件の事は隠さなければならないが防犯を強化させねばならずあの妙な貼り紙ができたというわけです。

 この留学仲間の話を聞いた直後の私の感想はまたも、

(゚д゚`)!?

 ってな感じでした。まず読んでもらえばわかりますが泥棒の行動が明らかに妙です。泥棒目的なのか強姦目的なのか、麻薬を打とうとする点に至っては支離滅裂です。そんなわけで初めて聞いた時からこの話を疑わしく思い、その留学仲間に情報源などを詳しく聞くとその留学仲間もクラスの別の日本人留学生から話を聞いたそうで、じゃあその日本人はどこから情報を仕入れたのかと聞くとまた別の日本人からという感じで延々と続いていき、最終的にはみんなインターネットに行き着くことがわかりました。

 ではその情報源のインターネットサイトはどこになるのか調べてみた所、もしかしたら複数あったのかもしれませんがそれらしいものが一つあり、その場所というのも当時北京語言大学でも大流行りだったmixiの語言大学のコミュニティでした。そのコミュニティの掲示板には先ほど書いたような泥棒の行動がそっくりそのまま書いており、末尾にて語言大学はこの事件を隠そうとしているからあんな貼り紙になったのだと締めくくられていました。

 結論から言えば、この書き込みはデマだった可能性が非常に高いです。
 当時に私が行った詳しい検証を一つ一つ説明すると、まず私が尋ね回ったことでわかった大きな事実として、この泥棒が入ったという情報が日本人の間でしか共有されていませんでした。日本人以外となると同じ寮の学生でも誰もこの話を知らない一方、日本人学生であれば他の寮に住んでいる者でもこの話を知っており、情報源とされる先ほどの掲示板の書き込みが日本語であることを考えるとさもありなんです。

 そして次に、情報源がみんなインターネットに行き着く割には誰も事件の当事者である、泥棒に暴行されたという女子学生が誰なのかを知りませんでした。一体その女子学生がどんな子で、どのクラスに居て、知り合いは誰で、事件後はどうなったのかとなるとみんな誰も知らず、海外での日本人学生の狭いコミュニティを考えると誰もこの点について答えられないというのはありえないでしょう。

 そして極め付けが掲示板に書かれた泥棒の辻褄の合わない行動です。一体何が目的なのかわからないのはもとより、それだけいろんなことをしながら女子学生が悲鳴を上げてそれに誰も気がつかなかったというのも不自然です。普通殴られたりもすればテレンス・リーじゃないんだから誰だって悲鳴の一つは上げるのが普通で、学生寮であれば悲鳴が聞こえようものなら隣室の学生などが必ず気づくはずです。

 実際に当時私が住んでいたこの寮はそれほど防音性が良かった訳でなく、隣室の学生が大騒ぎをしようものなら騒音が気になるくらい聞こえ、またこのデマが広がる以前にも寮の四階の部屋に済む日本人女子学生が泥酔して帰ってきて、叫び声を挙げたり辺りの壁を叩いたりするものだから私の留学仲間に寮の人間が助けを求めてその女子学生を抑えて部屋に入れたことがあったのですが、その留学仲間は七階の部屋に居ながらもその女子学生の叫び声が聞こえたそうです。

 では本当は何があったのかというと、先にも言ったように泥棒が入ったというのは本当だったと思います。というのもその後すぐに比較的進入しやすい二階(一階はロビーのみで部屋はない)の窓に鉄格子をはめられるようになり、また最初の貼り紙も泥棒が入った事を受けてのものだと考えるとあの論理破綻な文章もやや理解できます。

 そうなるとどうしてこう大げさに書き立てるデマが流れたのかになりますが、これも私の考えだと日本人に対し強く注意を促そうと、発信者が内容をわざと過激なものにして広めたのかとが原因だと思われます。幸か不幸か、その筋書き通りに日本人の中においては十分に注意が喚起されましたが。

 この一件で私が強く憶えたのは、人間というものは案外、このような素性のわからない情報でも環境次第で簡単にデマに踊らされるのだということでした。恐らく海外での狭い日本人コミュニティだからこそデマが流れたのでしょうが、それにしたってもう少しみんなも疑ってもいいんじゃないかというような内容だっただけに、かくも情報の前では人間は無力かと思わせられた事件でした。

 留学記の記事はここまでですが、実はこの記事を書くに当たってあるデマと合わせて書こうと前々から考えていました。そのデマというのも、先月行われた民主党議員らによる事業仕分けにて、漢方薬の保険適用が除外されるというデマです。

 詳しい経緯については最後に引用するサイトを読んでもらいたいのですが、医師が処方する漢方薬は現在健康保険が適用されているのですが、漢方薬は医療効果がはっきりしないので無駄になっており、事業仕分けにて保険適用を除外することが決められた、といった報道がテレビ、新聞、インターネットといったすべての媒体で流れ、現に私自身もNHKにて確認し、その番組内では漢方薬を日々服用している男性が値段が上がると困るというコメントをしていました。

 この報道を受けてかネット上ではこの仕分けに反対する署名が集められたり、漢方薬大手のツムラなど公式に社長がじきじきに会見して反対するなど大騒ぎとなったのですが、未だに議論されているスパコンの予算と比べるとこっちの方は続報がピタリと途絶えるなど完全に静まり返ったのを見て私もデマだったと判断しました。

 ちょっと長いので私は確認していませんが、その保険適用除外が決められたとされる仕分けの会議を見た方によるとやはり除外をするといった発言はおろか、漢方薬という言葉すら一切出ていなかったそうです。それにもかかわらずあれだけ署名が集まったり、大騒ぎしたりしたと考えるとなにやら日本に対して不安を感じてしまいます。

 それにしても、この一件がデマだとわかったのも事業仕分けが公開されていたことに尽きるでしょう。公開され、またその会議の過程がネット上でも見られる動画となっていたことから早くに沈静したのであって、そういう意味で鳩山内閣に対してこの点だけは誉めてあげてもいいかと思います。

漢方薬保険適用除外は【誤報】です! 仕分け人枝野議員が明言(JANJAN)
漢方薬に関するデマ(きっこのブログ)

2009年12月22日火曜日

北京留学記~その二六、NEC中国人社員②

 前回の記事に引き続き、NECの中国人社員との会話をした時の話です。読者の方がどのように思われるかはわかりませんが、書いてる本人からするとこの場面が留学記全体における最大のハイライトだと私は考えております。

 すでに前回にも書いたとおりに議題が自由と言う事もあってかなり好き勝手に話をしてきたのですが、レッスン時間の後半に差し掛かる頃にもなるとさすがに話すネタに困ってきてしまい、この連載の過去の李尚民の記事でもあったように日本と中国で、お互いの国で知っている相手国の有名人を挙げることにしました。

 まず私から日本人がよく知っている中国の有名人となると真っ先に毛沢東が来ると話した上で、ほかの日本人にはあまり馴染みがないだろうけど、私個人が高く評価している人物として張学良氏がいると話しました。
 張学良氏についてはかつて私も記事にして書いたように、日中戦争における最大のターニングポイントであった(と私が考える)西安事件の立役者であり、西安事件があってもなくとも戦前の日本軍が広大な中国大陸を占領する事は不可能であったとしても戦況が全然変わっていただろうと話しました。

 すると一人のレッスン参加者がこの私の意見に対し、張学良がそれほどの人物だとは思わないと返してきました。この過程については先ほどリンクを貼った過去の記事にも詳しく書いてありますが、中国に留学する前に聞いた話だと台湾ならともかく、中国本土で張学良は救国の英雄として扱われていると聞いていただけにこの返答には正直驚かされました。元々中国では歴史人物の評価が時の政権によって大きく変わることも珍しくなく、もしかしたらそういった年代的な関係もあって資料とこの参加者の認識の間に齟齬があったのかもしれませんが、今度機会があったらこの点について中国人に聞き回りたいものです。

 そんなショックを受けている私に対し、今度は別の参加者が、「中国人ならこの人を、小学生ですら知ってますよ」と言って、広げているノートの上にこの名前を書いて見せてきました。

「明治天皇」

 私はてっきり、日中国交回復を行った田中角栄とか、当時の日中関係を悪化させているとして中国メディアでもよく取り上げられていた小泉純一郎元首相が来るかと思っていただけに、この明治天皇という文字を見て一瞬呆気に取られました。しかしこの日の私は自分でもびっくりするくらい頭の回転がよく、本当に頭の上で電球(交流)がピカって光る具合に相手の意図や背景をすぐに類推し、レッスン参加者にこう返してみました。

「この人は日本の改革に対して、何一つやっていませんよ」

 私がこう言うや、レッスン参加者らは案の定明らかな驚きの表情を浮かべました。

 明治天皇を中国人みんなが知っていると聞いてもしやと思っての返事でしたが、大体推察した通りでした。私はきっと中国人は日本の明治維新を、侵略者である日本の端緒となった一方、短期間で西欧列強とも伍す程の実力にまで育てることに成功した改革だったと肯定的な評価をしていて、その上で皇帝専制色の強かった中国のことだから明治維新は明治天皇の主導によって行われたと考えているのではないかと読んだのですが、これがピタリと当たっていました。

 詳しく話を聞いてみるとやはり明治天皇が一連の改革をすべて主導していたと思っていたようで、確かに改革の象徴として自ら前に出て振舞ったものの、政策やプランといった方面にはほとんど手を出していないと私が説明した所、では誰があの改革を行ったのだと続けて聞かれ、ちょっと答えに困ったものの、

「とりあえず明治維新初期の主要なメンバーとなると、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三人が非常に有名です」
「(西郷隆盛と書いたじノートを見て)ああ、この人か」
「この三人が大きな路線を作り、私は嫌いですが特にこの大久保利通が一番重要な役割を果たし、その大久保の構想を完成させたのが韓国人はみんな嫌いな伊藤博文です」
「(伊藤博文と聞いて)うんうん」

 ここでも確認をこめて敢えて冗談めかして言ったが、どうやら中国人も韓国のアンチ伊藤博文の意識を知っていたようです。

「じゃあ、明治天皇は何をしていたのですか?」
「言うなれば飾りです。彼が国の政策に口を出したのは私が知る限り一回だけで、にっし……日本と、当時清だった中国との戦争(日清戦争と言いかけたのを言い直した)を始めた時、自分はこんな戦争を望んでいないと伊藤博文に文句を言ったことくらいです。ロシアとの戦争の時は納得していたらしいですが」

 ここまで一気に説明すると、さすがに向こうもしばらく言葉が出せずにボーっとしていました。かくいう私も似たようなものでしたが。

 彼らの話から察するに、中国では小学校でも日本の明治維新を取り上げてこの明治天皇の事を学んでいる可能性が非常に高いと思われます。しかしその内容はいわば明治天皇による改革だったとやや誤解があるということになりますが、何故この誤解が起きているのかについては先ほども言った通りに中国は基本的に皇帝専制という歴史が長かった国という事情もありますが、明治の日本が海外に対してそのように宣伝と言ってはなんですが、天皇の下に体制を大きく改革したと喧伝しており、それも一つの一因となっているのではないかという気がします。

 そんな風に考えながら未だ呆然としているNECの社員達を見ていると、またすぐ閃くものがありました。すでに深入りし過ぎではないかという懸念もありましたが、この機会を逃したら絶対に後悔するという好奇心が勝り、続けざまにこんなことも敢えて話してみました。

「明治天皇同様、昭和天皇も日本と中国との戦争を主導したわけではありませんよ」
「では、誰が戦争を起こしたのですか?」
「それは恐らくあなた方が嫌いな、私もあまり評価していませんが、東条英機を始めとした軍人達です」

 そういって、東条の名前をノートに書いて見せた。

「昭和天皇はむしろ戦争には否定的な気持ちを持っており、それが最後の最後で戦争を続けようとする軍人を抑えて終戦に結びつけたのだと私は考えております」

 個人的な意見として、よく日中の歴史問題となると南京大虐殺があったのかどうなのかばかりが議論となりますが、こうした大きな問題を議論する以前に外堀とも言うような基本的な歴史的事実の点においても双方誤解している箇所が少なくなく、まずはこうした溝を埋めるのが先なのではないかと考えています。

 話は戻り、やはり昭和天皇は中国で嫌われているのかと聞いたところ嫌われていると返って来て、明治天皇に関しては欧米列強が押し寄せる中で、急速な日本の近代化を指導したとして高く評価する一方、その後の軍国主義の基礎を作ったとして半々の評価だそうです。

 こうして歴史認識の差異について盛り上がっている中、唐突にレッスン終了の時間がきてしまいました。知識層にあたる相手とゆっくり話す事が出来たので本音ではもっとあれこれ情報を引き出したかったのですが、さすがにずっと話しているわけにはいきません。
 レッスン参加者は最後にレッスンの報告書みたいなものを書くのですが、ちょっと後ろから盗み見した所、レッスンの先生に対する評価において五段階でみんな一番高い五をつけてくれていました。本人からすると、やはりうれしいものです。