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2010年1月5日火曜日

猛将列伝~西門豹

 先月に書いた曹操の墓発見についての中国の記事にて、「曹操の墓はこれまで文献上、西門豹の墓から西にあるとされてきた」という一文があったのですが、翻訳している最中にこの西門豹の名前を見て、中国人はこの西門豹のことを新聞記事に書いてみんな理解する程度に知っているのかと人知れず感慨に耽っていました。

 そんな西門豹とはどんな人物かと言うと、時代はちょうど春秋時代が終わった直後の戦国時代の人物で、当時の魏国の官僚でした。かねてより知恵者で鳴らしていた西門豹はある日魏王に呼ばれると、国力を増強するために新田開発をする必要があり、ついては国内で開発の遅れている鄴の地(現在の河北省)でその任に当たれと命じられました。
 命じられた西門豹は早速現地へ赴任して地形を確認し、近隣の河を整備した上で干拓を行おうと計画したのですが、西門豹の計画を知るや現地の農民達はみんな震えながら反対しました。わけを聞いてみると農民達は河には水竜がおり、工事などしようものなら村全体が祟られると話した上、村は毎年水竜に祟られないためにいけにえの儀式も行っている事などを西門豹に話しました。

 最初はただの迷信かと思っていた西門豹もいけにえの儀式と聞いて詳しく話を聞いてみると、その村では毎年村の中で一番の美女を選び、輿に乗せて河に放り投げる事でその美女を水竜に捧げているとのことで、その儀式のために村中から膨大な金額が毎年集められていることがわかりました。その儀式の費用は献金すれば死刑ですら免ぜられるほどで、本当にそれだけの費用を儀式のために全部使えるのかと西門豹が尋ねると、農民らは口ごもりつつも、恐らくは大半は儀式を取り仕切る神官や土地の古老らが着服しているといい、彼らにしか水竜を沈める事ができないので仕方がないと打ち明けました。

 この話を聞いた西門豹は村の窮乏の原因はこの儀式にあり、まずこの因習をどうにかしなければ干拓工事は出来ないと考え、ひとまず工事計画を棚上げにした上で儀式の日を待ちました。そして儀式の日が訪れるや西門豹は部下の役人を引き連れて参加し、水竜に捧げる美女の元へ案内するよう命令しました。そうしていけにえとなる美女を一目見るや西門豹は、

「なんだ、とんでもない不細工な娘ではないか。申し訳ないが神官らよ、もっといい美女を送るから先に水竜のところへ行ってお断りを言ってきてくれ。そら役人どもよ、神官らを河に放り投げろ」

 この西門豹の命令に役人らも戸惑うものの筋は通っていると思ったのか従い、慌てる神官らを片っ端から河に放り投げて溺死させました。それからしばらく川岸で待った後、さらに西門豹は、

「ふうむ帰りが遅い。仕方ない、ほかに水竜と話が出来るのは古老たちしかいないので、ひとつ早く戻るように催促をしに行ってくれ」

 そうして、今度は古老らを河に突き落とすように再び役人らに命じました。この命令には古老らも震え上がり、それだけは勘弁と抵抗するも西門豹は意に介さず、

「この儀式を終えねば村は大変なことになる。わしとてお主ら老人に骨を折ってもらうのは気が進まぬが、神官のいない今はお主らしか水竜と儀式で関わったものはおるまい。お主らはこれまでに水竜に散々貢献してきたのだから悪くされるはずはないのだし、一つ村のために行ってきてくれ。ほれ役人よ、さっさとしろ」

 こう言って、嫌がる古老らをまたも片っ端から河に突き落として溺死させました。
 そうやって再びしばらく待つと西門豹は立ち上がり、村民らに対してこう言いました。

「どうやら水竜は客人をもてなして帰さぬようだ。仕方がないので、今日はもうみんな帰ることにしよう」

 この西門豹の言葉にただただ唖然として事態を見守っていた村民らは何も言えず、結局その年は儀式をせずに皆家路に着きました。そしてその日以降、儀式について口にする者もいなくなったそうです。こうして因習を根本から断ち切った西門豹は村民を動員し、大規模な干拓工事を開始するに至ったわけです。
 しかしその干拓工事中、村民らから祟りについて口にするものはいなかったものの、このような工事が果たしてなんの役に立つのか、こんなことをするくらいなら今出来ている田畑を耕す方がマシではという不平不満が絶えなかったそうです。

 それに対して西門豹は、この工事は確かに現代の人間には評価されない事業かもしれず、評価してくれるとしたら十年、二十年、下手したら百年後になるかもしれない。しかしそれでもこの事業にはやる価値があるのだと最後まで工事を行い続けたそうです。
 果たしてこの言葉の通りに、西門豹が干拓した地域は見事な穀倉地帯となり、その後の魏国の躍進につながることとなったそうです。私は西門豹の因習を打破した知略はさることより、最後の後の時代の人間に評価される事をやるのだという発言がお気に入りで、内政における唯一にして最大の心構えだと周りにも言いまわっております。

2010年1月4日月曜日

公定歩合とデフレ対策について

 友人にはあまり相手にするなと言われるのですがネット上の経済談義にてよく、下記のような発言が見受けられます。

「デフレデフレというけど、デフレの反対のインフレを誘導する、つまり日銀が万札をどんどん刷ればこんなのすぐに解決できるだろう」

 もちろん私の認識の方が間違っているのかもしれませんが、この様な発言を見るにつけどうしてこう頓珍漢なことを臆面もなくいえるのだろうか、なんかいろんな意味で疲れてしまいます。
 結論から言えば、現在の日本でデフレ対策のためにインフレを誘導する事は不可能と断言してもいいかと思います。というのも日本はすでに十年以上も、万札をそれこそ湯水の如くジャブジャブ刷っているにもかかわらず市場に全く流通せずにデフレが進行し続けているからです。

 日本のお金は日銀こと日本銀行が発行しており、どのようにして貨幣流通量をコントロールしているのかというと、あんまりはしょるのはよくないのですが単純に言って金利こと公定歩合を上げ下げすることで制御しています。この公定歩合というのは、なんか最近名前が変わって「政策金利」になっているそうですが、中央銀行である日銀が一般の民間銀行に貨幣を貸し出す際の金利で、この金利にしたがって我々が民間銀行に預けるお金の金利も上下します。ですので市場にあまり貨幣が流通してもらいたくない過剰なインフレ時にはこの公定歩合を上げることで民間銀行の金利も上がり、高い金利があるので一般預金者もお金を銀行に預け、市場からお金が減っていくとされています。

 逆にデフレ時には、「銀行にお金を預けても金利がつかないのだから、とっとと使ってしまえ」と思わせるために公定歩合は下げることで民間銀行の金利も下げさせ、市場にお金が流通するように仕向けるのですが、百聞は一見にしかずとも言うので日本の公定歩合の推移を見てみましょう。

基準割引率および基準貸付利率の推移(日本銀行サイト)

 見てもらえばわかるとおりに1973年から1991年までは大まかに5%前後で推移しているのですが91年以降は下がる一方で、95年からはとうとう1%を割ってしまいます。最近はほとんど使われる事はなくなってしまいましたが、一時期によくテレビの討論番組などで使われていた「ゼロ金利政策」というのはこの公定歩合が1%を割り切った状態の事を指しており、先進国でここまで下げたのは実は日本が最初です。
 それにしても、01年の0.5%から0.1%の下げ方なんて真面目にやっているのかと言いたくなるような下げ方です。

 この「ゼロ金利政策」がどのような意味合いを持っているのかというと、単純に行ってデフレに対して日銀が打てる手段がもうなくなっているということです。たとえるなら壁に背中をつけてボクシングをやるようなものでデフレの進行に対して金利政策は出し尽くしており、逆に言うのならばこれだけやって貨幣を市場に出回らせようとしても一向に出回らず、デフレの進行を食い止める事ができないと言うのが今のデフレの手ごわい面だという事です。

 これはあくまで私の持論ですが、05年の郵政選挙にて自民党圧勝した際に一時的に日本の景気はよくなりましたが、私はあの瞬間になんとしてもこの「ゼロ金利政策」を撤廃し、公定歩合をそれこそ1%にまで引き上げるべきだったと思います。0.5%と1%では絶対値上は0.5%の差ですが倍数上は2倍であり、言うなれば預金金利が従来の2倍になります。当時はまだ余裕があり、あの一瞬でもいいから金利を引き上げていれば今ほど壁に背をつけずに、一歩後ろに下がる余裕くらい作れたのではないかと思います。
 これと同じような考え方を当時持っていたのは他でもなく竹中平蔵氏(当時総務大臣)で、日銀の福井俊彦総裁(当時)に対して執拗にゼロ金利からの脱却を迫っていたもののとうとう日銀が決断に至らずわずかにしか公定歩合を上げなかったことに対して、かなり強烈な表現を使って批判していました。

 では現在のデフレに対してどのように対処すればいいのか、はっきり言って現時点で有効だと思える手段は私には浮かびません。敢えて言うならどこかで数年に渡るような大規模な戦争を起こすか、日本のブロック経済化を進めた上で国内の生産力をなんらかの方法によって急減させるという劇薬的な手段なら、多少の道筋は見えてくるかと思います。
 はっきりいって現在のデフレ、ひいては世界的不況は過去かつてないものであって、従来の対策が果たして効果があるのか非常に疑わしいものです。浜矩子氏ではありませんがまずは現状分析を先にやり、その上で何が有効なのか一から対策を練ることこそが最速の手段でしょう。

 まぁまずやらなきゃいけないことは、金融関係企業への規制強化以外の何者でもないのですが。

2010年1月3日日曜日

センスのいいニックネーム集~プロ野球選手編

 もう大分昔に私が中学生だった頃、図書館にてそれまでに世の中に浸透したニックネームを集めた本がありました。そこで紹介されている人物はそれこそ戦前から現代に至るまで様々な世代が集められており、今ほど近い過去の人物を知らなかった私には非常に面白がって読んだのを今でも憶えております。
 その本の作者は前書きにて、各個人を一言で言い表すニックネームを作る作業というのは非常に高度なセンスを要求される作業であって、それだけあって未だに語り継がれるニックネームというのは一つの単語としても高い評価に値すると述べていたのですが、その本が発売されたのは97年でしたが、近年は珠玉ともいえるニックネームがほとんど出る事がなくなり、日本人の日本語能力の低下の一面なのかもしれないという嘆きにも似た言葉も付け加えられていました。

 その本が出てからすでに十年以上経ちましたが、果たして作者の言う通りに近年はこれというニックネームもなければ流行語すらもほとんど出回らなくなってきてしまいました。こうした現象を日本人の日本語離れと言うのは簡単ですが、私はこれらの原因ははっきり言って世の中の世相を見事に言い表す事の出来ない、各記者の質の低下が何よりも大きいかと考えております。まぁそういう私も文句を言うだけというのは恥ずかしい事なのですが。

 そこで本日は、これまで世の中に出てきた見事なニックネームをいくつか参考までに紹介しようと思います。実は前々から準備をしてきていたのですが、一挙にまとめてバラバラに紹介してもしょうがないので、今日はプロ野球選手に限って紹介しようと思います。 

 前もって断っておきますが、私自身がそれほどプロ野球に造詣が深いわけでもなく、またどうしても贔屓球団に偏ってしまう傾向は否めないので、「どうしてこいつは紹介しないんだ(゚Д゚#) ゴルァ」という気持ちは抑えて読んでいただけたらと思います。もちろん「この選手にはこういうニックネームがあったよ(´∀`)」というのであれば、それをコメント欄に書いていただければ幸いです。

1、七色の変化球 大野豊
 今回ニックネームをまとめようと考えるきっかけとなった人物で、リンクに貼ったウィキペディアの記事を見てもらえばわかるとおりに現役時代は多彩な変化球を武器にカープの黄金時代を支えた大投手の一人です。その活躍もさることながら実働22年という現役期間は驚愕の一言に尽きます。なおウィキペディアによると、元巨人の松井秀喜選手は大野選手がやめると聞いて心底ほっとしたそうです。

2、精密機械 北別府学
 しばらく広島カープが続きますが、こちらもまたセンスの光るニックネームです。大野選手同様にカープ黄金期に主に先発として活躍した投手で、その名の表す通りにとにもかくにもずば抜けたコントロールを持っており、現役選手ですらなかなか達成できていなかったテレビ番組「筋肉番付」の企画、「ストラックアウト」をコーチ時代に見事パーフェクトを達成しています。

3、炎のストッパー 津田恒美
 こちらも広島黄金期に活躍したストッパーの津田選手です。現在でこそストレートが持ち味のストッパーとなると阪神の藤川球児選手が有名ですが、こちらの津田選手も凄まじいストレートを持っていたようで、なんでも現巨人の原監督が津田選手のストレートをファウルした際に左手の骨を骨折して、残りのシーズンを棒に振ったというエピソードがあります。
 しかしそれ以上に津田選手のこのニックネームに重みを持たせているのは、彼が脳腫瘍によりわずか32歳にて世に去ったという事実が強く、現に彼のこの経歴は未だに広島ファンの間で語り継がれていると聞いております。

4、グラウンドの詐欺師 達川光男
 上記広島黄金期の錚々たる投手陣を率いていたキャッチャーというのも、エピソードに事欠かないこの達川選手です。この彼のニックネームの由来は野村克也元楽天監督ばりの打者に対して話しかけることで集中を妨げる「ささやき戦術」と、ボールが当たってもいないに関わらずデットボールを受けたフリをするというまさに詐欺師という名に相応しいまでのトリッキーなプレイから来ています。
 しかしその詐欺師という呼び名の一方で広島の投手陣らからの信頼は厚く、現に現役時代の打率などといった成績は他の名捕手と比べても芳しいものでないながらも、長らく第一線で活躍したというのは彼の親しみやすい人格や求心力にあったかと思われます。

5、優勝請負人 江夏豊
 日本プロ野球史上最強の投手との呼び声の高い江夏選手ですが、渡り歩く各球団で優勝の原動力となった事からこのニックネームとなりました。現在このニックネームは同じく複数の球団で優勝を達成している工藤公康選手にも使われる事がありますが、私の中ではやはり江夏選手のマウンドでの圧倒的存在感と信頼感からこの名前と来たら彼しか浮かびません。
 因みにウィキペディアで調べてみると、先程の大野選手や達川選手など、江夏選手から多くのことを学んだと証言する広島の選手が数多くいる事がわかりました。真に名選手は後身を育てるとは言いますが、その後の広島黄金期を見るにつけその通りだとうなずかされます。

6、KKコンビ 桑田真澄清原和博
 良くも悪くも、日本プロ野球史における90年代の主役はまさにこの二人といっていいでしょう。私が小学生だった頃は周りはみんな清原選手のファンでよく桑田選手は悪役のようにされていましたが、両選手とも現役末期に他球団へ渡りその引退に至る過程も多くのファンが見守ったというのは、一時代の終わりを感じさせられました。

7、鉄腕 稲尾和久
 江夏選手とともに圧倒的な存在感を感じさせるこのニックネームの由来ですが、58年の日本シリーズにおいてまさかまさかの5連投、そして見事な逆転優勝を引き寄せたというエピソードから来ています。その類稀なスタミナはもとより投手としての技術もあの野村克也氏が最強と評すだけあり、記録の上でもまさに実に人間離れしたものがあります。稲尾選手は07年になくなられていますが、この際には友人と二人でえらくしょげこんだのを今でも憶えております。

8、JFK ウィリアムス、藤川、久保田
 05年の阪神優勝時の必勝継投パターンで出てくる投手の頭文字からつけられたニックネームですが、そのセンスといい当時の存在感といい、近年で私が一番評価するニックネームであります。
 この05年当時は「阪神との試合は6回まで」とまで言われる程、最終三回を完璧に抑えるこの三人のリリーフ陣は非常に強力でした。またこの05年に藤川選手がそれまでのシーズン最多登板記録回数を塗り替えるとともに驚異的な防御率を残して優勝した事から、現在に至るまで野球におけるストッパーのみならず中継ぎ投手の重要性を世に知らしめた戦術であったと私は認識しております。惜しむらくは06年以降はなかなか三人が揃い踏むことなく、昨年のウィリアムス選手の退団によって事実上JFKが解散してしまった事です。

9、大魔神 佐々木主浩
 先程のJFKが中継ぎ投手の重要性を知らしめたのであれば、ストッパー投手の重要性をかつての江夏選手同様に世に見せ付けたのが横浜の佐々木選手でしょう。
 この大魔神というニックネームは横浜がリード時の九回に佐々木選手が登板する際の対戦チームの絶望感とともに、佐々木選手の非常に顔がでかいという特徴が特撮映画の「大魔神」と重ね合わせたというのが由来です。実際の佐々木選手も映画の大魔神同様めちゃくちゃなところがあったようで二日酔いのまま登板してセーブを決めたりなど、漫画の「ササキ様に願いを」同様の濃いキャラクターのようです。


 という具合で、一つ試しに九つの野球選手にちなむニックネームを紹介しました。書く前はもう少し簡単な作業化と思いましたが、各選手の経歴や特徴、ニックネームの由来をどこまで書くべきという配分に悩み、個人的にはやや中途半端になった気がします。これならニックネームごとに記事を書いた方が良かったかも、でもそれだとウィキペディアの記事のがいいだろうし……。

 今回まとめていて思ったのは、広島黄金期の選手のニックネームがどれも秀逸であったことにつきます。どれも各選手の特徴を見事に一言で言い表しており、その上見栄えのよい日本語で見ていてつくづくため息が出ます。同じく広島関連なら「神 前田智徳」とか、「非県民 二岡智宏」というのもあるけど、こういう言葉をぽんぽん作れる広島版のスポーツ紙記者には頭が下がります。

 同じくチームごとの特徴といえば、千葉ロッテの選手にはやけにカタカナ語が多いのも今回気になりました。「ジョニー 黒木智宏」に始まり「サブマリン 渡辺俊介」、「マサカリ投法 村田兆治」、「オリエンタルエクスプレス 郭泰源」など、唯一「精密機械 小宮山悟」があるだけで後はカタカナです。個人的には成瀬善久選手の投げ方が猫の手みたいといわれているため、「ニャース 成瀬善久」と勝手に呼んでいるのですが、流行らないだろうなこれは。

中国の大学入試制度について

 連載していた北京留学記の中で中国人より日本の大学入試制度について興味津々に説明を求められた事を書きましたが、恐らく日本人にとっても中国の大学入試制度がどのようになっているか、興味がある方もおられるかと思います。この大学入試制度というのは意外と国ごとに違いがあって、「フランスの日々」にてSophieさんも何度か関連する話題を紹介していましたが、なんだかんだいって国ごとに特徴があったりします。

 では中国の大学入試はどのように行われているのか、結論から言えばセンター一発入試が向こうの入試制度です。向こうで大学と言えば基本的にすべて国立で、私大は全くないわけではありませんが現在はほぼ大学と認められていないに近い状態で、年一回六月に行われるセンター試験で取得した点数によって進学できる大学が決まるという制度となっております。
 たとえばAという大学はセンター試験で400点以上、Bという大学は500点以上の成績が必要だった場合、500点以上の成績を取った生徒はAとB、どちらの大学を選ぶ事ができるという具合です。

 そのため、中国の大学入試日はそれこそ街全体が異様な空気に包まれており、万が一にも交通機関に遅れがあってはならないためにまるで戒厳令下のようにパトカーがあちこちを回っており、この日に限ってはパトカーに頼めばタクシーみたいに受験会場まで送ってくれるという噂もあったりします。日本のニュースでもよく報道されていますが中国でも若者の就職難は年々深刻化しており、就職を勝ち取るために、貧しさから抜け出すために大学進学熱は高まる事はあっても冷める事はないという状況です。

 そんな中国の大学入試制度なのですが、実は生徒の出身地域によって合格に必要な点数が変わるという、不可思議この上ない面があります。これはどういうことかと中国政府の建前はというと、中国は地域ごとに大きく人口にばらつきがあり、全国から均一の数の学生を大学に入れるためにあらかじめ募集人数を省や市に割り振る必要があるとしています。
 しかしこれは結論から言うと、実態的には教育行政をつかさどる人間達が自分達の子弟に都合のいいように制度をいじくっている所があり、実際に首都の北京市は周辺地域と比べると驚くほどに合格点数が低く設定されております。折角なので、合格点の一つの目安となる中国最高峰の北京大学の地域別合格点数を下記にご紹介します。





(出典 腾讯网:http://edu.qq.com/a/20050317/000095.htm)

 表中の「文科」、「理科」というのはそれぞれ日本語の「文系」、「理系」を表しております。
 見てもらえばわかる通りに、距離がそれほど離れていない北京市と山東省を比較しても2004年度では581点と666点と、実に85点も合格点数に開きがあり、南方の広東省や広西省に至ってはもはや同じ試験なのかと疑ってしまうほどの差です。

 この地域は受験生の戸籍上の、日本で言えば本籍地に当たる地域によって区分けされるのですが、そのために北京に在住していながらも本籍地が山東省の人間には山東省の合格点数が要求されてしまいます。実際に北京市の合格点数では北京大学にいけるものの、山東省に本籍地があるためそれが適わなかった北京出身の友人がおり、彼は非常にこの制度の事を恨んでいました。
 こうした地域ごとのはっきりとした合格点数の差から、近年中国の富裕層の中では「受験移民」といって合格点数の低い北京市などへ子供の受験のために引っ越すという現象が確認されています。

 私がこの問題を知ったのは留学中に現地で購入した社会問題を取り扱った本で、その本の作者は、本来格差を是正する手段の一つである大学教育においてその入り口にこれほどの較差があるのは大きな問題で、受験時に不利となり地域の募る不公平感は看過することはできないとまとめております。

 中国は今に始まったわけでなく古代より「科挙」という官僚採用試験を実施するほどの受験大国ですが、この科挙ですら広く優秀な人材を集められたという点は良かったものの、この科挙を受験したものの不合格となってしまったいわゆる「落第エリート」の中には国家に対して反逆心を持つものも多く、中には黄巣や洪秀全といった王朝を滅ぼすきっかけとなった反乱を起こした者もおりました。私なんかそういった歴史を知っているもんだから常々「エリートを遊ばせるな」とあちこちに言いまわっているのですが、現中国の受験制度もなんらかの是正措置を取る必要があるのではないかと、他人事ながら思います。

  参考文献
中国社会 王進 中央評論出版社 2006年

2010年1月2日土曜日

小沢一郎、政党助成金私的流用疑惑について

 ここで紹介する内容はすべてある記事からの引用で、元ネタは文芸春秋2010年1月号の松田賢弥氏による「小沢から藤井財務相に渡った15億円の怪」という記事です。内容はなかなか興味深く個人的にも非常に面白いと思ったものの、12月10日発売の記事にもにもかかわらず大分日がたった今日に至るまで私は敢えてこのブログで紹介してきませんでした。何故紹介しなかったのかと言うと、私はてっきりこの記事の内容は私が紹介するまでもなく日が経てば他のメディアでも大きく報じられると思っていたからで、そうした追加取材の反応を見てから書こうと思っていたものの、何故か他のメディアはこの記事に対してほぼ無反応をし続けたので書くタイミングをなかなか決められなかったからです。

 ただほとんどのメディアが沈黙する中、毎日新聞と去年はすっかりお世話になってしまったしんぶん赤旗だけは取り上げていたので(つっても結構時間が空いているが)、いちおうリンクを貼っておく事にします。

新生・自由党:解党時残金、小沢氏側に 大半の22億円余(毎日新聞)
小沢氏関連政治団体 繰越金が20億円 結党・解党のたび膨らむ(しんぶん赤旗)

 どちらも文芸春秋の松田氏の記事をなぞったかのような内容なので、もし詳しく内容を確認したいのであれば是非元ネタを一読することをお勧めします。それにしても、深く勘ぐり過ぎかもしれませんが新聞、テレビメディアは雑誌の後追いするのが嫌なのでしょうかね。

 それではその記事の内容を早速解説しますが、結論から言うと現民主党幹事長の小沢一郎氏は国から政党へ政治活動費として配布される「政党助成金」を私的利用している疑惑があるという内容です。

 この政党助成金という制度を最初に説明すると、この制度は政党交付金とも呼ばれ、国会議員数が五人以上の政党に対して議員数に比例した金額分の活動費を国が税金から出すという制度です。一体何故この制度が作られたのかと言うと、政治家をやっていく上で誰もが相応の活動費が必要となってくるのですが、これを各政治家個人個人が集めているとその授受の仮定で談合や斡旋収賄といった不正取引が行われる恐れがあり、そうした不正行為を防ぐとともに資金力のない有望な政治家、政党を育てるために一定度の金額を国が前もって渡すという目的から作られました。

 しかしかねてよりこの政党助成金は必ずしも政治目的の用途に使われず、議員や政党の私的な用途に使われてもわからない、確認する手段が少ないといった批判がありました。実際に自民党はこの政党助成金の大半を党の運営費に使用しており、前回選挙で議員数が大幅に減少したのを受けて現在運営難に喘ぐこととなっております。
 この制度を提唱し、実際に実現にこぎつかせたのは他でもなく小沢一郎氏なのですが、元ネタの執筆者である松田氏は小沢氏はこの制度を利用して自身の政治団体の資金源に当てているのではないかと指摘しております。

 では一体小沢氏がこの政党助成金制度をどのように不正利用したのかですが、時期は二つあり、小沢氏自らが結党して作った新生党と自由党の解党時です。
 自由党解党時のケースで説明すると、2003年に自由党は現民主党と合併して解党したのですが、その年に政党助成金を受け取っていた自由党は解党の直前に、自由党の政治団体である「改革国民会議」へその資産のすべてを寄付と言う形で移動させております。その額、なんと十三億円。

 この十三億円の内、政党助成金の内訳は五億六千万円ですが、政党助成金は法律上でも未使用分は国庫に返納する事が決められており、政党が合併した場合、吸収される政党が助成金を使い切っていなければ返金する必要があります。ですが小沢氏は未使用の助成金を自由党の政治団体へ自由党から寄付という形で移動させることで解党時の自由党資産の残高を0にし、結果的に一円たりとも国庫への返納をしませんでした。

 ではそうして大量の資金を受け取ったその「改革国民会議」はどのような支出をこれまで行ってきたのかと言うと、記事中では小沢派の会合の会場費用、参加者の移動費用などと、政治目的というよりは私的としか言いようのない支出が紹介されております。
 この様な資金移動は自由党の解党時のみならず新生党の解党時にも見られ、当時は「改革国民会議」と住所も代表者も会計責任者も同じ「改革フォーラム21」へ五億五千万円寄付されております。

 これらの資金がその後どのように使用されたかについて松田氏は、年末に各メディアを騒がせた、04年に小沢氏の政治団体「陸山会」が取得した三億四千万円の土地の購入資金に充てられたのではないかとも述べています。というのも、この土地を購入した年の「陸山会」の政治資金報告書には前年にはない四億円の定期預金が突如として現れるからで、自由党の解党が03年ということを鑑みるとタイミングが良すぎるわけです。

 繰り返しになりますが、政党助成金はすべて国民から集められる税金から出ており、その用途も公的な政治活動に限ると法律上でも記載されております。そんな助成金を自らの個人的会合や土地購入の費用に充てたというのであれば言語道断で、この問題に対する各メディアの追加取材、報道を期待したいと思います。

2010年1月1日金曜日

民主小沢氏、二度目の大連立を企図か?

 先月に書いた「中国副主席との天皇特例会見について」の記事の中で私は、十二月に行われた天皇と習近平中国副総理との会見は自民党の総理経験者から要請があって行われたという前原国交大臣の発言を取り上げ、この元総理というのは福田康夫元首相ではないかと予想しました。何故福田氏なのかと言うと元々福田氏は中国を外交上重要視する発言や行動をこれまでにも何度も取っており、小泉政権時の官房長官時代も靖国参拝に対して否定的な見解を示したり、靖国に変わる国立追悼施設の建立を検討する私的委員会を立ち上げ、そして極め付けが首相在任時に日中ガス田問題について共同開発を行う事を声明に出すなどといった行動を取っていました。

 そういった過去の経緯があったから福田氏ではないかと私は考えたのですが、その後の報道によるとこの元総理経験者というのは中曽根康弘元総理だという報道が相次ぎました。中曽根氏も日中の友好団体の名誉会長なり理事なりを務めているので必ずしも無理な話ではないのですが、政界を引退した人間がそこまで手回しをするのか、また中曽根氏の政治姿勢からも天皇の会見に対する一ヶ月ルールを破ってまでの要請を行うものか、根拠は確かにありませんが私には少し腑に落ちないところがあります。

 そんなわけで私は未だに福田氏犯人説を勝手に持っているのですが、仮にこの説が正しいとすれば、あの特例会見は同じく積極的に主導した小沢氏と福田氏が半ば共同するかのように行ったという事になります。この二人の共同作業が一体どういう意味を指すのか、元の記事を書いた時点で私はすでに大胆な予測を立てていてあの記事に何らかのコメントなり反響を得たら書こうかと思っていたら誰も反応してくれず、結局書く機会を失ってしまいました( ´Д⊂
 ところがその予測を友人に話したら出し惜しみするべきでないと言われ、また自分も折角だから書かないよりは一応は書いておこう気もするので、ここでこの際放出する事にします。ただ先に書いておきますが、あくまでもこれは小沢氏と福田氏が共同して特例会見を推し進めたという仮定の上に立つ私の大胆な予測で、細かい根拠などは一切ありませんのでこの点だけはご了承ください。

 早速結論から言うと、小沢氏は今後、民主党内の小沢派を率いて民主党と離脱し、現野党自民党と合流しようとしているのではないかと思います。これは言うなれば自民党と民主党小沢派の大連立で、かつての福田政権時に福田氏と小沢氏がトップダウンで実行しようとしたところ民主党内部から反対にあって失敗したことのやり直しです。

 一体何故ここに至って大連立なのか、双方の視点で見るとまず自民党としては何が何でもまた野党から与党へ返り咲きたいという思いがあるのは自明で、かつて社会党を抱き込んでやったように何をしてでも権力にしがみつこうとする性格が以前からあります。それに対して小沢氏はというと、恐らく彼の中では政界再編というか、国会の政治制度を改めるなど(参議院の廃止など)のお題目はいちおうあるかと思いますが、それ以上に彼の「壊し屋」としての性格とも言うべきか、既存のものをとにかく何でもかんでも破壊したいという本能にも似た政治的性格が突き動かしているのではないかと思います。

 ここまで書けばわかる人もいるかもしれませんが、仮にこの大連立を小沢氏が企図しているのであれば、それはまさに自民党の55年体制の崩壊につながった彼自身の自民離党、新生党の結成と全く同じ行為をやろうとしていることになります。私の中の後付ですが、実際に最近の小沢氏には企図しているかのように伺わせるような行為もいくつか見受けられ、前回衆議院選時の応援演説においては当選後に小沢派に入る事を新人候補に署名させたり、自ら多くの議員を引き連れて訪中し、件の天皇特例会見においてはやけに強気な発言、そして選挙時のマニフェストに明らかに逆行する要望書を内閣に提出したりするなど傍若無人の如き振る舞いが目立ちます。特に最後の要望書については変な見方をすると、民主党内にいる今のうちに自ら足を引っ張って、離脱時に「こんな政党じゃ駄目だ(#゚Д゚) ゴルァ!!」という言質を取る準備かのようにすら見えてきます。

 さっきから仮定に仮定の話を上乗せし続けていますが、もし小沢氏が本当にこの様な大連立を企図しているのであれば、私としてはその行為は日本のためにならないと思うゆえに賛同できません。ここ数年、毎年総理大臣が変わるという不安定な日本の政治環境は明らかに異常な状態であり、この政治的停滞による弊害もすでにはっきりと目に見えてきております。私が思うに、前評判に違わず宇宙人っぷりを発揮している鳩山首相がこれまで比較的高い支持率(麻生政権時より発足当初から上回っている)を保っていられている要因は政策や人柄というよりも、国民の「もう首相をすぐに変えてはならない」という意識ゆえだからだと思います。

 しかるに小沢氏がそれこそ今年の四月に恐らく難航が予想される予算審議の段階で民主党を離脱して自民党と合流しようものなら、この小泉政権以後の政治的混乱、権力の空白に一層輪を掛けるだけでどう転んだってプラスにはならないでしょう。

 以前に誰かの評論で、歴史や記憶に残るような目立つ政治家というのは基本的に制度を破壊した壊し屋型の政治家ばかりで、実際に後の社会に貢献するような制度を作った建設型の政治家は地味な印象になるという話を聞いた事があります。その上でその評論家は小泉純一郎元首相も破壊型の政治家で、これより後は地味な建設型の政治家が必要になるとまとめていたのですが、壊し屋の後に誰も続かなくてようやく出てきたのがまた壊し屋になるというのは私個人的にもまっぴらごめんです。

相次ぐ人身事故について

 先月に書いた「内戦状態の日本 その二、反応と期待」の記事の中で私は人身事故、もとい鉄道への投身自殺がほぼ毎日起きていることについて何故メディアは取り上げないのかと苦言を呈しましたが、十二月三十日付のの朝日新聞にて取り上げられているのを見つけたのでご紹介します。

増える鉄道自殺 運休・遅れ原因の45%に(朝日新聞)

 リンク先の記事では今年も全体の自殺者同様に人身事故も過去最高のペースで相次いでいるものの、死亡者のプライバシーにも関わる事からデータを公表するわけにも行かず、なかなか対策が立てられず鉄道会社も頭を悩ませていると書かれてあります。プラットフォームに防護柵を立てたり、心を落ち着かせる青い証明を用いるなどといった小さな対策が書かれていますが、どれも効果があるかといえば判然としないようです。

 現在で以っても日本の自殺者の大半は50代以上ですが、近年は若者の割合もじりじりと増えていると以前にどこかのニュースで見ました。これまで私はあまり大きくこの自殺問題を取り上げてきませんでしたが、そろそろ日本は本格的に対策を取らなければいけない時期に来ているでしょう。いくつか私の知っている他国の自殺対策を紹介すると、北欧の確かフィンランドだったと思いますが、そこではカウンセリング施設を国内に大きく広げる事によって自殺者数を急激に減らしたといい、またフランスに至っては敢えて国が向精神薬を広く処方する事で国民の自殺を減らしていると言われ、成人の過半数が毎日服用しているなどという噂を聞きます。まぁそんな社会をまずどうにかするのが先なきもするのですが……。