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2011年1月7日金曜日

中国の新聞メディア

 今日も昨日に引き続き中国の話で、中国の新聞メディアについてざらっと解説します。
 中国の新聞とくれば恐らく大概の日本人は人民日報を思い浮かべるかもしれませんが、実は日本人はこの人民日報に対して大きな誤解を持っています。よく日本のメディアは中国関係のニュースの際に、「人民日報によると~」という書き出しなり前置きなりを置いてよく報じるのでさぞや影響力のある新聞だと感じられるかもしれませんが、これは直接複数の中国人にも確認しましたが実は当の中国人らは人民日報を読むことなんてほとんどなく、講読している人なんてほぼ皆無といっていいくらいいません。そもそも読もうにも人民日報はそこらの売店や本屋では販売されておらず入手する方が難しいくらいで、実際に私も中国滞在中に目にすることはほとんどなく、唯一見かけるとしたら大学内の掲示板や団地内の掲示板に貼り付けられいるのを見るくらいです。日本人のイメージだと人民日報は朝日新聞や読売新聞のように全国津々浦々に配られているようなイメージがあるでしょうが、実際のところは読んでる人がいたら結構珍しいような新聞です。

 では人民日報とはどんな新聞なのかですがこれは単純に中国共産党の機関紙で、昔はほかに新聞がなかったから確かに全国でも読まれて発行部数もそこそこあったのですが、作って発行している所が所なだけに現地中国ですら、「日付と題名しか正しくない」とまで言われる始末で(天気予報はどうなんだろ)、競合メディアがほかにも出来た今では共産党内で読まれるだけの業界紙的な立場に追いやられております。ただ何度も言いますが作って発行している所が所なだけに政府の公式見解や発表を知る上では重要な情報源足りうるので、日本人が誤解するくらいに下手すりゃ本国以上に外国メディアや研究者などと海外で読まれる代物なのかもしれません。

 ならば中国の新聞メディアは一体どんなものが読まれているのかですが、まだまだ文盲者が多くいる環境だけに日本みたいに電車や喫茶店で広げられて読まれる姿はほとんど見かけませんが、中にはよく買って読んでいる人はいるそうです。新聞事情については日本は毎朝配達されるのが当たり前など世界の中でも一番特別で説明がやや面倒なのですが、中国では基本的に新聞は雑誌などともに街頭にある売店で販売されており、値段は新聞によって違いますが大体日本円だと100円以下でまず買えます。

 それではどの新聞が影響力があるのかですが、これについてはどれが強いとは一概に言い切れません。というのも中国の新聞で全国紙と呼べるのはほとんど読まれてないけど人民日報だけで、ほかは地方ごとにそれぞれ発行されている新聞が異なっております。北京なら北京の地方新聞、上海なら上海の地方新聞が発行されて現地の人間に読まれており、地方ごとならともかく中国という国単位でオピニオンリーダーと呼べるような新聞はまだないのが現実です。
 また地方新聞と言ったって日本みたいに一県に一紙とかいうレベルじゃなく、上海などの大都市であればきちんと数えたことはないけど十種類以上はあるんじゃないかと思います。その中でも人気のある新聞とかはあるんでしょうが、どれがどのような新聞かはよく読んでいる人じゃないと多分わからないでしょう。

 これから私もいろいろと研究していこうと考えてはいますが中には専門紙というか誰が読むんだというような新聞もあり、以前に私が手に取ったのだと軍事専門紙なんてものがあり、書いてる内容も人民解放軍内の人事異動とかどこそこにどんな兵器が配備されたなどというあまり生活上役に立たない情報で満載でした。ちなみに新聞に限らずテレビでも軍事専門チャンネルってのがあって、よく訓練中の兵士のインタビューとかが放映されてます。

 最後に中国全土の各新聞社についてですが、基本的に民間メディアというものは存在せず地方新聞に至ってもどれも官営メディアです。人民日報のように中国共産党こと中央が運営しているのもあれば地方政府が発行したり資本関係にあったりなど、なにかしら役所が背後に付きまとってきます。ただ近年は以前よりも新聞メディアの独自の動きというか必ずしも政府の意向に沿うわけでなく、海外メディアに報じられるくらい変わった報道とか行動を起こすことが見えてきました。
 古い例だと六年前に私が贔屓にしている北京の「新京報」がストライキを起こしたり、近い例だと産経新聞で報じられてましたが広東省のある新聞がここでは書きづらい人物を暗に祝福したりなどと。ただ広東省は省政府や地元住人が元から北京こと中央に対して反感を持っていると聞きますので、あれは案外省ぐるみの行動だったのかもしれません。

2011年1月5日水曜日

職歴社会の今後を考える

 本当は一つ前の記事の「公認会計士の就職難について」の記事に続けて書く予定でしたが、ちょっと収まりが悪いので記事を分けました。先の記事において公認会計士資格合格者の就職難に触れましたがリーマンショック以後の近年は90年代における就職氷河期を越えるほど若者の就職状況は悪化しており、その影響は様々な分野において現れております。

 ちょっと前にも就職情報にはいろいろ間違った噂も多いというような記事を書きましたが、私が学生だった頃はボランティア活動をしているといいとか、資格があれば有利とか、履歴書の文字はきれいな方がいいなどあれこれありましたが、公認会計士資格は文句なしに印籠の如く使える資格だと聞いていただけに先の記事での内容はショックを受けたわけです。

 ただ前にも書きましたが、皮肉なことにそれまでの日本の雇用慣行において大きな影響力を示していた学歴というものはこの就職環境の悪化によって幾分薄れた感はあります。昔であれば大学の学歴順にその後の出世も決まっていたとか、学閥がどこの会社にもあったなどと聞いていますが、その手の話題はこのところとんと聞きません。
 もちろん大企業によってはエントリー時の足きりに大学を基準にするなどということは今でも残っていますが、それでもかつて語られていた「学歴社会」というのはもう死語になりつつあるのではないかという気がします。現実に中国や韓国の状況よりはマシですし。

 ただその学歴社会にとって変わってきているのが、この記事の題に据えた職歴社会ではないかと私は考えています。
 この職歴社会という言葉は前の「陽月秘話」でも紹介しましたが、私の造語です。意味は読んで字の如く職業として勤務した経験や履歴によって社会的地位が決まりやすい社会ということで、就職するに当たって学力や資格よりも仕事内容ごとによる勤務経験や前に働いていた企業の規模などが影響する社会を指しております。具体例を挙げると、大学新卒時に正社員職を得られないとその後も正社員職への就職が難しくなることや、公認会計士や弁護士資格を取得したばかりの人よりもある程度その方面の仕事の経験者が優遇されるといったことが挙げられます。

 この職歴社会の問題点は言うまでもなく、高校や大学卒業時に就職できなかった人たちの不遇です。この新卒問題は公にも認知されており政府も、「卒業後三年以内は新卒扱いにすべし」と企業に通達を出していますがあまり効果は望めることもなく、その後もずっと正社員への門戸が阻まれることを考えると実に根深い問題だといわざるを得ません。運良く新卒時に就職出来た人間は勤務経験も得られてその経験を生かして転職することも出来るのに対し、新卒で就職できなかった方はその後もハンデが付きまとうことを考えるといささか身分制社会のような印象を受けます。
 それだけに私は新卒で就職できなかった人間がそのハンデを克服する手段としては難度の高い資格取得しかないのではとこれまで考えていたのですが、弁護士や公認会計士資格ですらも就職状況が悪いというのであればもはやお手上げではないかとショックを受けたわけです。

 こういった内容を先日に友人と話していたのですが、このまま行くとゆくゆくは職歴を得るために半ば志願する形で企業に無償で働く、もしくは働かされる人間が出てくるのではないかと予期しました。実際に思い当たる節もないわけでなく、私が上海で転職先を探していた頃に人材会社の人から聞いた話では日本で就職先が見つからないために中国語が全く出来ないにも関わらず中国へ来る人が増えてきているそうです。

 以前人気番組のカンブリア宮殿で「餃子の王将」が取り上げられた際に無茶振りもいいとこな新入社員研修のシーンにて、「その仕事、私にやらせてくださいっ!(;Д;)」と、土下座するかのように新人に言わせていた場面があったことから放送後はあれこれ議論となりましたが、職歴社会が今後ますます幅を利かせるようになるとこのような台詞が一般化するのではないかと危惧せずにはいられません。

 そういう風に友人と話していたらふとしたことからジブリ映画の「千と千尋の神隠し」にまで話が及び、主人公の千尋が湯婆婆に、「ここで働かせてください!!」と言うシーンがありますがこの台詞が日本のあちこちで聞こえるようになり、「お前の名前は今日から千だ」というようなフレーズが続くのではないかと妙な想像までしてしまいました。
 ただこの作品自体が一部評論家よりバブル崩壊後の日本を背負わなければならない子供たちを描いているという評価があり、そういう意味では時代を随分と先取りしているのかもしれず、案外ここで私が書いた内容に通じているのかもしれません。

 久々の一日記事二本は疲れました。あとご飯二合を一度に食べたのがよくなかったのか、ちょっとおなか痛くなってきました。

公認会計士の就職難について

 私は一人暮らしをしだすと食事におけるご飯の比率が急激に増える傾向があるのですが、先ほどの夕食も1パックのレトルトカレーに対して二合のご飯を割と短時間で食べられました。最後はほとんど白米をスプーンですくっているだけだったけど。

 そんなどうでもいい近況はよしといて本題に移りますが、年始の休みの間に日本にいる友人とスカイプで話をする機会がありました。話した話題は多岐に渡るのでそれぞれ機会あるごとに紹介していきたいのですが、今日は年末に流れたあるニュースを私が取り上げたことによる話を紹介しようと思います。

会計士“浪人”急増 不況に加え需給合致せず(産経新聞)

 上記のニュースは去年の十二月十九日配信のニュースですが、一見してさすがの私も面食らったのを覚えています。
 記事内容を簡単に説明すると、司法試験と並ぶほど日本最難関の取得資格と言われる公認会計士資格の合格者らが近年、試験には合格したものの就職先がなく記事中の言葉を用いるなら「会計士浪人」が大量発生していることが報じられております。

 公認会計士という資格は簿記や税理士、行政書士などといった財務、会計資格における最高資格で、日本においては企業の監査業務や資産管理などといった業務において大幅な権限が認められております。主な就職先としては監査法人や会計事務所などが多いのですが、近年は日本でも四半期決算が企業に義務付けられたことから一般企業にて会計業務担当として就職する例が増えていると言われていました。
 しかし、なんていうかそれは確かに2008年くらいまでは本当だったかもしれませんが、現実はさにあらず「大学はでたけれども」ならぬ「公認会計士ではあるものの」という就職状況のようです。

 ちょっと公認会計士について自分の体験談というかかつての価値観を話すと、私が高校生だった頃はまさにその四半期決算の義務化などが控えているため公認会計士資格を持っているとどこ行っても引っ張りだこなイメージがあり、周りでも大学入学とともにダブルスクールとばかりに予備校に通う友人がいました。

 そんなイメージがあった公認会計士なだけに、合格者が就職難に遭っていると聞いて正直にショックを受けました。よくよくその理由を追ってみるとどうも司法試験合格者と同じで、国がこれから需要が増えるだろうと合格枠を広げたものの実際にはそれほど需要がなく、さらにリーマンショックのダブルパンチを受けてしまったことが影響しているようです。そういう意味では今就職できない公認会計士や弁護士は国に翻弄された感があります。

 折角なので公認会計士についてちょっとエピソードを話すと、私が高校生だった2000年代前半はやっぱりもてはやされていたこともあり、指定校推薦を受けた友人も面接にて、

「将来は公認会計士になりたいと思っています( ・∀・)ノ」

 と、話したまではよかったのですが。

「公認会計士とは、どんな仕事をするのですか?(・ω・ )」
「わ、わかりません(;゚д゚)」

 というやり取りをしたがために、普通指定校推薦は一回で合格させてもらえるのにその友人だけは二回も面接を受ける羽目になりました。ま、ちゃんと二回目で合格して、卒業後は公認会計士にはならなかったものの金融系に就職しましたけど。

 またこの友人とは別のエピソードですが、実は私の祖父も公認会計士でしたがきちんと資格試験を受けて取ったわけじゃなく、戦後のドサクサ期に金で資格を買ったそうです。会計仕事は一応出来たそうですけど。
 なんかこの前も調べたら本当に戦後の一時期はそんな感じだったらしく、みんなの党の代表者である渡辺善美氏の父親である渡辺美智雄氏もそのドサクサ期に申請して会計士資格を取ったそうですが、一橋大学の商学部を出ていると言ったら簡単にもらえたそうです。

2011年1月4日火曜日

ある種の鋼の意思

 よく日本刀は刃物としては最高技術の傑作品と呼ばれていることは知っているが、それがどうしてか、どういったメカニズムを持っているかについてはあまり知らないという人が多いと思います。私自身も刀剣にそれほど詳しくわけではありませんが、日本刀のどこが特殊なのかという大まかな特徴についてちょっと今日は話そうと思います。

 日本というとよく切れるイメージが強いと思いますが、そんなによく切れるというのであれば相当硬い鉄でできているのであろうという風に思うでしょうが実はそれは間違いで、日本刀の大部分は比較的柔らかい軟鉄をベースにして作られております。
 一体何故軟鉄をと思われるかもしれませんがそれにはわけがあり、日曜大工で金属をねじったり切ったりするなど金属加工をした経験がある人ならわかると思いますが、柔らかい金属ほど切断しにくく硬い金属ほど実際には切断しやすいものです。それこそアルミと鉄、それぞれで出来た一斗缶に穴を空けるとしたらまず間違いなく鉄のが簡単に穴を空けることができるでしょう。

 これは何故かと言うと単純に柔らかい金属だと力を加えても金属自身が曲がったり、衝撃を吸収したりするのに対して硬い金属は衝撃をすべて正面から受け止めてしまい、表現的に比較的割れやすいからです。そのため刀剣に関してもとんでもなく硬い鉄で全部作れば確かによく切れるかもしれませんが、恐らく切ってる最中にすぐにぽきりと折れて使えなくなってしまうのがオチでしょう。実際に西洋で作られた刀剣は硬い鉄で出来ているためよく折れてたそうで、切るというよりも叩き割るように使われていたそうです。

 そこで日本刀の話に戻りますが、恐らく昔の刀匠も硬い鉄にすればよく切れるが寿命が短くなり、やわらかい鉄ならあまり切れないが寿命が長くなるなどとあれこれ考えた末に出した決断が、「じゃあ二つ一緒に使っちゃえばいいじゃん( ゚∀゚)」だったのかもしれません。
 日本刀が日本刀たる大きな特徴というのは実は硬度の異なる数種類の鉄を組み合わせて作る点で、おおまかに説明すると日本刀は心金と呼ばれる刀の芯の部分には軟らかい鉄を用い、その芯に対して硬い鉄をまきつけるかのように組み合わせて作られます。そのため戦闘で使用したとしても日本刀は芯からぽっきり折れるということはありえないわけではありませんが他の刀剣と比べて少なく、使用中に外側の硬い鉄の部分が刃こぼれを起こすことはありますがその点は手入れを施すことで再び使用することが出来ます。無論芯が軟らかい鉄だとしても実際に物を切る外側は硬い鉄なので、切るときにはきちんとよく切れます。その分手入れがかかせないんだけど。

 よく強固な意志のことを鋼の意志と言ったりしますが私は硬過ぎるだけの鋼というのはちょっとしたことでぽっきり折れてしまうだけに、期待や熱意を持ち過ぎるとかえって挫折しやすくなってしまうなど精神衛生上よくない気がします。実際に学校や会社に気合入れて入る人ほど予想と違ったなどとして五月病になる人が多いですし、それであるならば日本刀のように、外見は一応硬い意志で覆ってるように見せつつも内心ではいくらか浮気心というか下心など、多少軟弱な意志を保つ方が案外物事を長続きさせることが出来るように思います。
 私自身の経験でも自分の納得するくらい勉学に励もうと大学に入ったところ五月病に罹り、その反省から中国に留学した際は帰国用のオープンチケットを見ては、「いざとなったらいつでも逃げれる」などと不届きなことを考えていたら大過なく一年間の留学を終えることが出来ました。

 会社などにおいてもよく「辞めたい辞めたい」などと言っている輩ほど案外長く勤められたりしますし、目下の日本企業はどこも過重労働を社員に課しますが不況ゆえに我慢しなければと思いすぎると鬱になる可能性もあり、それであれば展望はないけどいざとなったらすぐ転職しようなどと思う方が、実際に実行するかどうかは別としていい影響を与えるのではないかと思います。

 こうした人に見せない内部において薄弱な意志を持つことを私は逆説的に「日本刀流鋼の意志」と呼んでるわけですが、中国に転職したばかりの私は目下のところ、契約期間が切れたら日本に帰るか中国の別の企業に転職するかなりしてさっさと今の会社はとんずらしようと早くも後ろ向きなことを考えてたりします。案外こういうところが日本人らしいかなという気もしつつ。

2011年1月3日月曜日

文章表現を鍛えるには

 このブログは他のブログと比して文章量が長め(そのくせ更新も頻繁)のブログですが、ブログに限らず私はプライベートでも以前はよく長い紀行文やら小説などを書いていました。その際によく周囲から、どうすればそれほど長い文章を書けるのかといった質問を多く受けていました。
 結論から言えば、中身を取らないのであれば文章を長く書くにはなんでもいいからひたすら文章を書くに限ります。それこそ人に見せるには恥ずかしいような出来の小説でも日記でもいいから日常的に書く習慣をつけていれば、二千字程度のレポート文などすぐに気軽に書けるようになると思います。

 ただ世の中、そこまで毎日文章を書く気もない人間の方が大半でしょう。そうでなくとも近年は国語教育がいささか疎かになっている雰囲気があり、小中学生では作文なんて真っ平ごめんと思っているのが当たり前です。実際に文章を書き始める前の私もそうでしたが、仮にそういった小中学生らに文章を上手に書かせるためには一体どう教えればいいのだろうかと以前に考えたことがあります。

 指導できる時間は授業時間中に限るとすると、先ほど言ったひたすら書かせるというやりかただと書かせる課題によって個々人に差が出来、あまり効率的ではありません。となると要点をしっかり認識させて短くてもいいから品のいい文章を書ける様にさせる方向がよいと思うのですが、そのためにベストな方法となると真っ先に思い浮かんだのは文章の省略です。
 この指導のやり方は実に簡単で、その日の日記でも評論でも感想文でも何でもいいからとりあえず四百字詰め原稿用紙二枚程度の文章をまず書かせます。書き終わったら今度は同じ内容の文章を原稿用紙一枚にまとめさせます。一枚にまとめ終えたら今度は百文字程度にまとめさせ、という具合に同じ内容でも徐々に書ける文字量を減らして書かせるというやり方です。

 この指導法の妙は同じ内容の文章を文字量を狭めながら何度も書かせる点です。同じ内容の文章なのだから文字量が減らされるとなると元の文章から余計な表現を削ぎ落とさねば書ききれなくなるため書き手には、「何を残して何を削るか」という視点が要求されることになります。残さねばならない箇所は言うまでもなく重要な箇所で、要点を絞ってまとめなおすという作業を行うことになります。
 この元の文章をまとめなおすということ自体は現在の国語教育でも行われていないわけじゃありませんが、その場合に題材に選ばれるのは大抵が教科書に載っている他人の文章で、その際書き手は文章の内容を理解しつつまとめなおすという作業を要求されます。

 しかし最初に挙げた私のやり方では元々自分自身が書いた文章であるため文章の内容を改めて理解しなおすという作業は必要なく、自分の考えなり思考をまとめるという作業に集中することが出来ます。これは文章のみならず自分の考えをまとめなおすことにつながり、思考の訓練にもつながるかと思います。

 よく以前のブログでも書いていましたが、これだけまわりくどくて長ったらしい文章を毎日書いておきながら、自動車の重心が低ければ低いほどいいのと同様に文章というのは短ければ短いほど良いのです。ただし短すぎて内容の理解が出来なかったり周辺の情報を伝え切れなければ意味がありませんが、同じ内容であるのなら短い文章の方が間違いなく格上です。

 文字量を狭めながら文章を何度も書き直させる指導の目的はずばりこの点にあり、要点を絞って書かせるということにあります。しかし要点を絞れといってもいきなり言われても自分の文章であっても急激に絞りきれないのが普通で、そのため徐々に狭めるという段階を経る事で自然にそれを認識させるのがこのやり方の目的です。

 理想を言えば最終的には日本語のリズムの元となっている五・七・五までまとめられればベストかななどと考えていたのですが、去年の十一月、また発表された国際学力テストの結果の報道の際に都内のある小学校における授業の取組みが紹介され、そのとき紹介された取組みというのがまさにここで私が紹介した徐々に文字量を狭めるという指導でした。
 その学校では毎朝児童に本を読ませて原稿用紙一枚程度の感想文を書かせると、徐々に文字量を減らしながら書き直させ続けて最終的には本当に五・七・五までまとめさせているそうです。その指導法だけによるものかどうかはわかりませんが、その学校は他の学校と比較しても平均学力が頭抜けて高い結果を出しているということも合わせて報じられてました。

 正直なところすでに自分が考えた指導を行っているところがあったという事実にまず驚きましたが、きちっと因果関係は図れないもののそれなりの結果を出しているという報道を見てやっぱりそうなのかという気を覚えました。文章というのは小手先の技術である以上に書き手の思考力も如実に現れたりするので、近年は英語教育の導入や増加、また理系離れ対策などが教育界で叫ばれていますが、文系出身文学部卒(専攻が社会学なのは文学部社会学科だから)の私としては作文教育の徹底こそが今の日本の教育に必要だと強く主張したいです。
 その一つの方法として、すでに実施している学校とともにこの指導法を紹介したかったわけです。

2011年1月2日日曜日

メキシコ麻薬戦争について

 決してこの方面に知識があるとは言い切れませんが、日本であまり大きく報道されていないことを考慮して紹介をしておこうと思います。

 日本で麻薬事件というとここ数年で起きている著名な芸能人への取り締まり事件が真っ先に思い浮かぶかと思いますが、現実問題として日本はそういった一部の人間が使用こそしているものの麻薬全体の流通量は少なく、取り締まり状況においても他国と比較しても悪くはない環境です。しかしその目を国外に向けると、マリファナなどに限り使用を合法化しているオランダやイギリスを除くとその弊害は凄まじく、現在私が在住している中国でも南部を中心に汚染が広がっている状態です。それゆえに中国では麻薬の使用のみならず所持だけでも死刑になるというほど厳罰で臨んでいますが、その広がりに歯止めをかけるには未だ到れておりません。

 そんな麻薬の取り締まりにおいて、現在最も大きな抗争とともに悲劇が繰り広げられているのがメキシコです。メキシコと聞くと私くらいの世代ならポンチョ来たおっさんが陽気にギターを弾きながら「ドンタコス」って言うシーンをイメージするかもしれませんが、以前ならいざ知らず現在のメキシコは治安が大いに悪化し、そのような牧歌的なイメージは薄れてきていると言われております。

 一体何故それほどまでに治安が悪化したのかというと原因はすべて麻薬にあります。2006年に就任したフェリペ・カルデロン現職メキシコ大統領は就任するや麻薬を取り扱うマフィアとの全面抗争を宣言し、この方面への取締りを全国で強化しました。日本で麻薬の取締りというと吸引者や密売人の摘発、もしくは空港での手荷物チェックや暴力団へのがさ入れなどが主に行われるのでしょうが、メキシコの場合はマフィア映画さながらに本来取り締まるべき警察官などもマフィアと利益供与していることが多く、またマフィア自体が多くの構成員を擁するとともに多くの非合法な武器を所持しているために軍隊に近く、それゆえにカルデロン大統領による取り締まりは「麻薬戦争」と呼ばれることになりました。

 現実に、事態は犯罪を通り越して内戦のような状態に到りました。
 取締りが始まってすでに四年が経ちますが、この間に政府側、マフィア側双方の取り締まりに関わる死者は三万人を超えており、マフィアの首領や自治体首長など要人の暗殺も頻繁に起こっています。またカルデロン大統領自身にも暗殺計画が企図されていたことが発覚するなど、どちらかが完全にくたばるまで終結の見通しが立たないほど事態は泥沼の様相をなしています。

 私は在学中、大学の講師に戦争というものは鳥瞰的にではなく匍匐的に見よと何度も教えられました。このメキシコ麻薬戦争についても字面では犠牲者を三万人と書かれていますが、その一人一人の犠牲者についてつぶさに見てみると目を覆いたくなるような事実に溢れております。

 マフィアとの抗争の激しい地域では警察官はおろか知事などもマフィアに協力しているところも多く、なまじっか中央から取り締まりのために新たな捜査官が派遣されたり取締り推進派の人物が新たな知事が就任するや暗殺されることも多いそうです。特に警察官の犠牲については数限りなく、先日も22人いた同僚が皆すべて殺されたにもかかわらずただ一人で活動していた女性警官が誘拐される事件が起こりました。誘拐と文字で書けばただ二文字ですが、その後の運命は他の犠牲者の末路を見るにつけ推して知るべしです。マフィアという組織だけに大抵はその後任への脅迫が伴うため、遺体には凄惨な拷問の痕が残され、切断された状態で各所へ送りつけられていると聞きます。
 犠牲者は本当に女性や子供を問わず、また加害者も女性や子供を問わないとされ、14才にも関わらずマフィアの指示の元に殺人、遺体処理を行っていた少年が逮捕される事件もこの前に起こっています。

 麻薬吸引は犯罪だが、周りに迷惑さえかけなければ逮捕される可能性を含めて自己責任で吸いたい奴が勝手に吸えばいいという言葉をたまに聞きます。吸わないし興味のない人間からすれば確かにそのような感想を持つのも不思議ではありませんが、その誰かが吸っている麻薬の入手経路でどこかのマフィアが利殖を稼ぎ、このような非道を行う源泉となっていることを考えると果たしてそれでいいのかという疑問がもたげます。そういう意味で私は麻薬を吸わない人も興味を持たない人もこの麻薬問題に対して無関心でいるのではなく、特別に何かをする必要まではありませんが麻薬とその常習者を憎み、社会的な防圧を作る一石となるべきではないかと考えるわけです。
 麻薬を悪だというのは簡単です。本当に憎悪するには国内にとどまらず国外の事実に目を向ける必要があるでしょう。

 最後にメキシコの麻薬事情についてもう少し述べると、麻薬以外にほかに生産手段の乏しい南米諸国が一大消費地であるアメリカへ輸出する過程でマフィアが発達していったと言われています。それゆえに今のメキシコの麻薬問題の主犯はアメリカだ、むしろアメリカがマフィアを応援しているなどという話も聞きますが、その一方で近年はカルデロン大統領を支援するアメリカ要人もおり、クリントン国務長官などはメキシコを訪問するなど取締りを応援しているそうです。

2011年1月1日土曜日

フランスの人口の歴史

 普段はケチな癖して、今日お茶の専門店にてやや高価な急須を150元(約2250円)で購入しました。内心どんなものかとはらはらしていましたが、お茶を入れてみるとしっかり注げてなおかつ質感もかなりよく、こっちきてから一番満足する買い物になったとほくほくしてますが、先週買った毛布(170元)と同じくらい急須にお金をかけるあたりが自分らしい気がします。

 ちょっと別の内容のことについて思索に耽ってた際に思い出したので、今日はフランスの人口について話をしようと思います。

 現在、日本は少子化の一途を辿っている事から早くに少子化対策を行って成功を収めたフランスの政策を見習うべきだと各種評論家から政治家まであちこちで発言しております。ではそんなフランスの出生率は実際どんなものかというと、ネットで簡単に検索をかけて見たところ2008年時点でぴったり2人で、去年はさらにこの数字から上昇していると報告されております。対する日本の出生率は同じ2008年だと1・3人で、確かにあちこちで言われる通りにフランスと比較すると歴然たる差があります。
 その一方でそもそもの話、それぞれの国の人口はどれくらい差があるのでしょうか。こちらもお手軽簡単のGoogle publicdateでちょちょいと調べて見ると、なんと日本が約1億2700万人に対してフランスはその約半分の約6200万人しかありません。

 こうして比べて見ると確かにフランスは出生率において日本を遥かに凌駕しておりながらも、母体の人口となると約半分というちょっと心もとない数字をしていることがわかります。参考までにほかの欧州先進国のデータと合わせて出すと、

日本:約1億2700万人
フランス:約6200万人
イギリス:約6100万人
ドイツ:約8100万人
イタリア:約6000万人 (出典:www.google.com/publicdata)

 私自身も高校生くらいのころは日本は労働力が足りないとよく言われるから人口が少ないと勘違いしていましたが、実際には日本は欧州先進国と比較すると非常に人口の多い国で世界中で比べても第十位に入る国です。どうでもいいけど今Wikipediaで国別人口の順位調べようとしたら、一瞬開いて急に閉じました。恐らく中国政府がまたアクセス禁止をしているんだろうけど、国別人口順位の何が中国にとってまずい情報なのだろう?

 話は戻ってフランスの人口の話ですが、まぁ確かに出生率が高いからといって人口も多いとは限らないので決しておかしな話ではありませんが、歴史を紐解くとフランスはかねてより人口が低く、その対策に苦慮してきたという経緯があります。

 中世までフランスは早くに絶対王政を確立させたことからヨーロッパの中でイギリス、オーストリアと争う一等国で当時は他国と比較しても国力も人口も多い国でしたが、18世紀にフランス革命が起こり、その中で台頭してきたナポレオン・ボナパルトがヨーロッパ全土を舞台にした俗に言うナポレオン戦争を引き起こしたことからこれが暗転することとなります。一説によるとナポレオン戦争全体の犠牲者は200万人を超えるとされ、現在においてもこの数字は膨大ではありますが当時の人口は現在より数段階低かったことを考慮すると、もはや致命的といっていいほどの喪失といっていいでしょう。特にナポレオンが君臨したフランス本国での人口減少は著しく、それまで勝っていたイギリス、ドイツに追い抜かれることとなり、確か20世紀を通して一度もフランスはこの二国に人口が上回ることがなかったと思います。

 現在は社会保障負担などがあるので一概に言い切れませんが、当時の国家にとって人口が多いか少ないかは国力を左右する上で重要な要素の一つでした。労働力はもとより戦争の兵隊要員など、これらの点において人口は多ければ多いほど有利となるわけですがフランスはその人口でナポレオン戦争後はライバル二カ国に水を空けられる形となったわけです。

 そこでフランスが取った政策が、1831年に創設されたLégionことフランス外人部隊です。これは現在でも存在し続ける文字通りフランス国籍でない外国人によって編成される部隊のことで、最近は厳しくなっていますが適格さえあれば少し前までは多少の犯罪歴なら黙認されて誰でも入隊でき、一定の契約期間を兵役で過ごすことによってその隊員にはフランス国籍が与えられる制度です。

 フランスは自国の不足する兵員を補うためにこのような外人部隊を創設したわけですが、これ以外にも二次大戦後は復興のために旧植民地の国々から移民を受け入れたりなどと人口に関する政策を比較的早い時期からあれこれと取り組んでいます。現下の出生率対策もこの移民政策と連動しており、いうなればそのルーツは昨日今日始まったものではなく相当な期間を経て形作られたのではないかと私は考えています。

 ここで私が何を言いたいのかですが、また随分と回りくどくなってしまいましたが日本は少子化対策をどうするかと現在あれこれ議論をしていますが、参考対象として挙げられているフランスは人口問題に対してこのように長い期間かけて作られた問題に対するベースがあります。また現時点においてもフランスは日本と比べて人口が大いに少なく、その人口に対する意識というか危機感というか、その価値観は日本とは比べ物にならないくらいに強いのではないのではないかと個人的に思います。

 これは逆を言えば今の日本人がフランス人のように人口問題を意識しているか怪しいということで、一部の人は真剣かもしれませんが日本人全体となるとこの少子化問題にそこまで真剣に考えることは難しいんじゃないかという気がします。
 もちろんフランス人がどれだけ人口について考えているか私には推し量る余地もないですし本当かどうかは全くわかりませんが、少なくとも歴史的背景を考えると概念に違いがあるのではないかと思います。

 よく歴史は何の役にも立たないといわれますが、現実の問題を考える際にその根本を探る上で重要なツールになると考えています。今回のフランスの人口問題はその好例だと考えており、こうして紹介してみることにしました。