ページ

2011年10月17日月曜日

世界同時格差デモについて

 日本のニュースでも報じられているかと思いますが、昨日の日曜日はニューヨークのウォール街で起きたデモをきっかけに世界各都市で格差反対を訴えるデモが実施されたそうです。デモの中心となったのは若者たちとのことで、就業機会や親の世代と比べた収入の少ない現状を訴えたとのことですが、日本でもこれに触発されて一部でデモがあったようですが、個人的に今回のデモについてはなんだかあまり共感が出来ませんでした。
 私は常々このブログで日本における若者の現状と問題性を挙げては是正を訴えてはいますが、恐らく東日本大震災があったからだと思いますが今そんなことを言っている場合かと思うのと同時に、具体的な改善策や改革案の議論が見当たらないから今回共感が出来なかったんだと思います。

 まずそもそもの前提の話として、20世紀にどうして資本主義国はあれほど繁栄できたのかという理由を説明します。これは堺屋太一氏の主張ですがきわめて単純明快に、当時は石油というエネルギーがほぼタダ同然に無制限に西側諸国で使えたからこそ繁栄できたので、石油資源の枯渇や環境問題が持ち上がってきた現代においてあの時代を再現することは完全に不可能と堺屋氏は言っています。よく経済学者はもっともらしくあれこれ理由を付けて20世紀の世界経済を語りますが私はこの堺屋氏の話が最も正解に近いと考えており、それ故にあの繁栄の時代はよっぽど劇的な発明がされない限りは来ないと考えており、日本もみんなが大学出て就職してマイホームを買うようなことはもうありえないと割り切っています。さらに言えば、今の日本はあの20世紀という繁栄の時代に作った貯金を切り崩して生きているような状態で、既にヨーロッパ各国ではその貯金すらも使い果たして破綻し始める国が出てきていますが日本も年金制度や社会保障制度をドラスティックに切らない限りは対岸の火ではないでしょう。

 ちょっと本筋から外れますが前から言いたかったこととして、現行法の社会保障制度は小泉時代に大分切り捨てましたがそれでも制度の骨格はバブル前に作られており、当時の税収を元に支出額などが決められています。すでに述べているようにあのバブルの時代なんてもう逆立ちしたって来ないんだから、制度を維持出来るなんてありえないのです。むしろ維持すれば維持するほど借金が増えるだけでしょう。

 話は戻しますが、もうあの繁栄の時代は来ないというのは前提としてでは今は何をすればいいのかですが、これまたごく単純に社会を維持するためにどれだけ基準を切り下げればいいのかということだと私は考えています。言ってしまえば生活レベルを含め裕福さをどれだけ切ればいいかということで、最低防衛ラインを設置することが急務だと考えています。
 最低防衛ラインと言えば聞こえはいいですが、実質は要するに何年から何年生まれには死んでもらうということです。かなり極端な表現を使いますが、これくらい言わないと真面目に意識されないんじゃないかと昨日のデモとか見ていて思いました。

 ちなみに私が設定している防衛ラインは、社会保障支出が史上最も最大となる期間を団塊の世代(1946~1948年)が年金を受け取り初めて大半が死ぬまでの期間と設定し、仮に平均寿命を80歳とすると2028年までが最も日本が財政的に苦しい時期ということになります。この2028年、前後期間を考えて2030年とするとこの間に現役世代となる自分を含めた日本人は後の世代のための捨て石とばかりに、必死で国を支える必要があると思います。具体的な細かい中身までは言いませんが。
 そんなことをしてまで国を維持する必要があるのかとかつては自分も疑問に感じたことがありますが、ソ連崩壊後の混乱の話やイランやアフガニスタンの現状を見るにつけ、いくらか国民を不幸にさせるとしても国家を維持することの方が相対的には国民は幸福だという考え方が自分にはあります。

 今現在でこそ海外で働いて暮らしている自分ですが、幼少時に一応まだすこし余裕のある頃の日本を体験させてもらったこともあるので、いつかは日本に帰らなきゃなと思っています。さらに言えば海外に出ることが日本のためだという人がいますが、決してそうでもないんじゃないか、日本に残り続けることも大事なんじゃないかと今日この頃思います。こういった話が、昨日のデモとかで出てくれば面白かったんですが。

2011年10月16日日曜日

見た目と中身のギャップについて

 昨日の記事でも軽く触れていますが、私の見かけは周りから聞く限り、かなり大人しそうに見えるそうです。そのように見られることについて私は特段抱く感情はないのですがこの手の奴でちょっと面倒だと思うこととして、外見に抱くイメージと中身が一致していなければ怒り出す人間が一部にいることです。

 まず大きな前提として、私は外見と中身(=性格)が一致しないというのはままあると考えています。あまりにも老け顔過ぎて並んで歩いてたら「何、君の先輩?」と別の知り合いに言われた私の後輩なんか下手したら私より大人しそうな外見していますが、権力に対する反発心とかそういうものは自分以上にやけに強いですし、また別のある友人なんか病弱そうに見えて長友選手もびっくりなタフネスを持ってたりします。
 こういう風に外見と中身は一致する人もいれば一致しないと私は考えているのですが、私が見る限り世の中そういう風に考えている人間に占められるわけじゃなく、むしろ外見と中身が一致していなければおかしいと思う人間も少なからずいると思います。

 具体的にそのような人間はどんな感じかというと、たとえば私の場合は普段が大人しそうに見えるためにそういった「大人しそうな」身振りや行動をするものだと考えている節があり、たとえばこのブログでやっているように何がしらかで意見を言ったり反発することもあれば、「なんでお前がそんなことを言うんだ」などと、意見の内容以前に意見を発言したことをとがめられるという経験がこれまでに何度もあります。
 私としては見た目でなんでもかんでも人間を判断しようとする時点であまりそういった相手とは関わりたくないと考えるため、無駄に接触を続けるくらいならとそのままイメージに抱かれるステレオタイプな行動を演じることもあります。いわば期待されている役割を演じるような具合で、過激な行動や発言は可能な限り控えるようにします。

 こうした私の体験談などはどうでもいいのですが、ここで私が言いたいことは多かれ少なかれこういうことは世の中にあるのではということです。外見で抱かれるイメージに対し周囲が期待する行動を本人も実行する、中にはそれが定着して外見と中身が一致していくという。社会学はこういう相互作用的な話を好む傾向があって私もそういう背景があってこういう考え方をするのですが、別に「本当の自分はこんなんじゃないっ」なんてマンガみたいなセリフを言うつもりはなく、中にはそうしたイメージを逆手にとってくる食わせ物もいるわけで、よくよく外見にこだわらず相手を見極めることは大事だというのが今日の私の意見です。

2011年10月15日土曜日

香港で気になる点

 香港に来てからそれなりの日数が経ちましたが、このところ街中を歩いていて気になる点が一つあります。その点というのも、非常に高齢者が多いということです。

 香港の話をする前にまず北京や上海といった中国本土の説明をしますが、この二都市ははっきり言って非常に若者が多い都市。中国は一人当たりGDPがまだ他の先進国の水準にまで達していないながらもなかなか平均寿命の高い国でもちろん老人も見かけますが、それにしたって繁華街を眺めていると日本の主要都市と比べて非常に多くの若者がたむろし活況を呈しております。
 それに対し香港ですが、大抵どこ行っても街中を歩いているのは中年以上の人ばかり、また60歳以上の高齢者の姿も非常によく目立ちます。逆に十代や二十代くらいの若者の姿はもちろん存在するものの、あくまで私の実感ですが歩行者より小売店で働いている姿の方が多いんじゃないかという気すらします。

 そこで早速、明治大学が便利なものを作ってくれていたのでこのサイトで調べてみましたが、2010年における65歳以上の高齢者の人口割合は日本が22.7%で世界1位であるのに対し、香港は12.7%で44位と比較的高い数字ながらも思ったより差がありました。どうも私の実感とずれたデータではありますがこのずれの理由に敢えて考察すると、日本の高齢者は地方に多い存在するため東京や大阪といった主要都市では平均値より若者の割合が多くなる傾向があるのに対し、香港の場合は狭い土地なだけに実数地が直接街中に出ている可能性があります。少なくとも私の感覚では東京の姿以上に香港は年寄りの数が多いように見えます。

 ちょっと話が変わりますが以前に日本のテレビか何かであった気功整体師のインタビューにて、気功を行う上で若いエネルギーというのは非常に重要なため、その先生は週に数回必ず渋谷など若者が集まる場所で散歩すると語っていました。この話が本当かどうかまでは科学的にどうこう言いませんが、実感としては私もその通りだという意見を持っています。
 やはり上海の街中を歩いていて日本と違うと感じるのは若者が多い点と、街全体がどこか明るいというところです。無論景気状態が違うというのもありますが日本にいたころは何か目には見えない圧迫感というか倦怠感が常に付きまといましたが、上海での生活ではそういったものはあまり感じられません。

 昔に誰かが言っていましたが、金銭的に苦しいからと言って必ずしも気分を暗くする必要があるわけでもないにも関わらず、何故だか日本は全体的に非常に後ろ向きになっているという話がありました。このブログでも何度も書いていますが一般的な中国の若者の収入は日本の物価格差を考慮しても低水準なままですが、それでもその表情は日本の若者と比べて非常に明るさが感じられます。
 ただ今回香港に来てみて、そうした表情の明るさが香港の若者にはないのではというように思いました。それでも日本の若者に比べればまだどことなく楽しそうではあるものの、なにかどこかで深く考えているような、何も悩むことなくて楽しそうな上海の若者と比べると明らかな違いを感じます。

 もっともこんなことを言いながらですが、周りからは私の表情が明らかに最も暗そうな感じだとよく言われ、「てめぇの辛気臭い表情が嫌いなんだよ」とこれまでに実際に何度も罵倒されたことがあります。その一方で親しい友人らからはごくたまに、「自分の周りで一番学生っぽさが抜けていない、理想を捨ててない顔してるね」と言われることがあります。この辺については機会も機会なのでまた次回あたりにでも書こうと思いますが、社会的な空気はやっぱり明るいに越したことはなく、なんか香港は歩いてて妙に疲れるからまた猫カフェにでも行こうかなと思案中です。

2011年10月12日水曜日

アルバイト人口を考える

 なんかこのところ経済関連の記事が多くて自分でも嫌なので、ムキになって無理矢理カテゴリーを「社会」によく変えてます。まぁそもそも、日本にいないのに日本社会を語るというのいろいろとあれですが。

 話は本題に移りますがよく人に話して驚かれる話として、中国には学生アルバイトは基本的に存在しないという話があります。日本、ひいては欧米においては大学生は多かれ少なかれアルバイトを経験するものだという認識、というよりは社会慣習がありますが、これが韓国は知らないけど中国においては事情が異なり、基本的に大学生向けアルバイトは存在しません。一体何故中国の大学生はアルバイトをしないのかというと理由は簡単で、アルバイトをしようにも仕事先がないからです。

 最近は大分事情は変わってきましたが、中国は未だに労働力が豊富な国です。そのため日本でアルバイトが雇われるような3K職場(これももう死語だ)、外食や小売りの現場などにおいても変に大学生のパートタイマーを雇うくらいなら地方からやってきた中学や高校を卒業してきたような子らをフルタイマーとして雇う方が効率がよく、大学生が入り込む余地が全くと言っていいほどありません。
 そのため中国の学生というのは基本的に生活費用は親からの仕送りに頼るほかなく、貧しい家だと大学生活も厳しいものが迫られるという現実があります。私はあまり好きではありませんがコラムなどを書いている石平氏などはこうした中国の大学生と比べ、日本の大学生は確かに勉強はしないかもしれないが社会的経験も豊富で決して劣っていないと主張しており、痛し痒しですがそうかもしれないという認識を持っています。

 と、ここまでの話でもそこそこブログに書く価値はありますがちょっとこのネタを考えていて気になった点として、逆にもし今の日本で大学生みんながアルバイトをしなくなったら、という妙なお題が思いつきました。
 結論から言うとまず間違いなく先ほど挙げた外食、小売り産業は成り立つことが出来ず、廃業するか値上げするかのどっちかが迫られることとなります。パートタイマーの代わりにフルタイマーの従業員を雇うため人件費を増やすという選択もありますが、私の予想だと人件費を上げたとしてもやはり人員が集まらず、サービスを維持することは出来なくなるでしょう。現実に産業が成り立たなくなっている例として農繁期における農業が既にそうで、前にテレビインタビューで見ましたが昔は夏休み中の大学生が来てくれたが最近は募集をかけても誰も応じないため、中国などから募集する外国人研修生に頼らざるを得ないそうです。

 私がここで何を言いたいのかというと、日本社会は意図してかどうかまではわからないものの、大学生をアルバイトで働かせることによって正社員以下の最低賃金を維持し、経済を回し続けてきているということです。これはつまり大学生アルバイトがなくなると経済が回らなくなるということで、「社会も知らない学生がえらそうな口をきくな」と一部の正社員は言うかもしれませんが、その学生なしでやってけない体制を維持しているのは誰なのかということにもなり、「口のきき方に気をつけろ」と学生アルバイトは言い返してもいいかもしれません。
 こうした視点で見てみると、ちょうど少子化傾向が目立ってきた90年代中盤くらいからフリーターという言葉が生まれましたが、もしかしたらこの学生アルバイト層の埋め合わせをするために新たな低賃金層を作る必要があって作られた言葉だったかもしれません。さらに言えば、バブル期によくアメリカさんに日本はダンピングをしていると非難されましたが、ある意味そうだったかもしれません。

 ただこんなことを主張するからと言って、もっと最低賃金を上げろだとかそういうことまでは私は言う気にはなりません。現在の私の給料は昨今の円高のせいもありますが現地物価は低いものの日本円にして約10万円強で、さらに現地中国の同年代の若者はさらに低い給料で働いております。以前も日本から来た人と上海のレストランで食事した際、多分17か18歳くらいの若いウェイターが夜遅く、忙しく動き回っているのを見て色々とショックを受けてましたが、日本以外の国ではこういうのは当たり前です。
 それでも敢えて一言苦言を呈すなら、学生アルバイトに頼るという惰弱な経営体質からは早く脱却した方がいいというのが、今日の私の意見です。

2011年10月11日火曜日

香港にある猫カフェ



 先週に着任してこの前の土日は暇してたので、日用品などを購入した後は日がな昼寝をして過ごしましたが、日曜に近くに猫カフェがあるとガイドブック(地○の歩き方)に載っていたので、試しに行ってみることにしました。
 ここだけの話、元々学生時代に長い間喫茶店でバイトしていたのでやけに古びた喫茶店に出入りすることが多いです。中にはレトロすぎて友人が嫌がるのを無理やり引っ張って入ることも少なくないですが、猫カフェなどといった色物系喫茶店には後輩にせがまれてメイド喫茶に一回だけしか言ったことがありませんでした。それにもかかわらず、しかも香港で猫カフェに行こうとしたのはよっぽど暇だったんだと思います。

 そんなわけでやってきた猫カフェですが、まずガイドブックにも書いてありましたが店舗の入っているビルは繁華街にあるもののどう見たって雑居ビル、それもヤクザが出入りするような汚いビルでした。香港自体が土地が狭いのに人がたくさんいるもんだから高層ビルを呆れるくらいに立てて空がリアルに見えない場所ですが、まさかこんな雑居ビルに本当に猫カフェがあるのか少々疑いました。そしたら後ろからやってきたカップルがビルの警備員に、「猫カフェは何階?」って聞いてたので、そのまま自分もついていきました。



 まず店内に入ってみると入り口付近でどかっと座っている猫、上記写真のように寝ている猫がおり、さすがは客商売に慣れているのか見知らぬ人間が来てもおびえたり警戒する素振りは見せませんでした。そのまま客席に着くと周りはやはりというか若い女の子ばかり(やけにメガネをかけているのが多い)で、男一人で来ているのは案の定自分だけでした。
 とはいえ外国なんだしそんなのいちいち気にせずに昼食を兼ねてパスタを注文しながら周りを眺めましたが、店内は喫茶スペースとともにクッキーなどのお菓子教室もあってそこそこ広かったです。店内に徘徊する猫の数は大雑把な感じで8匹くらいで、我が物顔と言ってはなんですが客を気にせずあちこちを動き回っていました。




 個人的に気になった点はどの猫も成猫なのはともかくとして、やけにデカい猫ばかりだったのが何故だか気になりました。もちろんでかい猫はそれはそれでいいんですが、できればもっとちみっちゃい子猫とかも触りたかったのに、「年増ばっかりじゃねぇ」などと親父くさいことを言いながら女の子に混じって写真取ってましたが、店を出てみてその理由がなんとなく察しがつきました。
 これはあくまで私の予想ですが、猫カフェのある同じ階にはペットショップがあり、もしかしたら猫カフェの猫たちはこのペットショップで売れ残った猫たちなんじゃないかという気がします。というのもうちの実家の猫もそうでしたが、ペットショップで売られている猫たちは小っちゃくてかわいい子猫として売り出すためにあまりエサは与えられないそうで、家で飼われ始めるとその反動で異常にエサを食べ同クラスの猫に比べて異常にでかくなることが多々あるそうです。実際にうちの実家の猫がその口で、以前に買っていた猫と比べるとその差は歴然で、私の友人がうちに来ると、「やけにでかいなこの猫……」と妙におののきます。猫の世界も楽じゃないんだなぁとしみじみ感じます。

香港特別行政区の日々



 ここ数日また更新が空きましたが、ただ単にサボっていたわけじゃなく物理的にネットが出来ませんでした。一体どんな環境にいたのかというと友人らへの広報も兼ねてスパッと言いますが、先週から出張の関係で香港に来ています。

 出張と言っても滞在期間は年内と言われており、今年はこのまま香港で年末まで過ごす予定です。何気に香港に来たのは今回が初めてですが、主要言語は広東語のため、中には北京語も使える人がいるもののやはり英語のが通じやすいこともあって会話時に色々混乱することが多いです。と言ってもこういってはなんですが本土と違って人が良くできているというか、細かく言わなくともすぐにこちらの意図を把握して対応してもらえるのですこぶる居心地がいいです。

 また既にいろいろ回っていますが中国本土と違ってネットの規制がないおかげで約一年ぶりにFC2の自分のサイトとか見ましたが、普通にアクセス数がカンストしかかっているほど未だに閲覧者が来ており、そっちに来るくらいならこっちに来いよとむなしい気持ちを覚えました。一日70人とか増加したらどれだけアクセス順位が上がるんだって。

 このほか香港にいて自分が感じたことなどはまた明日以降に書く予定ですが、今ここで声を大にして言いたいのは自由というのは大事だということです。別にどこかの国に対して言ってるわけじゃないですから、念のために。

2011年10月6日木曜日

仏教だけが何故多神教で生き残ったのか

 よくある宗教議論でキリスト教やイスラム教など、どうして一神教の宗教はこれほどまでに強くなったのかという議論がありますが、こうした議論を見るたびによく、逆にどうして仏教だけが多神教なのに世界三大宗教としてまだ頑張っているのかの方が不思議じゃないかと日頃考えています。

 先に一神教がどうしてこれほど強くなったのかですがこれは実に簡単な議論で、多神教の宗教に比べ政治に食い込もうとする執念が半端じゃないからです。こうした傾向は異教を認めないというような排他的な性格を持つ宗教の特徴として共通しており、日本仏教の中でも例外的に排他性が強い日蓮宗などはどの時代においても政治に参入しようとする動きが強く、現在においても日蓮宗系の創価学会が支持母体の公明党が相当の議席を持つなど、理屈はともかく実証的にははっきり出ています。

 話を本題に戻して多神教ですが、基本的に一神教と比べるとやはり弱いです。これまでにあった多神教を挙げると、ギリシャ神話、ゾロアスター教、古代エジプト神話、アステカ神話などがありますが、一部で進行が残っているもののどれもがかつての隆盛はどこ吹く風かほぼ消滅しております。逆に今でも残っている多神教としては今日の本題の仏教をはじめ、日本神道、ヒンズー教、道教と、見てわかるとおりに東アジアに集中してます。ただ単に西側世界に詳しくないだけかもしれませんが、少なくとも世界ベースで認知されている多神教と言ったら仏教に限定されるでしょう。

 私自身がそれほど宗教学に詳しくないのもあるのでごねごねと書く気はありませんが、仏教がキリスト教、イスラム教といった一神教勢力に駆逐されずに残った理由としては一つは信仰された日本や中国といった国で長期間根付いていたこと、また植民地にならなかったことが大きいでしょう。その上で宗教的な性格も加味するのであれば、これは神道や道教に顕著ですが仏教は他の宗教と融合しやすい性格があり、いい意味でいい加減さが強かったからだと思います。ヒンズー教でもブッダはヴィシュヌ神の化身の一つと言われるそうで、これは多神教全体に共通する特徴かもしれませんが、元来あった宗教と融合して行事などが習慣化することで意識せずとも信仰される宗教となっていくのかもしれません。

 ただ世界的な信仰者割合でいうと目下のところイスラム教のみ増えてて、仏教とキリスト教は減り続けている状況だと言われております。こうした状況について一部では、業界では有名なE・フロムという人の主張した「自由からの逃走」という理論に基づいて、古くからの慣習や生活形態が変化して行動の自由度が広がった分、拘束要素の強いイスラム教が人気なのではという意見がありますが私もなんとなくこうなんじゃないかなという気がします。
 ちなみに仏教は坊さんにならなければ比較的自由ではありますが、坊さんの生活というのは浄土真宗を除けば世間で思われている以上にかなり厳しいとよく聞きます。前に曹洞宗で修行している人に話を聞きましたが、よく静かな環境で瞑想したがって来る人が多いものの、実際にやるのは掃除がほとんどだそうです。しかもその掃除も、「何も考えず、ただ掃除を続けよ」といった具合でやるそうで、想像してたものと違って門を叩いたもののドロップアウトする人が後を絶たないとのことです。

 個人的に私は日本人というのはいい加減さを大事にする民族で、いい加減さを売りにする浄土真宗なんかはある意味で日本民族の文化の結晶のようにも思います。ただこのところやけに親鸞学派を名乗って講座参加を呼び掛ける団体が増えていると聞き、なんか違ってきてるんじゃないかとやや危惧するものを持っております。