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2016年9月15日木曜日

最近買った漫画、主にヒナまつり11巻

 昨夜、待ちに待った念力使える少女とインテリヤクザのドタバタギャグ漫画「ヒナまつり」の11巻が発売されたため、深夜にもかかわらず電子書籍版をダウンロードして(何度も失敗しつつ)夜中に笑い転げてから眠りました。この巻に収録されている話の中身についてネット上では、「くつ、なめますから!」というセリフが見どころとしてよく取り上げられていましたが、個人的に一番ツボにはまったセリフは、「新田が不幸過ぎてヤバイ」でした。

 この漫画は結構巻数を重ねていますがギャグの切れは全く落ちておらず、対抗馬の「監獄学園」がやや引き延ばし傾向が目立ってきて面白さがなくなってきたこともあり、今連載中の漫画の中で何が一番面白いかといったら私の中では間違いなくこの漫画が上がってきます。
 この漫画のギャグの特徴としては、話の構成が優れていることもさることながらこの作者はコマを外さないというべきかここぞというところで確実に大ゴマを振り、そのコマが見事なくらいにその直前の場面からの展開が上手く、単純コマ使いが非常に上手い作者だと思います。なんでもこの漫画がこの作者にとって初めてのギャグ漫画だったそうですが、どうしてこれほどのセンスをそれ以前からも発揮できなかったのか不思議に感じるくらいの凄みを覚えます。

 引き続いて別の漫画ですが、Kindleで1~3巻が無料だったので「無限の住人」も購入しました。タイトルだけなら前から知ってて擬音に漢字が使われるっていうこと以外は全く知らなかったのですが、読んでみてこれもとても面白かったです。内容は江戸時代を舞台にした自体劇物で、父親を殺された一人娘が仇討のため切っても刺しても死なない不死身の剣客を雇うという話ですが、剣客物のだけに戦闘シーンが非常に多いものどれも見事な画力で表現しており、動きも激しいながらきちんと描き切っています。しかも背景もめちゃきれい。
 ただ、この漫画を読んでて気になったのは画力よりも画風です。作者の沙村弘明氏のWikiを見ると美大学生時代は大友克弘氏の影響が強かったと書かれていますが、この無限の住人に関して言えば一目見て、「ああ、冬目景だ」と思いました。っていうか「黒鉄」。

 冬目景氏というのはこちらも漫画家で一般層の認知はそれほど高くないものの熱狂的なファンが非常に多い作者であるのですが、沙村氏の漫画を見て何故冬目氏が出てくるのかというと画風が完全に一致しているからです。どちらも非常に特徴的な描き方をしておりページ全体がデッサン風にクロッキーで書いたかのようなざらざらとした質感の絵で、風景画の中に実際の頭身に忠実なキャラクターが動くような描き方をしています。
 それもそのはずというか冬目氏は沙村氏が美大で入っていた漫研の先輩だったそうで、冬目氏によって沙村氏は女装させられたこともあったそうです。っていうかひどくね?

 最後、これは今日一気に六冊まとめ買いしましたが「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」です。この前にやってた火砲の歴史で西欧で初めて火砲が集中的に軍事運用された戦争はフス戦争だと書きましたが、まさにこのフス戦争で銃火器を使って戦ったフスは農民軍に参加する少女を主人公とした漫画で、前からも興味ありましたがフス戦争についてちょいと調べたし、ちょっとメジャーでない漫画を読みたいと思っていた矢先なのでマルクス主義的に今が買い時と決心して買っちゃいました。なお私が「マルクス主義的に」という言葉を使う際は、「空虚な、意味のない」という意味合いで普段から使います。
 この漫画を読んでて思ったのは、ストーリーについては実際の歴史をよく読みこんで非常によく寝られているなと思い、絵については当時実際使われたマスケット銃、大砲、ワゴンなどをしっかりと書かれてあり歴史を題材に取った漫画としては必要十分な条件を揃えているという気がします。ただ少し気になった点としてはただでさえ一般人に馴染みの薄い中世ヨーロッパ世界で神聖ローマ皇帝や教皇、プラハや公会議といった単語が頻出され、読者の理解が追い付く前に展開が早く進んでしまっているのではと思う節があります。

 漫画において展開は早ければ早いに越したことはありませんが、歴史漫画の場合はどうしても歴史背景や事実関係を読者が追わなければならないため、背景や補足説明なりをナレーションやキャラクターを使って行わなければならず、この「乙女戦争」もやってないわけではありませんがもうちょっと多めにやっておいた方がよかったのではという気がします。あと、戦争の場面ではもう少し火力の威力がわかるように表現できればというか、はっきり言って表現しきれていないとも見え、この辺りは少しテコ入れすればかなり良くなる場所であるようにも見えます。
 なおこの漫画でうちでも外でもいつでも素っ裸のキリスト教異端派が出てきて彼らが登場する会はいつも彼らは素っ裸でいるのですが、みんながみんな素っ裸でいる場面を見る度に私の中では漫☆画太郎氏の名前が何故か浮かんできます。


     

2016年9月13日火曜日

蓮舫氏の二重国籍問題に関する嘘

 最近誰も話題にしなくなりましたが夏目三久氏と有吉弘行氏のあの結婚騒動は一体何だったのかなとふと気になりました。文春が後追い報道しなかった時点でデマだとすぐわかりましたが、「生放送で否定していない」、「事務所がきっと隠している」などとこのデマを必死で信じようとしていた連中はなんだったのかな。
 今日の話はホットな話題というか説明するまでもない蓮舫氏の二重国籍問題についてです。結論から言えば議員辞職してやり直せというよりほかなく、この期に及んでまだ嘘をついている点を含め他人に厳しく自分に甘いその態度は軽蔑に値するでしょう。

 まずこの問題の第一報を報じた媒体について、当時ちょっと確認していなかったのですが先程ネットで調べた限りだとアゴラだったように言われています。本来、他のメディアがこのような疑惑を報道する際はちゃんと情報出所を書かないといけないのですが大手紙なんかは以前も週刊誌発の疑惑を出典をごまかして報じるなどこのところ呆れた態度を取ることが増えているだけに、今回も出典がアゴラだと書かないし言わないのも納得できる上、私が把握していなかったのもそれが背景だと思われます。
 なお実際私も経験していますが大手紙の雑誌、ネットメディア軽視は非常に根深いものがあります。ひどいのは私の昔の編集長で、私が取材して聞き出した内容よりも他の大手紙の間違った記事内容を信じて、「嘘書くんじゃねぇ!」と散々に罵倒された挙句、私の書いた記事内容が後でやっぱり正しかったとわかるや、「じゃあそのまま出して」とスルーされたこともありましたが、ライター内でも「大手紙の記事は神聖にして不可侵」という概念があるから鬱陶しかった。

 話は戻りますが今回のこの騒動では大きく二つ問題があると私は考えています。一つは言うまでもなく蓮舫氏が二重国籍を保持したまま国会議員をやっているという点で、二重国籍を認める国も確かに存在しますが日本の場合は成人には認めておらず(未成年はOK)、蓮舫氏の現状は間違いなく法律違反を犯している状態です。まぁ捜せばほかにいくらでも出て気はしますが、法律に違反し続けている人間が国会議員をやってるなんて冗談もいい所で、ましてや国籍という非常に基礎的な条件でやらかすなんてわざとでないにしても笑わせるなと言ってあげたいです。
 もう一つの問題点としては、まだここまで深く突っ込んでるメディアはありませんので私が言いますが、蓮舫氏は明確に複数の嘘を今回ついています。一つ目と比べてこっちの問題の方が重いように私は思え、この一点で以って議員辞職にも相当するミスを蓮舫氏は犯しているともっと追究されるべきでしょう。

 では蓮舫氏がどんな嘘をついたかですが、一番大きなものとしては「既に国籍離脱をしていたと思っていた」という嘘です。既にあちこちで検証されていますが当初は出生時から日本国籍単独であると主張しておきながら途中で17歳の頃に父親と共に離籍手続きを取ったと本人は話してます。一方、過去のインタビューでは25歳時に台湾国籍を維持している(ついでに誇りも持っている)と述べており、一年や二年の差だったら思い違いも分からなくはないですが、この期間の差から考えると離籍手続きを取っていなかったことを初めから認識していたと考える方が自然でしょう。
 よくこの手の問題で日本のメディアはやたら本人の意見を重んじますが、政治家なんだから本人が何言おうが有権者がどう考え、信じるか否かの方が重要でぶっちゃけたところ本人が何を言おうが関係なく、自分がどう思うかが一番肝心というのが私のスタンスです。

 もう一つ、明確に嘘をついていると私が思う点は台湾大使館(便宜上この表記を維持)への国籍変更手続き有無の確認日時です。蓮舫氏は本日13日早朝に二重国籍状態であることを認め陳謝し、確認を求めていた台湾大使館から昨日12日夕方に連絡があったと述べました。しかし、実際大使館で働いたわけじゃなく断言できるものではありませんが、国籍の有無について確認するのに普通それほど時間がかからないように思えます。今回の騒動は先月末に第一報が出ており先週一週間フルに報じられ続けたことを考えると、この間に確認の返事位受け取ることは可能だったのではないかと思います。
 そして何より、今日が13日であるという点を考慮しても嘘をついているようにしか思えません。一体今日13日はどんな日なのかというと、民進党代表戦における地方議員、党員、サポーターの郵便による投票が締め切られる日であります。仮に今日より以前に二重国籍を認めてしまうと上記の投票が減る可能性があり、逆に代表選本選の15日以降に認めてしまうと、「わかっていたら投票しなかった」などとケチがついて仕切り直しの再選など当選取消を受ける可能性があるため、敢えて今日の13日か明日14日を狙って発表したのではないかと思えてならず、それくらい作為を感じる発表日程であるだけに確認日時は偽っている可能性が高いと私は見ています。

 別に私は政治家が嘘をついちゃだめだなんてそこまでの理想主義者ではありませんが、現状がどれほど異常であるかを本人が理解していない上になおも代表選当選にこだわる蓮舫氏のこの姿勢は政治家としても一個人としても理解の出来るものではありません。自民党側の視点に立てば、このまま蓮舫氏が代表選に当選してくれれば民進党を攻撃する格好の材料が得られるため敢えて今は批判を抑えているようにも見え、どうせ当選した所で本人はおろか党の足を引っ張ること羽目に見えてるだけに本気で政治のこと考えるならば今は一歩身を引く一手しかありません。それすらも把握できていないのであれば政治家なんて向いおらず、言ってしまえば論外以外の何物でもないでしょう。

  おまけ
 最後どうでもいいですが、ウシジマくんのマサル死ななくてなんかほっとしちゃった。

2016年9月12日月曜日

本名とハンドルネームの狭間で

 先日、リクルートスタッフィングに対して数年ぶりに電話取材を敢行した際、電話口で最初に述べた第一声は、「お忙しいところ失礼いたします。私、フリージャーナリストの花園祐という者です」という口上だったのですが、これを言いながら、「何がフリージャーナリストやねん、っていうか花園祐って誰やねん(笑)」と思えてきて吹き出しそうになりました。
 言うまでもありませんが「花園祐」というのはハンドルネームであって本名ではありません。本名はこのハンドルネームと一文字も被っていないどころか文字数も違うし、高校時代に使っていた筆名もまたこれとは異なるのでこっから私の人物を特定するのはほぼ不可能と言えるのですが、冷静に考えるとこのブログを通して私のハンドルネームを知っている方は恐らくそこそこいて、多分その数は確実に私の本名を知っている人数を上回っていることでしょう。

 なもんだから、果たして自分の名前としてどっちが適当なのかなとふと思う時があります。本名は戸籍にも使われている名前だし法制度的には間違いなくこっちの方に分がありますが、こと人物の識別、伝達においてはハンドルネームの方が圧倒的に優位です。っていうかブログ始めるに当たってパッと思いついた名前だというのにそこそこ浸透してきたなと思えてなんかいろいろと複雑です。
 なお名前の「祐」という字は友人の名前から一字拝領したものですが、その友人からは私のハンドルネームについて「少女漫画家っぽい名前に見える」と言われ軽いショックを受けました。

 そんな名前にこだわりは持っていませんが、今後も外で活動する際はこのハンドルネームを使っていくんだろうなと思うと意外と付き合いが長くなる名前のようにも思います。そういう意味では変に中二病っぽい名前にしなくて正解だったなと思うと共に短いので書きやすい点ではプラスであったでしょう。最近巷では変な名前を子供に名づける親が多いというしかつては忌字であった花の名前(咲いてしおれることから若死にを暗示するため)も平気でつける親も多いですが、伏兵的な意味で平凡な名前にした方が何毎も便利でいいと今のハンドルネーム使ってて思います。
 なお、日本史上で最初のDQNネームを使った名付け親は子供にマリアやフリッツと漢字当て字でつけた森林太郎で間違いないでしょう。

2016年9月11日日曜日

日本の火砲の運用史

 なんか昨晩からずっと記事を書いてるような気がするのですがどうかしたのだろうか。金曜の晩、大学の先輩を始めとしたメンバーと夜中に漫画喫茶で「いただきストリート」をしたのが何か影響したのかもしれません。なおゲームは四人対戦で後半までずっとビリでしたが終盤に脅威の巻き返しを図り二位につけてやりました。
 さてこのところ中国、西欧の火砲というか火薬の軍事運用史を追っかけてきましたが、最終回として「誰も知らない、日本の恐ろしい火薬運用話」を展開します。ぶっちゃけほとんど火縄銃ネタですが、あんまこの辺の解説をする人少ないんだよね。

 日本と火薬のファーストインプレッションはみんな大好き13世紀の元寇です。この戦いでモンゴル軍は日本側からすると「てつはう」と呼ばれる手榴弾兼音響弾を使い、幕府側の資料にも記録されたほど兵器として注目されました。ただ注目されはしたものの深追いは全くなされず、そのため火薬自体の存在は伝わったかもしれませんが日本に定着することはなく、西欧と違って火薬の活用はこの時は全く行われないまま数百年を過ぎることとなりました。

 そして来る16世紀、具体的には1540年代前半に火縄銃が日本に伝来することとなります。この伝来時期と伝来方法については現在議論の真っ最中で、従来の様に1542年に種子島から伝来したという説よりかはほぼ同時期に近畿地方などにも伝わったとする説の方が真実味が感じられるのですがそれは置いといて、とにもかくにも1540年代に伝わって以降、火縄銃は日本で大ヒットすることとなるわけです。
 それから約60年後、1600年の関ヶ原の戦い時点で日本が保有していた火縄銃の数は50万丁を越えていたとされ、これは当時世界にあった銃火器の約三分の二にも達するという研究が出ています。

 これをヨーロッパ側の視点で見ると、流れ着いた島国の原住民が「売ってくれ」というから火縄銃を数丁売ってやった所、翌年にまたやってきたらそっくりそのまんまコピーして(発射機構はやや怪しかったそうだが)火薬の量産まではじめており、それから数十年で世界最大の量産国になっていたりと普通に考えてなんかおかしいです。戦国時代であったことからそれだけ需要があったというのはわかりますが、文明的に当時日本を上回っていた中国より先に量産体制を確保したばかりか三段撃ちを始めとする効果的な運用方法も西欧に先んじて独自に編み出し、朝鮮出兵時の序盤では朝鮮軍と明軍を実際に圧倒しています。
 一体何が日本人をこれほどまでに火縄銃へと駆り立てさせたのかいまいちよくわかりませんが、こと銃火器に限れば当時の日本は間違いなく世界ナンバーワンだったと断言していいでしょう。ただ銃鍵のカテゴリーであれば通常の火縄銃、バレルを延長した火縄銃、口径を大きくしたハンドカノンなどバリエーションを広げましたが、西欧と違って大砲を量産するにまで発展しませんでした。

 大砲自体は木砲を自作したり、ポルトガルから輸入して大阪の陣で運用されたりなどしましたが、日本国内で本格的に量産するまでには至りませんでした。背景としては二つあり、一つは大型の金属製大砲を自作するほど鋳造技術が足りなかった、もう一つは戦国時代が終わって需要が亡くなったためです。特に後者の影響は大きく、江戸時代に入って以降は農民反乱を防ぐためにも所持が制限されて、標準装備する鉄砲隊や狩猟に出る猟師以外には持たされなくなり全体の保有数も減っていき、また改良自体も行われないまま明治維新まで時が経ったわけです。

 それにしても戦国時代の量産量は異常というよりほかなく、別の視点から見ると火縄銃の軍需産業規模は一体どれほどあったのか非常に気になります。これだけの量であったことから輸入量を差っ引いても相当な人間が鉄砲生産に関わっていたとみられ、日本全国単位でのキャッシュフローにも大きな影響を与えていたことでしょう。仮にこの時の水準のまま発展していればとんでもない銃火器も作っていたのでは、下手すればビームライフルやレールガンなども作れていたのではないかと思いつつそりゃないかと我に返る次第です。

2016年9月10日土曜日

続・永田寿康元議員の自殺について

永田寿康元議員の自殺について

 上記記事は2009年に私が書いた記事ですが何故か今現時点でやたらとアクセス数が高くて困惑しています。っていうよりもこの件についてはほかにも書いてる人がたくさんいるというのに何で私の所ばかり来るのかもわからないのですが、書かないよりは書いてあげた方がいいなって気がするので一応「その後」の話を書いておくことにします。
 にしても上の記事書いたの七年前か、この頃は新卒で入った日系企業で文字通り「髀肉の嘆」をかこっていたな。七年前の自分が今の姿になるとはいくら自分でも想像できなかったろう。

ついに逮捕!「偽メール事件」で議員(故・永田寿康氏)騙した“サギの天才西澤孝・40”の手口(FLYDAY)

 結論から言うと、永田元議員が議員辞職してその後に自殺へと至るきっかけとなった偽メール事件でメール文を偽造したとされる西澤孝は、その後も詐欺を繰り返し続けて逮捕立件されていました。

 この西澤孝は偽メール事件を引き起こす前も、元プロ野球選手で先日大麻で捕まった清原容疑者の現役時代に彼の行動について事実とは異なる取材記事を週刊誌に書いたことにより清原容疑者に訴訟を起こされ、その記事を掲載した週刊誌に多大な賠償金支払い命令が下される判決を招いています。なおこの時の裁判結果を受けてどの週刊誌も訴訟リスクを検討するようになり、以前と比べて憶測、というか妄想の類の記事は掲載しない方針となっていったのですが週刊新潮はそうでもなかったようです。

 色々と説が飛び交っているものの、永田元議員は西澤孝の直接の知り合いではなく、別に信頼する人間を仲介して知見を得て例のメールを得たとされ、その仲介した人物を深く信頼していたことからその内容をまるっと信じ込んだと言われています。もっとも、あの内容と文面で信じたこと自体が異常極まりなく、なんの裏付けも行っていなかったことから言っても週刊誌記者と同レベルの判断力だったとしか言いようがないのですが。

 それにしてもカスはカスで余計な毒を社会のあちこちにばらまくだけばらまくのだなと、その後の成り行きを見るにつけ思いにふけます。極端なことを言うと、世の中には弁護のしようがないほど本当にどうしようもない人間は確実に存在しており、下手に野放しにするくらいなら殺害するか隔離した方がその周囲を含めて絶対にプラスだと思える人間がいます。先日、和歌山で起きた発砲事件然り、この西澤孝然り、早めに処分なり追放なりしないからこういうことになるのだと思えてならず、もう出所しているかどうか知りませんが出所したらしたでまた同じようなことをしでかすに違いないと考えています。

 もっとも、永田元議員が惜しまれるような人材だったかとなると自分でも少し疑問符はつくのですが、あれほど頭の回転が速く切り返しの強い政治家は現時点においても私が見る限りおらず、この点に関しては誠に稀有な人間だったと太鼓判を押します。私の知る限りあれほど言い合いが強い人物となると元オウム真理教の上祐史浩氏くらいなもので、私の中ではこの二人が未だにトップツーです。

 紙幅がやや余っているので最近の政局について述べると、社民党が実質的に滅んだ今、民進党はそのまま社民党と同じ崩壊への道をこれから辿ることになると予想しており、蓮舫氏が代表になることはまさにその第一歩になるでしょう。女性に政治が出来ないなんて言うつもりはなく単純に代表としての資質や能力に欠ける上、それを支える人材もいないためですが、一番致命的なのは本人らがそれを自覚していないことで、補完するための努力を明らかに怠っています。現時点で代表たり得る人物は私が見る限り野田元首相しかおらず、彼の名が出てこない一点を通しても組織として民進党は疑問を覚えずにはいられません。

西洋の火砲の運用史

 前回に引き続きまた火薬の軍事利用に関する歴史を追っていきます。前回は火薬の発明国でありながら軍事転用に関しては軽い手榴弾レベルからなかなか発展させることが出来なかった中国を取り上げましたが、今回はある意味本場の西欧世界での運用を取り上げます。

<フス戦争での火器運用>
 西欧に火薬が伝わった時期についてははっきりとわかっていないものの、おおよそ11~12世紀頃であると推測されています。伝来方法はかつて紙がタラス河畔の戦いで中国から中東経由で伝わったように、大陸を席巻したモンゴル軍団の西欧・中東世界への侵略に伴い火薬も伝わったと見られています(異説もあり)。
 火薬が西欧世界へ伝来した後、その軍事転用は早くも行われ英仏百年戦争の時点で簡易的な大砲が出現したとされます。用途としてはやはり攻城戦で使われることが多く、大砲の発射に使ったり城壁の爆破などと補助兵器として使われたそうですが、それが戦争に対して大きく影響を及ぼすようになったのは15世紀前半にチェコで起こったフス戦争からです。

 気に入らない人間を窓から投げ捨てることに定評のあるチェコ人によって起こったこの宗教戦争で一般大衆によって構成されるフス派についた傭兵のヤン・シジュカによって、まだ非常に原始的だったマスケット銃が組織的に運用されたほかこれまた簡易的なハンドカノンなども応用され、戦局に大きな影響を与えました。
 この時使われたマスケット銃はまさにこの15世紀前半に発明されたばかりで、その後ドイツで徐々に量産体制が作られていきヨーロッパ中に広まっていきました。

<大砲デビュー>
 このフス戦争と共に火薬の軍事利用において大きな契機となったのは、1453年のコンスタンティノープル包囲戦です。この戦争は東ローマ帝国ことビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)がオスマントルコのメフメト二世により攻撃され陥落し、ビザンツ帝国が滅亡した戦いになるのですが、この戦争でメフメト二世はウルバンという名のハンガリー人技術者を雇い巨大な大砲、俗に言う「ウルバンの大砲」を作らせ、これによって城壁の外から攻撃を行いました。
 このウルバンの大砲は青銅で作られたものですがその全長はなんと8メートルにも達し、現代人の目から見てもとてつもなく巨大な大砲でした。発射するのは鋼鉄の砲弾ではなく主に岩石だったそうですがその重さは500kgを越えるとされ、技術が浅かったことから一回の八社ごとに数時間のインターバルが必要であったり、運用開始から6週間程度で壊れて使えなくなったもののその効果と威力は凄まじく、攻城戦における大砲の有意性に対する認識を大いに高めてこれ以降、西欧各地で大砲の生産、装備が進んでいきます。
 なおウルバンは当初、ビザンツ帝国に自分の設計案を売り込んだそうですが拒否されただけでなく逮捕されかけ、逆にオスマントルコへ売り込んで作ったそうです。罪な男ではあるが技術者魂は強く感じる。

<違いは鋳造技術?>
 こうして西欧は中国に先駆け、銃と大砲を兵器として自らの戦術に取り込んでいきます。一体何故、火薬を発明した中国に先駆けて西欧でこれらの火薬兵器を運用するに至ったのかその背景を私なりに述べると、一つは中国がその爆発力と音響力に着目したのに対し西欧では推進力、弾丸を発射する方向で発展せしめたのと、火薬兵器の母体となる銃や大砲といった金属器の鋳造技術が優れていたからではないかと見ています。専門でないため詳しくわかりかねますが一見すると鋳造技術では西欧の方が中国を上回っているようにみられ、食器とかも西欧では金属製だったことも影響しているのかなと勝手に考えています。

 話は戻りますがこうして西欧各地で銃と大砲がバンバンつくられるようになり、大航海時代には標準的な装備兵器として定着していきます。特にスペイン人の南米への侵略においてはこれら火器が威力を発揮してごく少数の部隊で現地住民を屈服せしめるほどで、火器の有用性はますます高まっていきました。特に海戦においてはそれまでは船体を突っこませ、相手の船に乗り込んで白兵戦を行うというスタイルから、銃や大砲で双方打ち合うというスタイルに大きく様変わりし、これはそのまま現代においても変わりありません。

 銃火器単体を取ってしてもイェニチェリドラグーンといった銃を基本装備とする専門の花形部隊も生まれ、列強が形作られるようになってきた三十年戦争等になってくると銃火器武装なしではあり得なくなってきます。なお西欧では火薬の原料となる硝石が貴重だったことから火薬生産は基本的に国家事業で運営され、生産方法が確立された後でもインドからの輸入が多かったそうです。

 最後ですが、火薬というか大砲を使った戦争においてもっとも大砲を効果的に活用したのは間違いなくナポレオンでしょう。彼自身が砲兵隊出身ということもあって砲兵戦術を熟知しており、ヴァンデミエールの反乱において一般大衆目掛けて大砲をぶっ放してその地位を確立させたことといい、大砲とナポレオンは切っても切り離せない関係にあります。もっとも彼の場合は騎兵や歩兵の運用でも神がかっており、三兵戦術を完成させていますが。

2016年9月8日木曜日

中国の火砲の運用史

 ちょっとブログ記事で洩らしたところコメント欄でリクエストを求められたので、中国の火砲の運用史について昨夜の一夜漬けの成果をお見せします。

 まずそもそも火砲の定義とは何なのかですが、現在では一般的に「大砲」と同義とされています。ただ火器全般のことを「砲」とも呼び、また広義的には「火薬を使った兵器」とも言えるので、今回の記事では近代的な大砲はそれほど取り扱わずに火薬の発明からそれを用いたごく初期の火薬兵器についてその発展段階を追います。

<火薬の発明>
 まずそもそもの火薬ですが、これは中国四大発明に加えられるほど画期的なもので中国発祥であることは間違いありません。ただ発明時期とその瞬間については諸説あり、時期に関しては大体6~7世紀頃とされ(その時代の資料に火薬らしい物品の説明が登場する)、どうやって発明されたかについては説がたくさん分かれているものの、薬剤師が自前の薬を練っている最中に偶然発見した、っていうか急にパンって破裂してビビったというエピソードが個人的に好きだしありそうな気がします。

<それは爆竹から始まった>
 発明された直後はまだ生産量も少なく品質も悪かったためか民用はおろか軍用にもほとんど使用されなかったものの、大体10世紀の宋の時代辺りから徐々に軍事用途として活用が広がっていきました。ではこの時代の中国でどのように火薬が兵器として使われたのかというと、結論から言ってしまうと当初は爆竹として用いられたもようです。

火槍(Wikipedia)

 この時代の火薬兵器は決して冗談でもなく紛れもない爆竹で、竹筒の中に紙で撒いた火薬を仕込み槍の先につけ、敵に突き出したところで破裂させるというまさに爆竹そのものでした。目の前で破裂させてどないすんねんとツッコミが来そうですが殺傷目的というよりは音響による威嚇目的としての意味合いが強く、使用場所も城壁を登ってくる兵に向かって使ったりしたほか、北から馬に乗ってやってくる異民族の軍団に対してその乗っている馬を驚かす目的で使うことが多かったそうです。
 一応、中には物を詰めることで爆発共に発射させて殺傷する兵器もあったそうですが、火薬を詰める竹が構造上脆いこともあってそれほど強くなく、また火薬が悪かったことから一斉射撃も行えなかったそうです。多分当時の人も、これなら弓の方がずっとマシだと思ったことでしょう。

<てつはうという手榴弾>
 もっとも殺傷目的での火薬運用も全くなかったわけではなく、陶器でできた玉の中に火薬を仕込み導火線をつけ、火をつけた後で敵に向かって投げつけることで中の火薬が爆発し、外側の陶器が割れてその破片が飛び散ることで攻撃する兵器、日本風に言えば元寇時の「てつはう」もこの時代辺りから登場したそうです。この兵器は爆発力こそ現代とは比較になりませんが手榴弾そのもので、実質的に直接攻撃する用途で火薬を用いた兵器としてはこれが最初なのではないかと思います。
 しかしこのてつはうも手榴弾として使うよりかはやはり音響による威嚇効果目的の方が大きく、使う相手としても異民族がメインだったようです。なお外側の衣には陶器のほか鉄を用いた者もあり鉄球の手榴弾も存在したそうですが鉄球と聞くと無性に、「祖先から受け継いだ鉄球ッ!」と叫びたくなります

<モンゴル軍による火薬運用>
 こうして徐々に火薬の兵器利用が進みましたが、宋の時代はあくまで支援兵器的な役割が大きかったもののその宋を平らげた元ことモンゴル軍は火薬兵器に着目し、先程出てきたてつはうなどをより大規模に活用し始めました。また非常に原始的ではあるものの金属製の筒の中に石とか物を詰めて火薬で発射する、現代でいう「銃」もこの頃に中国で発明されましたが、生憎この銃の形態はそれほど発展せずに終わってしまいます。
 モンゴル軍が火薬兵器を活用したことは日本も元寇で体験済みですが、それ以上に影響が大きかったのは西洋世界です。遥かヨーロッパくんだりまで侵略したモンゴル軍によって中東、西欧にも火薬が伝わったことで(アラビア商人が伝来させたという説もあり)、西欧でも火薬の軍事利用がこの後ドンドン広がっていく、というかあっという間に中国を追い抜いて行ってしまいます。

<西洋に対する周回遅れ>
 明の時代に移ると、火薬の生産量も高まってきたことから軍事用にもたくさん使われるようになってきます。特に明を建国した朱元璋は戦闘で火薬を率先して使ったと言われており、火薬に関する軍事指南資料もこの時代によく書かれています。
 ただ火薬を使うと言っても、その推進力を使って弾丸を発射する銃はほとんど全く使われず、どちらかといえば攻城戦の際に城壁を破壊したりするために爆発力を利用するケースがほとんどだった模様です。一応、宋の時代に木製大砲(木砲)、元の時代に青銅製の大砲が出ており、元末から明初期にはこの木砲が反乱を起こした民兵がこぞって大量に使っていたとありますが、西欧ではこの辺の時代からマスケット銃を量産してアメリカ大陸を侵略したりし始めたのと比べるといまいち進化が遅いように感じます。

 実際、明が成立して戦争が減ると中国の火薬の兵器利用は西洋にますます後れを取り、それどころか火縄銃が伝来した日本にすらも運用面で遅れてしまっていたように見えます。実際、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に明軍も戦っていますが、朝鮮軍ともども日本軍が集中的に運用する火縄銃の前に序盤はずっと苦戦しっぱなしでした。

<西洋伝来の大砲で>
 極めつけは明末期、満州族が中原に侵略し始めた際に山海関の防衛戦で袁崇煥という元文官の武将がポルトガルから大砲を取り寄せ防衛を行い、敵軍を散々に蹴散らすという大活躍を収めています。なお満州族を束ね後の清王朝の太祖とされるヌルハチはこの戦闘で負った傷が元でそのすぐ後に亡くなっています。
 この戦闘が示す事実としては、大砲の製造、そして運用面で中国は西洋に対しこの時点で大きく劣っていたということです。自前で作れるのなら輸入なんてしないし、また敵軍である清軍も対抗策がなかったということは中国本土でこのような火砲がほとんど運用されていなかったとも考えることが出来ます。

 非常に残念な話ですが火薬の発明こそ中国であるものの、その火薬の軍事利用においては伝来先の西欧の方が格段に早く進んでしまいました。この理由についてはまた次の記事で書こうかと思いますが、百年戦争を始め軍事的需要が高かったことと、大砲を作る鋳造技術が上回っていたことが大きいのではと思います。
 その後、清によって中国が統一されて平和な時代が訪れるとますます火薬を使った軍事研究が西洋に比べて遅れ、後のアヘン戦争時にはどうにもならないほどの大きな差をつけられることとなったわけです。