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2009年1月30日金曜日

猛将列伝~田単~

 この猛将列伝も本当に久しぶりです。別に忘れていたわけじゃないのですが、このところはニュース以外に書くことなかったら連載記事を優先していたのでほとんど書くことがなくなって来ていました。
 それで今日は「田単(でんたん)」という人物について紹介しますが、この人のことを知っているのはほとんどいないといっていいくらい超マイナーな人物で、よっぽどの中国史マニアでなければまず知らない人でしょう。。

 田単は中国の戦国時代、西暦にすると紀元前三世紀の人物で斉国の下役人でしたが、それ以前に斉が滅亡の寸前にまで追い込んだ燕国が名将楽毅を擁して六カ国連合軍を作って攻撃を始めることによって一転、斉がそれまで所有していた七十城(中国は都市を城壁で囲んで城と呼ぶ。「七十都市」と言い換えても問題ありません)が奪取されてたった二城だけとなり、今度は逆に斉が滅亡の寸前へと追い込まれていました。しかもそんなドサクサにまぎれて二城の一つの莒城では宰相が斉の国王を殺して反乱を起こしこのまま滅亡かと思いきや、皇太子が宰相に逆襲したことによって城内で一致団結が強まり、これは攻め落とすのには難しいと判断した楽毅は軍勢を一旦引き上げ、残りの一城の即墨城(現在の山東省即墨市)へと兵力を集中させました。この城の中に、今日の主役の田単も逃げ込んでいたのです。

 即墨城に燕軍が攻め込んだことによって即墨も最初は応戦したものの、相手はあの諸葛孔明も尊敬したという楽毅とのことであっさり大敗し、その戦闘で即墨側は将軍が全滅するという非常事態に陥りました。そこでまだ兵学を勉強したことがあるということで重臣らは田単を将軍にしようと呼び出すのですが、当の田単は相手が楽毅では自分だとどうしようもないと固辞するものの、講和条件をよくするだけでもいいとせがまれてしぶしぶ承諾しました。
 そうして田単が将軍になった直後、なんと燕の国で突然国王が病気で死亡してしまいました。田単はこのニュースを受け、楽毅が今度国王となる皇太子とそりが合っていなかったという噂から、ひょっとすれば何とかなるかもしれないと希望を抱くのでした。

 田単はまずスパイを放ち、楽毅は遠征を続けるのは実は反乱や独立を考えているからだという噂を燕国内に流しました。これを真に受けた皇太子は楽毅に対して遠征の労をねぎらうという目的で将軍職を解いて交代する将軍まで派遣したのですが、楽毅としても新しい国王とはそれまで仲がよくなかったこともあり、その帰還命令に従えば帰国するや誅殺されると読んでそのまま帰国せずに他国に亡命してしまいました。
 こうして最大の障害である楽毅を排除すると田単はまず、城内の人間に対して毎日先祖へお供え物を出すよう命令を出しました。するとすぐにそのお供え物を狙って鳥が城内に飛び集まるようになり、これは神が降りてくる前兆だとして適当な人間を神の使者に仕立てて選ぶと城内の兵士に対し、
「これからはこの者の口から出る神の作戦を取る。命令をよく聞くように」
 と訓示し、それまで下役人ゆえに見くびって命令に従わなかった兵士を統率しました。

 そうして城内をまとめると田単はまたもスパイを使って燕軍の中に、
「捕虜は鼻そぎの刑にあっているらしい」
「城の外のお墓が荒らされたらどうしよう」
 という根も葉もない噂を流し、またもそれを真に受けた燕軍は相手の戦意が落ちるだろうと考え片っ端からその流された噂を実行して斉軍に見せつけました。すると斉軍は思ってもないそれらの暴挙に怒り、必ずや逆襲して見せるとますます団結力が高くなり、田単の思うとおりに事が動いていきました。

 ことここに至り決戦の時期だと考えた田単は燕軍に使者を送り、城内の反対する人間を説得したら降伏するから五日の猶予をくれと、偽の降伏を燕軍に申し出ました。燕軍としてもそれを聞いて長らくの遠征がようやく実ったと将兵揃って大喜びし、申し出通りに五日の猶予を与えてしまいました。
 すると田単はその日のうちに城内の食料をすべて放出して兵士に与えて体力をつけさせると、一部の城壁に穴を空けて城内の牛をねこそぎ集め、その牛の角に刃物をくくりつけて夜を待ちました。そして夜に入るや、田単は集めた牛を一挙に城壁の穴から追い立て、その後にはそれまでの斉軍の暴挙に怒りを持った兵士を突入をかけるという奇襲を行いました。対する燕軍はすっかり相手は降伏するもんだと油断していたのもあり突然の奇襲になすすべもなく、楽毅の代わりにきた将軍もその夜のうちに討ち取られて城を包囲していたのが一挙に敗走にまで追い込まれました。

 こうして即墨を救った田単はその後も燕軍に奪われた城へ攻撃をかけると、一度は降伏したそれらの城の軍勢も悉く田単に呼応して燕に対し反乱を起こしたために、あっという間に田単は首都を含む奪われた七十城をすべて奪い返してしまいました。その功績に対し、首都に戻ってきた国王は田単に多大の領地を与えてその救国の功績に報いました。
 前にも書いたように、史記には才能も実力もある人物がほとんど報われない話が多く、作者の司馬遷はそれを評して「天の力は微なり」という言葉を残していますが、そんな史記の中でこの田単のエピソードは数少ない成功したエピソードで、私が史記の中で一番好きな話でもあります。

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